ご本願を味わう

『仏説無量寿経』4

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 法蔵発願 五十三仏

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【四】 仏、阿難に告げたまはく、「乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめてすなはち滅度を取りたまひき。次に如来ましましき、名をば光遠といふ。次をば月光と名づく。次をば栴檀香と名づく。次をば善山王と名づく。次をば須弥天冠と名づく。次をば須弥等曜と名づく。次をば月色と名づく。次をば正念と名づく。次をば離垢と名づく。次をば無著と名づく。次をば龍天と名づく。次をば夜光と名づく。次をば安明頂と名づく。次をば不動地と名づく。次をば瑠璃妙華と名づく。次をば瑠璃金色と名づく。次をば金蔵と名づく。次をば焔光と名づく。次をば焔根と名づく。次をば地動と名づく。次をば月像と名づく。次をば日音と名づく。次をば解脱華と名づく。次をば荘厳光明と名づく。次をば海覚神通と名づく。次をば水光と名づく。次をば大香と名づく。次をば離塵垢と名づく。次をば捨厭意と名づく。次をば宝焔と名づく。次をば妙頂と名づく。次をば勇立と名づく。次をば功徳持慧と名づく。次をば蔽日月光と名づく。次をば日月瑠璃光と名づく。次をば無上瑠璃光と名づく。次をば最上首と名づく。次をば菩提華と名づく。次をば月明と名づく。次をば日光と名づく。次をば華色王と名づく。次をば水月光と名づく。次をば除痴瞑と名づく。次をば度蓋行と名づく。次をば浄信と名づく。次をば善宿と名づく。次をば威神と名づく。次をば法慧と名づく。次をば鸞音と名づく。次をば師子音と名づく。次をば龍音と名づく。次をば処世と名づく。かくのごときの諸仏、みなことごとくすでに過ぎたまへり。

 『浄土三部経(現代語版』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【四】釈尊は阿難に仰せになった。
「今よりはかり知ることのできないはるか昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。次に光遠という名の仏がお出ましになった。その次に月光[がっこう]・栴檀香[せんだんこう]・善山王[ぜんせんのう]・須弥天冠[しゅみてんがん]・須弥等曜[しゅみとうよう]・月色[がっしき]・正念[しょうねん]・離垢[りく]・無著[むじゃく]・龍天[りゅうてん]・夜光[やこう]・安明頂[あんみょうちょう]・不動地[ふどうじ]・瑠璃妙華[るりみょうけ]・瑠璃金色[るりこんじき]・金蔵[こんぞう]・焔光[えんこう]・焔根[えんこん]・地動[じどう]・月像[がつぞう]・日音[にっとん]・解脱華[げだっげ]・荘厳光明[しょうごんこうみょう]・海覚神通[かいかくじんずう]・水光[すいこう]・大香[だいこう]・離塵垢[りじんく]・捨厭意[しゃえんに]・宝焔[ほうえん]・妙頂[みょうちょう]・勇立[ゆうりゅう]・功徳持慧[くどくじえ]・蔽日月光[へいにちがっこう]・日月瑠璃光[にちがつるりこう]・無上瑠璃光[むじょうるりこう]・最上首[さいじょうしゅ]・菩提華[ぼだいけ]・月明[がつみょう]・日光[にっこう]・華色王[けしきおう]・水月光[すいがっこう]・除痴瞑[じょちみょう]・度蓋行[どがいぎょう]・浄信[じょうしん]・善宿[ぜんしゅく]・威神[いじん]・法慧[ほうえ]・鸞音[らんのん]・師子音[ししおん]・龍音[りゅうおん]・処世[しょせ]という名の仏がたが相次いでお出ましになって、みなすでに世を去られた。


 【大無量寿経点睛】(島田幸昭著『八葉通信』第12号) より

【大無量寿経点睛】
(5)過去の五十三仏
経意
 仏は阿難に告げた。「昔、昔、まだ昔、もう一つ昔のその昔。錠光如来がこの世に出て、数限りない衆生を教え育てて、自我愛を離れて道を覚らせ、この世を去った。次の如来を光遠と名づける。次を月光と名づけ、次を栴檀香と名づけ・・・(この間四十五仏)次を鸞音と名づけ、次を獅子音と名づけ、次を龍音と名づけ、次を処世と名づける。このような諸仏が皆悉くすでに過ぎ去った。

【科文】 いよいよこれから釈迦の説法です。説かれることは釈迦の自覚内容ですが、経の説き方が今までの原始経典や大乗経典のような、大衆に向かっての大説法とは全く違って、あたかも自分の子か孫に語りかけるように、しみじみと過去の憶い出話をする口調で説き出されています。この段は師の世自在王仏と、この経の主人公法蔵菩薩が現れる前段階。

【五十三仏の順序】 ここに先ず過去に次々に五十三の仏がこの世に出て、数限りない衆生を教え育てて、この世を去ったことが説かれているのですが、その仏たちの出た順序が二様に伝えられています。この『大無量寿経』が中国語に翻訳されたのは、北魏の時代(紀元二五〇年頃)ですが、それより前に(1)後漢の時代と(2)呉の時代、そして(3)『大経』のあと(4)唐の時代と(5)宋の時代と、合わせて五種の経が翻訳されています。『大経』を正訳としてその他の四本を異訳といっています。その中で、(1)(2)(3)は、最初に錠光如来が出て、その次その次と最後が処世如来になっていて、五十四番目に世自在王如来が出たことになっているのですが、(4)と(5)の二本が初めに燃灯仏の名を挙げてその前その前と過去に逆上って、世自在王仏が一番大昔にこの世に出たことになっているのです。
考証は止めて結論だけ。私は『大経』が正しいと思っています。親鸞が「真実の教えは大無量寿経これなり」といったのも、アミダ仏のことを説いた五本の経は皆真実といったのではなく、『大経』だけを真実といったと思っています。

【五十三仏の見方】 ここに説かれている五十三仏をどういう仏と見るかについて、今までに三通りの説があります。一は、釈迦と同じような人間仏と見る説。これは明治時代に出た人の説が有名ですが、これは昔々と説き出されている経文の感じとしっくりせぬだけでなく、釈迦が一番初めの仏で、釈迦以前に仏は出ていません。第二は、ある一つの真理とか道理を解り易く物語りとして説いたもので、たとえば仏性というものを物語風に説いたという見方です。これは徳川時代の学者が言っているのですが、この経の趣意とは全く違います。第三は金子先生の説ですが、これは一つの物語である。経が昔々と説き出している感じから言ってもそれが自然である。しかし『桃太郎』や『浦島太郎』のような、何か言いたいことがあって、それを寓話として、説いた物語ではない。これは真理とか道理よりももっと近いもっと深いもので、物語として説くより外に現してみようのない、人生を経験した人の実感を説いたものであるといっています。これは経文に最も適わしい受け取り方と思いますが、何かもう一つこれだという実体がはっきりしていないので、靴の上から掻くようなもどかしさが残ります。

【事実を語るな。真実を語れ】 この五十三仏は過去の人間の歴史を物語っているに違いない。しかし今までは『旧約聖書』の「創世記」にしても、『古事記』や『日本書紀』にしても、先祖の系図であり、また個人の回想録にしても皆、こういうことがあったとい、その人の歩いた足跡の事実です。経には「事実を語るな、真実を語れ」といい、金子先生は「自分を語るな、法を語れ」といっています。事実は結果であってそれは情報に過ぎません。またたんに自分を語る時には、自慢話か、何かの恨みの鬱憤晴らしか、それともぐちかであって、胸に一物を抱いて「初めに魂胆あり」といわれる不純のものが多いからでしょう。一般社会の常識の世界ではほとんどの対話が、その範囲のようです。
 もっと問題を掘り下げて、どうしてそういう事実が生まれたのか、何故そういう事件が起こったのか、その由って来る因縁とか、その背景にある事情とか、また生活環境の慣習とか、もっと深く人生とは何か、人間とはどういうものかという、私たちの生きる指針になるものを見出そうという願いのことを、経には「真実を語れ」といい、金子先生は「法を語れ」といっているのではないでしょうか。
 私の旅先で、一人の婦人が訪ねて来て「私の一生は言葉通りの波瀾万丈でした。私に字が書けるのなら小説にしたいと思います。ベストセラー間違いなしです」。 見るからに賢そうでしたから、「あなたの書きたい小説は、あなたが歩いて来た足跡でしょう。私はあなたのような人に聞いてみたいことがあるのです。それはあなたの一生の総決算を一口で聞かせて貰いたいことです」。
「へえ、私の一生を一口で言えと仰るのですか。こんな難しい問題は生まれて初めてです」。
しばらく考えて「そうです。深い深い誰も居らぬ山奥へ入って、腹の底から泣いてみたい。これが私の一生の総決算です」。
「どう言って泣くのですか」
「それが言えんのです」
「私が言ってみましょうか。ナモアミダ仏と言いたいのと違いますか」
「ご名答」。
これです。
 ここに説かれている五十三仏は、系図でもなく、またたんなる経歴でもない。悠久の大自然を背景として、幾山河を越えて来た、永い人生の一足一足の道みちに教えられ育てられてきた、これは命の叫び、血の記憶、その回想だと思います。それはそのまま人間が進化してきた精神史であります。精神が成長する進化の過程では、時には右に揺れ左に揺れ、時には行きつ戻りつしたことでしょうが、回想はそれを一本の道に系統立てることができるでしょう。
「また一つ、三十五億の血の年輪」。
 私は十七、八の頃、海岸の岩の上に腰を掛けて、夜半の一時二時まで、空を見海を見て、星のまたたきや波の音に耳を澄ませて、私の父も私の母も、また遠い先祖も私と同じように、もの思いに耽り、また死を考えたことであろうと思いました。

【五十三仏の正体】 この五十三仏がどういう仏であるか。それを金子先生は克明調べておられる。先生は仏の名を一つ一つ書き出してみて、そこに驚くべきことを発見したと。光という名のついた仏が十三、光に関係のある名が十五もあった。光の中でも月に関係のある名が殊に目につく。月の光、月の色、夜の光、月の像、水の光、水に映った月の光。また華の名のついた仏、また香[にお]いとか音とかで仏の徳を現している。それらの名を通して一つの基調がある。それは五十三仏の名は全体として、私たちを世の汚れのない静かな天地に導く。人間は何のために生まれて来たのであろうかと、深い人間の願いを憶い起こさせる静寂な世界へ導かれるものがあるといっています。
 ここに如来とか仏といっていますが、これは釈迦のような人間仏でもなく、またアミダのような法仏でもない。これは仏の四身の中の化仏です。化仏とは仏でないものを信仰眼によって仏と見たもののことです。たとえば越後の貞心が、椿の花が落ちたのを見て無常をさとった。それを仏の説法といい、親鸞が王舎城の悲劇を読んで、ダイバもアジャセも皆仏の仮の姿というようなもののこと。ここでは月や星によって教えられたので、月や星を仏といっているのです。

【錠光如来】 この世始まって初めて出たという錠光如来とは、どんなことを多勢の人に教えた仏であろうか。「錠」は『字源』にも『大漢和辞典』にも「たかつき、なべ、神に煮物を供える脚のついた器」とある。それに昔から燃灯仏と説いています。それは異訳の(4)唐訳に燃灯仏とあるのによったのでしょうが、何故だろうか。
私独り思うのに、これは、釈迦がこの世で初めて仏になったのは前世で仏に供養した功徳によってであると説いた『本生経』が元であろうと思います。それはある国を燃灯仏がお通りになった。それをお迎えするのに、雨降りあげくで道が泥沼になっていたので、多勢が土を運んで道ぶしんをしていた。ところが、予定より早くお着きになったので、皆当惑していた。その時一人の青年が飛び出して、燃灯仏の前に行って、「どうぞ私を橋にしてお渡りください」と言って、泥沼に俯[うつぶ]せになった。仏は背中を踏んで難なく渡ることができた。その青年の名はシュメーダという。この功徳によって、生まれ変わって釈迦となって仏となった、という話です。
 これは仏のために身を捧げたシュメーダの徳を讃えている物語です。今まで自分のことしか頭になかった人間が初めて、尊い仏のために身を捨てる心になった。そのことを人間に教えた最初の光を、錠光如来といったのであろうと思います。
そのことは初期の仏教が、飢えた七匹の乕[とら]を助けるために、わが身を与えた王子の「捨身飼乕[しゃしんしこ]」の物語や、また半偈の法を聞くために、羅刹にわが身を与えた「捨身聞偈」の雪山童子の物語からでもいえるのではないでしょうか。

【五十三仏の名】 錠光如来の次は光遠如来です。これらの仏の名は、中国の天子や日本の天皇の名のように、生きている時の名ではなく、亡くなって後の「おくり名」です。「初めに名あり」ではなく、その教えを受けたものか、この経の著者があとからつけた名です。
<中略>
住職は向かいの病院で二度目の大手術。取り敢えず私が講師の代講。話しの途中で「講義を止めてくれ。手術が始まる」と。私の血を輸血することになっていたので、病院へ駆けつけたら、もうすんだと。どこで聞いたのか一人の青年が来て、「私はO型です。私の血で間に合うなら」と言ってくださった。医者も若い人の血がよいということで、貰いました。すんだ時「お名前を」と言いますけど「私は今日ほど感激したのは生まれて初めてです。こんな尊い方のご用に立ったと思ったら、生きていてよかったと思いました。私は名を名告るほどの者ではありません。電話番号を書いておきますからいつでもお電話ください。喜んで参ります」と名も告げずに出て行ったということでした。
 シュメーダも自分が仏のためになったことがどんなに嬉しかったか。燃灯仏とは微かな小さな灯の光ということですが、シュメーダの胸に私もこういう尊い仏になりたいという希望の光が灯ったのでしょう。しかも消えることのない願いが。錠光如来とはシュメーダが燃灯仏に捧げた名ではないでしょうか。
次の「光遠如来」は遥かに遠い、気も遠くなるような彼方に輝く光であったのでしょうか。
「片足を富士を踏まえて鳴く蛙」(長笹)。

【月光如来】 人間の情感の深まりに一番関わってきたのは、恐らく月の光ではなかったでしょうか。八代将軍吉宗の次男 田安宗武は「青雲の白肩の津は知らねども、今宵の月に憶ほゆるかも」と、遠い昔 神武天皇の東征の際、紀の国の敵前上陸の苦戦に憶いを巡らしているし、天皇の命によって中国に留学したまま、彼の地に骨を埋めた阿倍仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる、三笠の山に出でし月かも」と故郷に思いを致しています。
徳川時代に「切り捨て御免」と人間扱いされなかった町人の子として生まれた井原西鶴は、「内裏さまのとて外になし今日の月」と、民衆のめざめを小説に託しています。
また西本願寺の奥深くに生まれた「絶世の美女」と歌われ、九条良致と結婚した薄幸の武子夫人は、昔から「親と月夜はいつもよい」といわれた月を見て、「何事も人間の子の迷いかや、月は冷たき久遠の光」と、わが身をそして孤独を深めています。
 月と孤独は人間全ての感懐であろうか。人生そのものがすでにそうできているようです。年若い父を失った幼い女の子が夕闇迫る広い本堂の縁に独り座って、誰に教わったのか「おっ月さーん、いくつなの。わたしは七つの親なし子。おっ月さーん、一人なの。わたしもやっぱり一人なの。おっ月さーん、空の上、わたしは並木の草の上。おっ月さーん、もう帰る。私もそろそろねむたいの。おっ月さーん、さようなら。あしたの晩までさようなら」と月に語りかけていました。
 親鸞は「観音菩薩は日天子と現れ、勢至菩薩は月天子と現れる」と、日と月によって仏の徳をさとっており、金子先生は月の光は「闇いよいよ深く、光いよいよ清い。光と闇が同居している」といい、「真昼の光には富める家は輝き、貧しい家は哀れであり、勝者は大道を闊歩[かっぽ]し、敗者は身をすくめるが、夜の光は大きいものは大きいままに、小さいものは小さいままに夜の景色を描き、善人は善の誇りを忘れ、罪人は罪の僻[ひが]みを捨てて、人間本来の座に帰らせる光である」と説いています。

【五十三の数】 仏教が進化発展したたびに、原始仏教は世間道を越えた出世間道といい、大乗仏教は出世間道を越えた出出世間道といったのと同じ論法で、大乗仏教の五十二段を越えた五十三段を処世といい、さらに世自在王仏を五十四段の仏としたのでしょう。

 『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳 より

◆はじめに光ありき

 釈尊は阿難尊者に教えられた。私たちの精神の歴史をたどると、私たちの常識では考えられないほどのはるか昔に、錠光如来という目覚めたお方が出現された。それはあたかも真っ暗の人生にポッと明かりが灯されたかのように、悩める人の姿をごまかすことなく映し出し、その光に会えた者はみんな生きる喜びを噛みしめて、悔いのない道を歩み、目覚めた一生を送ることができたのである。以後その伝統は脈々と受け継がれ、有限の人生に生きる意味を与える永遠の光の如来、自己の無力を教える月の光の如来、欲望に汚染されない生き方を教える栴檀香の如来・・・というように、人びとの心の灯火となって、五十三人の如来がこの世に出現し、真実の人生とは何か、ということを、私たちに教えてくださったのである。

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