ご本願を味わう

『仏説無量寿経』5b

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 法蔵発願 讃仏偈

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【五】・・・
 〈光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの焔明、ともに等しきものなし。
 日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし。
 如来の容顔は、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。
 戒と聞と精進と三昧と智慧との威徳は、侶なくして、殊勝にして希有なり。
 深くあきらかに、よく諸仏の法海を念じて、深きを窮め奥を尽して、その涯底を究む。
 無明と欲と怒りとは、世尊に永くましまさず。人雄獅子にして神徳無量なり。
 功勲広大にして、智慧深妙なり。光明の威相は、大千を震動す。
 願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
 布施・調意・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。
 われ誓ふ、仏を得たらんに、あまねくこの願を行じて、一切の恐懼〔の衆生〕に、ために大安をなさん。
 たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、
 一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
 たとへば恒沙のごときの諸仏の世界、また計ふべからざる無数の刹土あら
 んに、光明ことごとく照らして、このもろもろの国に遍じ、かくのごとく
 精進にして、威神量りがたからん。
 われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん。
 国泥Eのごとくして、しかも等しく双ぶものなからしめん。われまさに哀愍して、一切を度脱すべし。
 十方より来生せんもの、心悦清浄にして、すでにわが国に到らば快楽安穏ならん。
 幸はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、これわが真証なり。願を発して、かしこにして所欲を力精せん。
 十方の世尊、智慧無碍にまします。つねにこの尊をして、わが心行を知らしめん。
 たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ〉」と。

 『浄土三部経(現代語版』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【五】 ・・・・・
世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
その光明には何ものも及ぶことなく、
太陽や月の光も宝玉の輝きも、
その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、
さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。
持戒と多聞と精進と禅定と智慧、
これらのお徳は並ぶものがなく、とりわけすぐれて世にまれである。
さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、
その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、
人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておいでになる。
その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ、
輝く光のお力は、世界中を震わせる。
願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように
迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、
このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、
その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、
それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、
固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏たがの世界があり、
はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、
わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、
おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、
涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜びに満ちた清らかな心となリ、
わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。


 【大無量寿経点睛】(島田幸昭著『八葉通信』第14号) より

【大無量寿経点睛】
発願のうた
経意
 法蔵比丘は世自在王仏に遇うた喜びの感動を、うたを以て称[たた]えた。
一 讃仏(総讃)
 光輝くお顔は気高く、
 お姿の放つみいつは極まりない。
 日も月もはた珠もみな、み光の前には光を失って炭団[たどん]の如[ごと]。
<別讃(1)容[すがた]の徳>
 如来の尊いお姿は世に越えて、さとりのみ声は十方に響き渡る。
<(2)行の徳>
 戒と聞と精進と三昧と智慧、その徳は勝れて並ぶものはない。
<(3)住徳>
 深く諦[あきら]かに諸仏の法海を念じて、奥を究め底を尽くして極まりない。
<(4)断徳>
 無明と欲と怒は世尊にはなく、雄々しいお姿は獅子王の如。
<(5)仏徳>
 お徳は高く智慧は深く、みいつは広く大千を振動する。
二 発願[ほつがん](総願)
 願わくは我れ仏となって、聖法の王と斉[ひと]しくならん。
<別願(1)願心(A)自利>
 生死を離脱し、布施して意を調え、持戒し忍辱し精進して、三昧と智慧を主眼とせん。
< (B)利他>
 吾れ仏となって普[あまね]くこの願いを行じ、一切の恐懼の為に大安とならん。
<(2)道心>
 たとい百千億万無量の仏があろうとも、これら一切の仏を供養するよりも、ひらすらわが道を求めて止まぬに如[し]くはない。
<(3)願事(A)光明無量>
 たとえば恒沙の数の諸仏の世界、また数限りない宿業の社会、これらの世界の悉くを照らして、光明量りなからん。
< (B)国土第一>
 我れ仏となって国土は第一に、住民はりっぱで、道場としてこの上なく、国は涅槃の如くで、並ぶものなからしめん。
< (C)衆生愛愍>
 一切の迷える者を哀れんで心の眼を開かしめ、十方より我が国に来たり生まれるものは、心の喜びは清らかに、真実の楽しみを知らしめん。
三 決誓<(1)師仏請証>
 幸[ねが]わくは世尊よ、これが私の心からの願いであり、しかもこれは万人の共感を得られるものと思います。ご証誠下さらんことを。
<(2)諸仏護念>
 十方の世尊は、智慧に碍りがない。常に私の心行を見護り賜らんことを。
<(3)決誓>
 たといこの身はどんな苦難に遇おうとも、私は精進して決して悔いは致しません。

【科文】
 この段は、法蔵菩薩が師の世自在王仏に遇うたその感動を、頌[うた]を以て称[たた]えているのですが、その頌は初めに師の徳を讃め、次にそれによって自分の胸に発こった願いを表白し、最後に必ずその願いを成し遂げる決意を述べています。

【頌[うた]の名】
 この頌は今まで「讃仏偈[さんぶつげ]」とか「嘆仏偈[たんぶつげ]」と呼ばれて来ましたが、この頌はこの経の要であり命である、四十八願を産み出す重要な総願ですから、「発願[ほつがん]の偈[げ]」と呼ぶのが適当であると思います。今までこのことに気がついていた人はいなかったのか、四十八願の総願に「四弘誓願」を当てていますが、これは菩薩一般の総願であって、特殊な法蔵菩薩のものではありません。したがって今まで四十八願が理解できなかった原因の一つはここにもあります。

【世自在王仏の名】
 仏教ではものの名の意味を大切にしています。私たち日本人には聖徳太子、最澄、親鸞、西田幾多郎などのような優秀な哲学者を産み出す素質を有[も]っているのですが、また韓国の学者から『縮み志向の日本人』と評されたように、何でも縮め略し簡略化して便利にする習性があって、ものの名でも記号化・符号化しています。
たとえばテレビジョンをテレビに、情報技術をITに、アミダをミダに、アラカンをラカンになど、名を記号に変えて全く意味が失われています。それが悪循環して日本人自身の理解力が常識的に低下しています。たとえば神仏のお陰と、神と仏が混同されたり、仏といえば死んだ人とか、祖先のこととか、その他言葉の履き違えは限りがありません。本論に帰ります。
 世自在王仏は人の名ではありません。理想の人間像のことです。この世において何事に対しても、無碍自在に生きる人間としての覚者であり、自分の国の王のことです。経の序文に釈迦の徳を「一切の法において自在を得たり」という、その人格者のことです。
常識では自由自在といって何でも自分の思いのままになること、わがままと混同されていますが、「自由」は自らに由るで、「自分の足で自分が歩くことのできる人」のことといわれていて、他人の命令や金の力また名誉心など、欲のために使われず、自分の意志で判断して責任以て行う自覚者のことです。したがって政治家が自由民主主義といっている多数決とは違います。
「自在」とは(1)我れここに在りと、(2)自[おの]ずからここに在るとの二義があります。(1)は自覚のことですが、哲学でいっているたんなる眼覚めのことではなく、場所的自覚のことで、わしは人間であった、わしは親であった、わしは王であったと、自分が置かれている場所からの呼び覚ましによる自覚のことです。仏教ではそれを蓮華の座で現しています。
また(1)の我ここにありは自分を名告ることですが自分表現で、われはこういうものであると、自分の全存在を挙げて、自分の有っている全ての徳を一つ一つの言行に表現することです。禅にいう全機現[ぜんきげん]です。外に向かっては「一切の法において自在であり」、主体的には自分の内なる全ての徳が一言一行に働くことです。
「王」は、人間は自覚によって自分が誕生すると同時に、自分の国が見つかり、自分がその国の責任者の王として眼覚めること。
「仏」は覚者と翻訳されていますが、それは道教からの借用語で、自覚と同時に自己形成といわれる、卒業のない永劫の修行によって王としての徳を実現することです。

【法蔵菩薩は国王である】
 法蔵の名はどこから付けられたのか。今までは「時に国王あり、仏の説法を聞いて心に悦びを懐き、無上正真の道意を発こし、国を捨て位を捨てて沙門となり、法蔵と号す」という。法を聞いて心に悦びを懐くそれによって師の徳が法蔵の徳となった、そこから法蔵の名が付けられたといっています。それは世自在王仏に遇うたことによって今まで眠っていた仏性が眼を醒ましたことですから、私は法蔵の名の由って来た元は、『華厳経』の善財童子からであろうと思っています。善財は善い宝の持主ということですが、善い宝とは誰にでも本来生まれながらに具わっている仏性のことで、それをさらに法蔵にまで高めた名と思っています。
 さらに今までは「国を捨て位を捨てて沙門となった」を、言葉通りに、釈迦のように実際に出家して一介の修行者となったといわれていますが、その答礼の「発願の偈」にも「我が国」といっているのは、国王を辞職したのではなく、世自在王仏の徳に打たれて、わしは国王でありながら国王としての徳がなかった。名ばかりの恥ずかしい国王であったと自ら懺悔して、まことの国王らしい国王に成りたいと、国王が国王として眼覚めたことをいっているのです。今日までアミダ仏のことを「親さま」と呼び慣らして来たのは、今までの日本浄土教は観経宗であったのと、日本人の精神年齢が幼稚であったからでしょう。
 因みに『大経』では、本願を選択する間は法蔵比丘といい、本願を成就する永劫の修行の間は法蔵菩薩と使い分けしていますが、比丘とは食を乞い法を乞う人という意味で、ひたすら聞法に専念して自身の智慧を深めることを現し、菩薩は人間関係の社会生活を通して、人間としての徳を身に即[つ]けることを区別しているのでしょう。

【師の徳を讃める心】
 初めの師の徳を称[たた]えている言葉を、今までは師の徳を身口意の三業に配したり、『浄土論』の五念門の行に当てはめたりしていますが、皆言葉に囚われて称えている法蔵菩薩の心を忘れています。虚心に読んでみますと、初めの「光り輝くお顔は気高く・・・・」は、出遇いの感動の端的な表現、そこに出て来る日の光月の光は徳の光と比べていますが、そんなことは問題ではありません。これは自分のして来たこと、自分の生き方が空しく無価値であることに気がついた時、「世の中が真っ暗になった」というあれです。
法蔵菩薩が師の前に立った時、自分のみすぼらしさ徳のなさを照らし出されて、心に懺悔し涙しているのです。世の中が暗くなったのではない、法蔵の胸の内が真っ暗になったのです。讃嘆は懺悔の鏡であり、懺悔の涙に光る輝きです。
 これから下は師の徳を一つ一つ称えながら自分を内観しているのです。
<別讃(1)容[すがた]の徳> 如来のお容が世に超えているのではない、法蔵の心をぺちゃんこにしているのです。「さとりの大音」はお口から出る声ではない。お姿から受けるみいつのの威圧に、法蔵の全身が圧倒されて唸っているのです。
<(2)行の徳> 仏は修行しなくてもよいと思いがちですが、仏としての行を行じているのです。「水鳥の休む暇なき鳥の足」。そうかといって仏は自分は卒業して、衆生救済に忙しいということではない。曽我先生が「アミダの胸に法蔵菩薩が生きて働いている時だけ、アミダは仏として光り輝いているのである。もしアミダの胸に法蔵が働かなくなったら、アミダは忽ち抜け殻となって、頑固親父になってしまう」と。
「戒」とは身を慎むこと。ある浪曲師が「私は公演に出る時は、たばこはもちろん酒も女も一週間前から慎みます。それは声が濁[にご]るからです。お客様に芸はもちろん最高のきれいな声で、皆さんに楽しんで頂きたいからです」と。
「聞」は仏の法と大地の声を聞くこと。空吹く風の声も弥陀の説法、道行く人からも無心に遊んでいる幼子からも、「人は人によって初めて人になる」、見るもの、聞くものから、浄土の法と大地の叫びを聞くことです。
「精進」は西洋の哲学者が「不断の智的快活」と訳しているように、そうせずにおれぬ内なる真心[まごころ]に押し出されて、常に自ら喜んで励み行うこと。やせ馬の尻を叩くような奮闘努力とは桁[けた]が違います。
「三昧」は常識では読書三昧とかぜいたく三昧といって、その事一つに熱中することをいっています。精神が集中することは、人間として大切なことで、その道の名人達人は皆集中力が深いことが条件です。反対に気が散る人はチンパンジーに近いそうです。しかし仏教でいう三昧は空とか禅といわれているように、対象に向かって熱中するのではなく、一切の雑念が消えて、もっといえば理性が働く大脳が停止して、生命本能が歴史的に進化した脳幹が働き出す邪魔をしないことです。
「智慧」は三昧によって得た空智といわれる慧が現実に働いて、形をとった森羅万象や、形を超えた行為的世界の社会や浄土が見える仏智のことです。それは、山を見ても川を見てもそこに歴史的先祖の遺産が見え、空吹く風の音にも鳥の鳴く声にも、そこに仏の説法を聞くことの出来る、無生法忍といわれる信心の智慧のことです。
<(3)住の徳> 仏はどんな世界に住んでいて、どんな立場からものを見たり行動しているのか。仏は常に深い三昧に住して明らかな智慧を以て、十方一切の諸仏を念じて、その奥を究めている。
私は終戦後間もない時、仏教婦人会の花祭に招かれて、小学校の一年から六年までの子ども三十人ばかりに、お釈迦さまの話を頼まれたことがあった。ちょっと困ったが承諾して、「今日はお釈迦さまのお誕生日。世の中に偉い人賢い人はたくさんおられるが、お釈迦さまは世界中で一番尊い人です」。
ここまで話した時、六年生の男の子が「尊いとはどういう人ですか」。
「皆さんはどういう人と思う?」
五六人の声が一緒に「みんなから拝まれている人です」
「どうして皆から拝まれていると思いますか」
「……」
「お釈迦さまはどんな人をも拝んでおられたから、どんな人からも拝まれたのです」と言ったら、六年生の子が「解った解った」。仏仏相念の念仏とはそういう世界です。
「光顔魏々[こうげんぎぎ]」とは、仏のお顔がちょうど富士山のように高くそびえて神々しいことですが、それは富士山が裾野を広く踏まえて高いからです。仏はいつも心に一切の人を念じているから、一切の人から念じられていて、その心境が姿に現れているから、「山王の如し」と説かれているのです。
<(4)断徳> 仏の姿が尊く見えるのは、心に無明と欲と怒りがないからです。それは心の眼が開いていて全てのことが解るから、人からよく見てもらおうという邪心もなく、何かにあり着こうとする野心もないから、人の顔色を窺うたり、必要以上にぺこぺこ頭を下げることもいらない。「獅子王の如し」と称えています。
<(5)仏の徳> 仏は心の眼が開いて智慧に限りがないから、生きることに自在であり、徳が備わっているから、人から尊敬されて、言うこと行うことに随喜して、妨げるものがない。世の人々から人の宝、世の宝とかしずかれることを、三千大千世界が六種に震動すると称えているのです。ここから後が法蔵の発願です。

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