平成アーカイブス <研修会の記録>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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[講師:子どもの虐待防止ネットワーク・愛知 理事長 祖父江文宏 師]
――アメリカではベトナム戦争を機に爆発的に反社会的なケースが増え、虐待にもつながった、ということですが、日本で児童虐待が増えている原因は、どこにあると思われますか?
僕は虐待の問題は過去三代の問題だと思うんです。今虐待をしている人がどう育ったか、つまりお爺ちゃんお婆ちゃんの問題だと。その年代が責任を負わなきゃならない、と思います。
日本がどこから変わり始めたかということを考えると、今から大体45年前くらい前に突然生まれた言葉があるんです。それは「子育て」です。
子育てというものは昔は無かったんです。「子育ち」はありました。「子育ち」が無くなったから「子育て」が要るようになった。つまり、日本がそれまでの日本から転換をして合理化の時代に入ってくる。その時にマンパワーを都会に集めていく。もしくは企業のもとにマンパワーを集める。また農村としてあったところに工場を作って、そこに農家から労働力として工員たちを連れてくる、ということがおきました。
合理化というのは生産性を上げること。そのためにどういうところからマンパワーを集めたかというと、「子育ち」いう形であった地域社会の中から労働力を抜いたんです。このときから現在の「核家族」というものも生まれてくるわけです。
労働力に最も合理的に無駄を省いた形で労働を集約させていくために、「家族形態」と「住」の問題ですね、住まいというものと、育児は密接に結びついています。それを最も効率的にマンパワーを充足させていくために、無駄のない形ということで「2DK」というものができました。「DK」なんてその時代からです。それまで日本には無かったんです。「DK」の中で育児をし始める。そういうときに、ふっと気が付いたら、意識的に子どもを育てなければならない。なぜなら、地域社会というところで保証されていた「子育ち」の場が無かったからですよ。
例えば、子ども達の集団の中では何が頭が良いことだったか。
今から30年前は<子ども集団>といわれるものと<大人集団>というものがあって、<大人集団>から<子ども集団>に価値観が入ってくる時に、例えば<子ども集団>を代弁して大人の価値観に対抗する人。それはどういうことかというと、うまく大人をだます人です。それが頭の良い人でした。今は全く違います。
つい2週間程前に郡上八幡に行きましたが、そこで「頭の良いというのはどういう人?」って聞いたら、20人のうち20人まで「学校の成績の良い人だ」って答えた。この「学校の成績が良い」というのはやばいよね。つまり価値観が一つしかないんだよ。
どうしてやばいか、って言うと、学校の中では成績が良いのが尊敬されるべき、ということですが、社会でもそうなんだよね。家庭でもそうなんだよね。この中で「多様な人間がいていい」ってどこで学ぶんでしょう。
僕の子ども時代というのはどんなだったかというと、子どもの集団があって、子どもの中での価値観というものもあって、大人をうまくだます奴が頭が良いってことになっていて、その人が常に子ども集団を危機から救っていた。そして大人の方は大人の方で、それをちゃんと見ながら、大人を代表する者が子どもと接点を持っていた。
僕が思い出すのは、「お獅子のおじさん」ってのがいて、これが総入れ歯で、僕たちを叱る時に「並べ!」って言ってコンコンコンってやった。その時、やりながら入れ歯をカキって出すんだ。カクカクカクってやる。そうすると正にお獅子になって、やられるって覚悟するわけです。
僕たちがしょっちゅうやってたのは、5寸釘の頭を平べったくしておいて、それをいつも持っていた。これは何にでも役に立つわけです。釘さしも出来れば壁にさすこともできる、そういうものを皆持っていて、スイカ畑を見たらみんな釘で穴をあけて藁を差込み、中の汁を吸うわけです。ところが、それが見つかった。で、お獅子のおじさんは僕たち6人を並ばせて、「お前達覚えておけ。スイカはひとつにしとけ」って言いました。
こういう大人と子どもの関係が、子育ちを保証していくあり方だったと僕は思うわけです。僕たちはそのおじさんを通して社会のしくみを見たんです。
おじさんはお祭りになると青年団を仕切り、子どもたちも加えておじさんの差配のもとに動いていた。葬式でも寺の総代の役割もしていた。おじさんを通して大人社会の成り立ち、しくみも見ていきました。
ところが、マンパワーで効率的な社会を作る、という中ではそういう生活部分は消えていく訳です。生活が消えて、鉄のドアの中で、一代で子どもを育てなければならなくなった。だからあの頃、「子育て」という言葉と同時に「育児書」も出てきました。
これはスポット博士の書いた本を頂点にして、育児書のベストセラー時代が続いていきます。親は意識的に子どもを育てなければならなくなったんです。その中で様々な問題が起き始めるんです。
その時に何をやったかというと、「いかに合理的に子どもを育てるか」で、その育児も「こういう時はこうすべきだ」というハウツーを持ちながら、それに合わせて量も決めた、時間も決めたんです。
おおよそ4時間おきに離乳食、そのうち6時間おきに作る、と。その時何を与えるかも決めた。そうすると、日本中のお母さんが、皆明け方になると離乳食のスープを作っていた、という不思議な時代ですよ。今でも育児書が全盛ですが、明け方だぜ。日本のお母さんたちが、みんな明け方起きて、呪文唱えながらスープ作ってるわけですよ。ひき蛙入れたりなんかしてな。そのうち箒に乗って飛ぶわな。
そういうふうに、一斉にみんなが自分のところで育てなければならなくなった。
だから今の虐待の問題で見落としていけないのは、孤立している、ということです。孤立している家庭をどうしていくか、という問題がきちっとされていかないと、子育てをひとつの家庭に背負わせてしまうことになる。そうすると、その中の価値観は他の価値観とすり合わされることがないから、いびつになりますよね。いびつになると必ず暴力が生まれる。
僕は子育て支援の問題で、一つは「年齢差を外そう」と言ってます。「母親だけが子どもを育てるのはもう止めようよ」ってことです。こんなのは日本の歴史の中で初めてなんです。ここ20年のことです。それまでは母親だけが子どもを育てるものじゃなかったんです。父親だって関与していたし、周りの人たちが関与していたし、周りの子どもが関与していた。もう一度、そういう年齢差を越えて、目的完遂型の集団ではなく、地域の中で生まれるということから死ぬということまで全部見えるような集まりを作っていこうよ、と。
僕がやる子育て支援の講演では、必ず年齢差をとって、お爺ちゃんお婆ちゃんにも来てもらう、中学生もかまわない、来てくれよ、って。そうすると年齢差を越えて集まってきた中で「人間っていいな」と、お互いのところで了解がいく。
僕はお年寄りがゲートボールやってる時代じゃないと思います。ほんなことやってたらますます孤立していきます。
――ひとつよろしいですか。今までの地域社会にあった「子育ち」から「子育て」になったということも一つ問題はあるんですが、私は田舎は熊本でして、東京行って、関西行って、名古屋来てと、あっちこっち行きましたが、どちらかというと私は比較的都市部の育ちなんですね。自坊近辺の歴史をみても江戸時代には既に都市化されていました。そうすると「子育て」の概念の方が強かったんです。
ところがいざ愛知に来て気付いたんですが、愛知県は九州の方から労働力を引っこ抜いてきた。特に農村部ですね。東京オリンピックまでは繊維産業、以後は自動車産業。それまですごく農村的な環境だったところが孤立した家庭がたくさんできて、土壌には農村的なものがあるにも関わらず、農村を引きずったまま孤立したようなものができてしまって、そういった人たちと子育てというものの乖離がすごく大きいように思います。地域社会との乖離ですね。
そうすると、高度成長期まではどちらかというと農村的な地域社会構造を温存した形で高度成長を遂げてきた。それでオイルショックでぽしゃっちゃって、とりあえずバブルなんてのもあったんだけど、それもぽしゃって、結局何が残ったかというと、「自己責任」というものが異常に問われ出した時代になってきました。
地域社会とか会社とかきわめて農村的な社会にもメスが入るようになって、それも壊れていく。それが社会問題につながっている側面があるように思うんです。ですから、幼児虐待の問題もサカキバラ事件のようなものも、凶悪犯罪とかに関して社会のひずみ・乖離というものが根底にあるように思われます。昔は凶悪犯罪といえば大阪だったんですが、今愛知じゃないですか。これは、こうした側面があるように思うのですがいかがでしょう。
まず一つは、凶悪犯罪や少年犯罪と言われるものは特別に増えていない、ということです。このピークは昭和30年代です。少年の殺人だけを見ても、今より倍まではいってないけど1.8倍くらいあるはずです。ですから今特別多いわけじゃない。そのことがひとつ。
それから都市化されたものと農村部という捉え方もあるけれども、街には街の共同体というものがあった。それが崩れた。
――街の共同体のあり方と、愛知県の場合、村の共同体をそのまま持ち込んできたのが街の共同体に変わらざるを得ないようになってきた、というのも大きいと思うんですが。
それは名古屋と豊田とまた周辺では確実に違うんです。だから農村のあり方と僕の育ってきた北区のあたり、商人の世界はまた違うんです。ここの世界は村世界とは違います。例えば食事のあり方でもほとんど店屋物[てんやもの]ですからね。
――私の田舎もまさにそういう感じです。
その街を成り立たせていく中で、責任の取り方というものは、それぞれ参画しないとできなかった。それは農村にも当然あったし、都会もあった。ただ、これが維持されてくるところに、さっきあなたが仰ったような全く異質のものが入ってきた。それは孤立をベースにした家族です。
この人たちにとっては、ある面ふるさとを懐かしんだ時代もあるけれども、帰れば田舎がある時代もあるけれど、今の人達の中にはもう都会のわずらわしさや田舎のわずらわしさから切れて、「都会なら人のつながりがなくていい」と。ここが1番虐待の温床になっているんです。
――私もそう思います。
これは完全にそういう形で、新しく人間関係を拒否した形のところで虐待が起きるわけです。当然その中の価値観というものは、今まで私たちが持っていた価値観とは違うわけです。ここへの支援をどうするか、という問題です。
これがはっきりしてこないと、地域社会の再構築なんてできない訳です。ここへのアプローチの仕方を様々なところがやっているんだけど、その手立てとして、引っかかりがあるな、と手ごたえを感じているのは「子育て支援」というものなんです。
これは保険センターとそれから保育園、そこを軸にして地域社会の中へ年齢差を越えた集団を作っていこうと、割と子どもは保育園へ預けますからね、90%は預けますから、かなりの率でそれをつかんでいけるんです。それと乳児検診は100%受けています。その中の情報をきちっと取る。そこから支援を始めていく。これが一番具体性を帯びるんじゃないでしょうか。
実は愛知県で1番強いのは「お上」なんですよ。これは信長の時代からそうなんです。
――そうすると一つ考えられるのは、ある程度みな参画するんだけど、個々の人間には義務はあるんだけど責任がない社会なんだと思うんですね。ところが個々の人間は責任の負い方が分っていない。それが大きいような気がします。
僕はCAPNA[キャプナ]をどう支援運動としてやっているかというと、やがて行政と対等に契約しながら、自分たちの身の回りのことに参画していく、ということを思っているわけです。
例えば、自分の家の前の街路樹がなぜ役所で決められるのか。僕は不思議で仕方がない。これは土木事業という形で行政がずーとやり続けてきました。しかし自分のところで自分の生活しているところに葉っぱが落ちている。そうしたら「俺はこの木が好きだ」って言える訳だよな。
そういう時に、僕はNPOというひとつの法人を作って、行政との間できちっと話し合いをして、その時に行政から全部お金をもらおうとは思わない。だからその時、葉っぱが落ちてきたり、木を育てていくことに関する責任は私が果たしましょう。それは地域社会の中でそれぞれが皆果たせばいいことです。そういうあり方を僕は言うわけです。
もう一つ、社会福祉だとか公共の福祉だとかいう時に、国が使うお金がもうない、ということがあります。もう明らかにパンクしていて、介護保険も確実に破綻している。もう国庫からの支出ではだめだ。そうすると、どうしてもその時にボランティアというものが絶対に必要になってくるわけです。
それは単純に、労働の代替としてノーペイでボランティアがある、という意味ではありません。僕はボランティアがどれだけの夢を持てるか、ということだと思います。その夢を共有していくことだ。
うちのCAPNAは有給の職員を置いている訳です。その職員を中心にしてCAPNAの中で確実に金儲けをする訳です。そうして、きちっとペイできて、一方で行政から担うべきものは担う。虐待防止に関して、電話相談などは僕たちの方がはるかにノウハウを持っている訳です。積み重ねもあれば分析力もある。だから児童相談所ができないことに関して私たちから職員を出そうと、出していく人はノーペイですよ。ボランティアとしてやってゆく。そのボランティアと、やがて地域社会の中で私たちが人間に関することでやらなければならないことがいくつかあると思う。
これは行政が一律にやることの限界を思うから、そういうものに育てていきたいんです。
その時にはもう私たちの責任でやる。そういう意味では人間の独立だと思っています。そういう市民団体をつくりたい訳です。
以上
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