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【研修会の記録】
平成13年7月14日

家庭内暴力からみえてくるもの 2

― 期待という注文の重圧の中で ―

[講師:子どもの虐待防止ネットワーク・愛知 理事長 祖父江文宏 師]

 子育ての偏差値

 まずは小さい人に対する暴力。それは多くの場合「子どもはかくなければならない」というサンプルがあります。つまり暴力を引き出してくるのは、大人による支配だとか所有の中で、一つの価値観を弱い者に当てはめてゆく。つまり注文になります。私たちは「子どもを育てる」、「期待する」と言いながら、実は注文しているですよね。「人間は人間に注文できない」ということが、浄土真宗の中で1番すごいことだと思います。それに反して私たちは人間に注文することで関係をつくろうとする。家族というものを見ていくと、非常にこの図式が強いですね。 イメージ図

 多くのお母さんたちが、<この子どもをいい子に育てることで私はいい母親になる>と思っています。だからお母さんはどうしてもいい子どもに育てなければならない。「いい子どもとは何だ?」と問われると、例えば0歳児検診を迎えたお母さんからは「私は0歳児検診が恐くてなりません」、と言います。「それによって成績がつくような気がする」。これは正に成績がつくんです。どういう形で成績がつくかというと、母子手帳の中には成長発達線というのがあって、グラフで右肩上がりになっています。片一方には生まれ月、片一方には体重あるいは身長、それを計りながら、1ヶ月ではこれだけ身長が伸びた、体重が増えた、3ヶ月ではこれだけです。となっています。そしてサンプルとして全国平均が色刷りになって出ています。これは偏差値です。
 お母さん達が問われるのが、まずここからなんです。そのときお母さんはこう考えているんです。<私はいい子どもを育てなければならない。いい子どもを育てるのは私の役割>と。

 この裏側には、その役割を課しているものがある。つまり家族という単位、夫婦という単位でとらえても、その夫は妻に対しては「いい子を育てるのはお前の役目だ」と言っているわけです。それを嫁という立場で見られると、姑たちは「いい母親であることを期待している」という訳です。では、「いい母親というのは何だ?」。確証はないんです。でも現にあるんです。それは「社会の通念」ですよね。「その通念というのは何だ?」といえば、毎月雑誌の形で出ている育児書、その中で「平均して○ヶ月の子どもは」ということ。これが大事になってしまうんです。
 自分の子どもは具体的に「○○ちゃん」だけども、その○○ちゃんの成長や発達を見て、「これは全ての同じ月で生れた子どもたちの中で確実によく育っている」ということを、たった一つの基準にしてしまっているんです。私たちはいつもそういう基準を「おしなべて全ての人は・多くの人は」という形で尺度を持ってくるわけです。これ「常識」ってやつですね。

 親鸞聖人が「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり(歎異抄18)」と言われた「善悪」ってのはこのことですよね。つまり、善悪を見ていく限り、私たちは具体的な一人が見えなくなってしまう
 そうすると、こういうことが起こります。もともと小さく生れた人で、おっぱいの飲みが悪い、そんなに量は飲まない。しかし考え様によっては、小さく生れてきたから、その子にとっては円満な量だった訳です。しかし数値というものを見ると、その子の発達は遅れていることになります。しかも全国平均にお母さんがとらわれたように、その平均より下だから、頑張ってこの子に飲ませる、という行為になるんです。それで子どもには「頑張って飲みなさい」という注文になるんです。
 だから彼女がやったことは、3ヶ月間ほとんど毎日毎晩口から哺乳瓶を外さなかった。いつも流れているわけです。赤ちゃんはそれを飲みつづけていたため、3ヶ月経ったら、ぶよぶよの体型になって、もう心臓障害が起きている。肝臓障害がおきている。3ヶ月でそうなっちゃうんです。
 僕がその話を聞いて、うちのドクターとそれをケアして、栄養管理しながら、4ヶ月かけていわゆる平均的な体重にしていきました。体重は平均になりましたが、それまでの無理がありますので、心臓の負担を長期に見ていかなければならない、ということで結局6ヶ月入院させました。

 これなんかは、まさに<一つの基準>というものを、ある子に無理に与えたため暴力になるわけです。虐待というのは最初はこういう形で始まります。「お前のため」ということです。「お前のため」というのがなければ家族は成り立たないと思いませんか。夫も「お前がいい母親にならなければだめだよ」と言って出かける。妻は「いい母になるために」と頑張ります。ことに男性は母親神話を持っています。女性の子宮に対するあこがれがものすごくあります。いつになっても日本の男性が自立していかないのは、この母親神話のせいだと思います。
 男性が女性を見る時に、「優しい」ってのを真っ先に言います。優しさって何かといえば、男性に期待されている「強さ」に対して「優しさ」です。日本の歴史は常にそれをやってきたんです。「男は強くなきゃ」って。

 今度7月20日にフジテレビで「暴力について」ってのをやるんですが、その時に「暴力は絶対にいかんのだ」という立場でやるんですが、それに対して「殴らなきゃ子どもは育たない」って誰かが言うわけですよね。「子ども達が今のような形になったのは殴らないからだ」と。実は殴られたからこうなったんです。そういう行き違いがあると思うんですが、そこでトーク番組を作るんです。その時にも僕は言うだろうと思います。
 支配をし「お前のためだ」というのは、実はものすごい暴力になっている。殴る殴らないの問題を通り越したくらいの暴力になる。そういう期待、これは小さい子にとってはすさまじいプレッシャーです。しかもそれを「頑張れ」という言葉で大人たちは正当化していく。その背景に今度は大人たちのもっている男らしさや女らしさ、<子どもというものは>って概念がいつもくっついているんです。
 それは目の前の誰々ちゃんとは実は関係ないんです。このことが家族間の絆という中にあるんだと思います。しかも男性は「よき妻・よき母」の概念から離れられない。だから結婚する時に「どこが気に入ったんですか?」と聞くと、やっぱり言います、「優しいところ」って。それで彼女の方に聞くと「だってたくましいんですもの」「雨の日に傘さしてくれた」って、<そんなことなら僕だっていつでもやってやる>と思いました。だって、根拠ないですから。しかし頼っているのはそういうものです。

 そして、暴力というものを使っていけば使っていくほど、支配と所有の関係を強めれば強めるほど、相手は考える力を無くしてしまいます。だから暴力をふるって育てれば育てるほど、自分の考えを持たなくなる。それはどういうことかというと、次なる暴力的な状況になると、自分の考えを全く持たずに暴力化するということです。
 今の社会を見ていると、戦場に立った兵士たちと論理が非常によく似ています。このことが私たちの作ってきた社会というものの1番根っこにあるんだと思います。そうした「社会の概念」といわれるもの、これを信奉し続けることによって私たちは人間を理解しようとしてきた。それは強い男性に対するあこがれ、優しい女性に対するあこがれ、母性と父性という形で言われている。今度の番組の中でも父性とは何か、と、「それは力だ」と言う人たちがいるわけです。東京でやりますからね。「こいつは相当やられるかな」と思いますが、まあ、そういうことになると思います。

「いい母親とは何か」といったら、「いい母親」を期待する男性たちが作ってきたものです。多くの場合これです。だから0歳から3歳くらいの虐待死の例140人を見ますと、実の母親によるものが圧倒的に多い。80%くらいは実の母親が殺しています。その背景を見ていくと、育児というものを一人の女性が全部背負っている。その時、周りはどうしてるのかというと、みんな<いい母親>を期待してます。だから母親がくたびれるなんて誰も考えてない。母親が産んだことを後悔するなんて絶対許せない。3人の子どもがいて、母親がえこひいきをして、「この子が嫌だ」と思うのを許せないわけです。そういう母性神話があります。だけどこれは実際に私たちが調査したところによると、「子どもを産んで後悔したことがあるか」と聞くと、90%くらいは「後悔したことが一度や二度はある」と答えています。

 そりゃそうですよ。子どもを産んだら、それによって自由が全部奪われてしまいますから。そして自分は本当は夫婦の関係をつくりながらその中で自己実現を作っていきたい、中には二人で大学へ行きたいと思っていたり、ちがうことに一生懸命になっていきたい、ボランティアをしたいと思っていた人たちもいるでしょう。そういう自己実現は子どもが産まれるということでだめになる。少なくとも十何年は後になります。そうすると女性が後悔しない訳がない、って話です。
 よく母親がとらわれるのは「私は悪い母親です。私は子どもを叩いてしまいました」と、そりゃ叩くだろうって思うわけですよ。だって虐待死を起こした母親たちの言葉の中に、その母親と子どもが真向かいになって追い詰められていく時に、父親の姿、夫の姿は全く見えなくなっている訳です。

 自分を罰しているつもりで子どもを虐待

 愛知県下の中で、虐待死と言われるものの弁護は私たちがほとんど引き受けてます。愛知県下で起きた少年犯罪・殺人事件の弁護はほとんど僕たちが関わっています。CAPNAというものが64人の弁護士をもっている。その人たちをふるに使っています。で、虐待を受けている人の救済と同時に、殺してしまった人たちの救済、その弁護も私たちが引き受けてます。その中で見えてくることは、いつも追い詰められて、しかも母性神話の中で必死になった母親ですよ。だから被害者です、みんな。何よりも「いい母親をやらなければ」と自分自身を追い詰めた女性なんです。だから「あの時ひとこと夫が私の言うことを聞いてくれたら私は殺さなかった」、「眠っている夫がひとこと"お前大変だな"と言ってくれたら、殺さなかったかも知れない」そう言ってます。

 また「先生、何で公団住宅の1番下に遊園地があるんでしょう」って言った人がいます。それは夜泣きする赤ちゃんに対し、夫は「やかましい、俺は疲れているんだ」と言う。それで彼女は3ヶ月の赤ちゃんを抱いて廊下に出た。廊下に出ると次々電気が点く。彼女は追われるようにしてエレベーターで一階に下りる。一階に降りて真冬に震えながら子どもを抱いて砂場のところに行く。それでふっと気が付くと泣いている赤ちゃんの声で、見上げるとまた住宅の明かりが次々と点く。で、彼女は追われるようにまた家へ帰って、そしてまた夫は「やかましい」。そこでまた妻は子どもを抱いて風呂場に行って冷たい水につけて赤ちゃんの声を消す。そういうことが3度あって、「この子が泣き止んでくれれば私は眠れると思った」と言って、彼女は枕を赤ちゃんの顔に押さえつけて、最後は窒息死させてしまった。ものすごく孤独な母親しか浮かんでこないですね。しかもその母親を追い詰めていくものは「いい母親になれ」「育児はお前の仕事だ」ってやつですよね。全部背負わされているんです。

 僕は<家族は愛情という絆で結びついているんだ>と思いたいけれども、しかし小さい子の虐待とを見ていると、いつも孤立化した人間、夫婦といっても結びつきが全く無い。嫁といっても結びつきがない。その中で「いい母親になることを期待しているよ」ということだけしかない。

 これは高校生が言った言葉ですが、「期待という重い虐待」っていう言い方をしました。それが一人ひとりにかぶさってゆく。その背景は<支配>です。そうしたらどうなるのか、というとやがて手を抜けなくなってしまう。そういう時に頼りにするのは<自分がどう育ってきたか>です。そうすると、その母親が虐待状況の中で育ってきたときは、母親はものすごく不安になるんです。人間はされたように育てます。ことに密室化した育児の現場では、頼るものは当然自分の体験しかない

 これだけ情報があるからその情報が生きるだろう、と考えるのは全く嘘で、密室化した状況の中では、人間は自分の気に入った情報しか受け入れない。だから電話相談の中でけっこうあるんですが、「うちの子どもは異常です。だってオシッコがブルーじゃない」って。これはどういうことかというと、紙おむつの宣伝で青い水を染み込ませて見せるコマーシャルがあります。人間は密室化した時に情報の中から自分の気に入った情報だけを無意識に取ってくるんです。そうすると情報がものすごく偏るんです。どうしてかっていうと、今の生活というものが開かない限り、情報がすり合わされるということが無いんです。するとどうしても情報が偏るんです。これは社会ということで考えても一緒です。

 第二次世界大戦の時に、「日本は勝ち続ける」と言ってた。情報が偏っていました。あれがもっと開かれていて、世界の状況が見えていていたら、日本が負けることは早い段階で分っていたことでしょう。それを分らせないために報道管制を強いて情報をすりあわせないようにしたんです。だから一つの情報に頼ったときに人間は非常に暴力化しがちなんです。

 そういうことが家庭の中で起きている。で、その中でますますいびつな情報が一人の人間にかぶさっていく。そのときには、かつて自分が育てられたことをやってしまう。そういう恐れを持ち始めるんですね。全く無意識にそれを繰り返す人もいます。しかし多くの場合、「いい母親」になれない苦しみがある。それは母親全部がもっています。いつも子どもを第一にして、にこやかにして、子どもを抱きかかえて、夫の言うように<優しい母親でありたい>、そう思うわけですよね。ところが実際に生活してみると、そんなことは出来ないわけですよ。

 目の前の子どもは基本的に泣きます。泣くのが商売だから。泣くというのはどういうことかというと、見捨てられる不安を感じたら人間は泣くんです。泣いた後、恐怖になり、怒りに変ります。怒りは何もできない赤ちゃんの最後の手段ですよね。だから赤ちゃんをよく見ていると、泣き方が変化してきます。それは男はこう考えるんです。<母親だったら何で赤ちゃんが泣いているか分るだろう。自分の子どもだから>と。でも、分らないですよ。全く分りません。
 これは実験をやってみるとよく分るんですが、真中についたてを置いて、4ヶ月の赤ちゃんと母親を4組に分け、泣き声で自分の子どもかどうかを聞き分けられるか試してみたんです。「泣いているのはどの母親の子どもですか?」と聞く。全く分らない。

 こんなこと男性は容認できないでしょう。<母親は全部子どものことは分っている>と思い込んでいる。じゃあ、何故泣いているのか。全く分りません。「どの子どもが、何のために泣いているのか?」なんて完全に当たりません。それを繰り返している時に、かろうじてわかったのは4人目の子どもを持ったお母さんが、40%くらいの確立で分った。しかし何故泣いているのかまでは分らなかった。

 お母さんはこういうふうに考えるんです。「あの子はお腹がすいているのかな?」とまず考える。「でも一時間前におっぱいをあげた。じゃあお腹じゃないな」と、消去法で考えます。「腸が張ってきたのかな、でもあの時にげっぷしてたよな。だからこれはちがう」。「じゃあどっか痛いのかな?」そうやって消去法ではじめて分るんです。
 ところが男性はそんなことは思っていません。一発で全部分っているもんだと思っているじゃないですか。そのときに男性は言うんです「子どものことはお前に任せたからな」って。そんなの任せられたら女性はたまったもんじゃない。しかし女性はそんなことは言わないです。「私はいい母親にならなければならない」と思うし、その時「いい母親は子どものことは分っている」と思っているわけです。そうすると「私はいい母親じゃない」と思うんです。それがものすごい不安になるんです。

 そうするとそれがストレスになってくる。すると、目の前の子どもにかつての自分をかぶせるんです。そうすると、自分に過重な注文をしていることは片一方では分っているんです。しかし「なんてお前はいくじなしなんだ」と、「不当な扱いに対してお前はきちっと抗議するべきだ」と、ことに3歳くらいの子どもを持った母親は言うんです。私の3歳がだぶってくるんです。
 だぶってくる時に、彼女たちは夫からの過重な期待で、いい母親だけを背負わされてくる。そうすると、こういうふうに考えるんです。「私は子ども時代、こんなに大切にされなかった」。だから多くの虐待死を起こした母親は言うんです、「保育園であの子はみんなに大事にされている。私は大事にされてなかった」。

 これは夫も言います。父親が子どものおもちゃを取り上げたり、壊し続ける理由はここなんです。「あやしてやるんだ」と言いながら、子どもを振り回し壁にぶつけたりする。「あ、ごめんごめん」というパターンの虐待は非常に多いですね。
 その時、女性がやってるものは何かというと、「なんてあなたはいくじなし」というよりも「私はなんていくじなしだったのか」というものを子どもにかぶせるんです。かつて自分が受けてきた傷が目の前の子どもにかぶさっていくわけです。そうするとこれは自分を罰しているわけですから、いくじなしだった私、「不当な扱いを受けた」と自分で言えなかった、そういう私を私自身で罰しているのよ、と、痛さは無いんです。ということは限度が無い。
 こういった例が多いです。罰し続けるんです。自分を罰しているつもりで目の前の生きている子どもを罰していく。これが死亡例で最も多いパターンになっています。

 その時の出発点は「いい母親」です。しかしそれに私は応えられない。しかも誰も助けてくれない。「なんてだめな私なんだろう」。そしてそれは、そういう育てられ方をしたから、そしてそういう育てられ方をして、いつも親から殴られてきたのは、私が悪かったから。だから自分が好きになれない。
 さらに、あの時私はなぜ親からの暴力を「やめて」と言えなかったのか。「お前はいくじなし、罰しなければならない」と言って、それを子どもにぶつけていく訳です。これは完全に死への道です。

 人間が1番最初に持つ感情は怒り

 なぜそういう暴力性を人間は持つのか。これは赤ちゃんが産まれてきたときの形が関係しています。どう見たって人間の赤ちゃんは未熟児です。大きすぎる脳を持っています。頭と身体の比率は他の生物には例のない形です。だから脳が大きすぎるために人間は未熟児で産まれるんです。だから赤ちゃんは放置されたら死ぬんです。
 どれくらいで死ぬかというと、僕たちは遺棄された子どもたちを見る時に、産まれてどれくらい時間がたっているかということを1番気にするんです。3時間以内なら大丈夫。これが5時間から8時間くらいだと「大丈夫か?」って聞きます。8時間以上になると、生き残っても何らかの障害を背負わなければならなくなる可能性が高くなります。そういう形で人間の赤ちゃんは産まれてきます。

 そういう形で産まれたあかちゃんは、自分が庇護されたり受け止められないと生きていけない。赤ちゃんの一番の恐怖というのは、見捨てられることです。人間の最も恐怖は何かというと、これじゃないですか。見捨てられることじゃないでしょうか。見捨てられ、<だれも私を受け止めてくれない>と思った時に、人間の孤独は凄まじくなるんじゃないですか。その孤独がやがて自分自身というものを考えたとき、「なぜ私は遇されないのか」というのが怒りに変るのは不思議じゃないでしょう。
 赤ちゃんはそういう形を取るんです。だから赤ちゃんが泣くのは怒りなんです。見捨てられたら死ぬからです。見捨てられるのが恐いのに、見捨てられたような状況が作られたら怒りますよね。人間の1番最初に持っている感情というのは怒りなんですよ。だから赤ちゃん泣くんです。

 その1番最初の感情である「怒り」を、「育児」という形で、その赤ちゃんに関わりきった人間、先に産まれたものは、その怒りを別の感情に変えていくんです。「泣かなくていいよ」、「お腹すいたんだよね」、「おっぱいあげるから泣かなくていいよ」、「おしめが汚れているんだよね」、「代えてあげるからね」。こういう形で、怒りというものを、人間関係を作りながらその中で他の感情の表現に変えていくんです。

 これは学習なんです。これは脳に頼った作業です。つまり浄土真宗の中で言われてきた理知の始まりです。だから私たちは思慮分別だとか考えたがるんですが、人間の存在そのものの中に、人間が生きるという中に、実は理知の問題が根源的に関わってあるんです。
 それは見捨てられる不安として、人との関係というものを作っていくわけです。これはお母さんが、あるいは育児者が、「泣かなくていいよ」、「見捨てないよ」、と伝えるから赤ちゃんが生きられる。ですから、虐待というものは暴力だけではなく、1番症状が重く思春期に犯罪性の高くなるもの、それは「ネグレクト(育児放棄)」です。
 身体的・精神的なもので、「お前は役に立たない人間だ」とか「お前最低だ」とか「汚い」とか「お姉ちゃんに比べるとどうしようもない」、「兄貴と比べたらお前はダメな奴だ」とか、結局は「お前なんか産むつもりはなかった」という形で自分の誕生というものを決定的にその根拠を消される。これは精神的なもの。精神的なものは、ほとんど差別の形をとるんです。

 隠されている性的虐待

 家族の暴力をとらえてみると、小さい人に対する虐待、やがてそれはその人が思春期を越え異性と生活するようになると、殴る男性、殴られる女性になる。
 暴力というものは、必ずしも殴り続ける人間になるということではありません。殴る前に殴られる者になる。これは暴力を受け続けていると、暴力の中でしか人間関係を結べなくなってしまい、必ず暴力を引き出すようになるんです。

 だからよく学校なんかで、先生が巻き込まれて体罰という形で殴る。体罰というと「先生が悪い」とみんな言う訳ですが、殴ったことは確かに悪いです。しかしよく見ていると、先生が殴らなきゃならないように引き出されている。多分、殴った先生は、かつてどこかで暴力を是認してきた、そういう育てられ方をしてきた人ですよね。
 暴力を受けてきた人は、暴力を受けてきた人を本当によく嗅ぎ分けるんです。必ずその暴力関係の中で人間関係を作るんです。
 例えば、小学4年生が高校生に向って行き、「馬鹿」って言って自分の食べているものを高校生の皿の中にペッと吐き出した。「食え、馬鹿!」って言うんですよ。これは高校生を怒らせて自分を殴らせる、そうすることで安心できるんです。

 身体的な暴力は、繰り返される中で痛みがなくなってきます。また、ダメージを受けないところを殴らせるようにします。だからほとんど頭はかばいます。そしてお尻とかを出して殴らせます。その痛さは本当に楽なんです。
 僕の知ってる人で小学校の3年生ですが、これはお父さんからビール瓶で頭をしょっちゅう殴られて頭蓋骨が変形していました。初めて彼を風呂に入れて頭を洗った時、本当にぞっとしました。頭の形が変わるほど殴られていたんです。食事の度にビール瓶で殴られていたんです。

 そうやって育ってきた少年が腕を7針縫う傷をしたんですが、血が流れていたのに自分が怪我をしたという意識が全くありません。痛くないんです。命を護ることに全神経を集中してたら、全て他の痛みというのは無くなってしまいます
 人間は五感といわれるものを持ってきちんとバランスをとって人格というものを発達させてきているときに、虐待というのはものすごくいびつな形で影響を及ぼします。で真っ先に捨てるのは感覚です。感覚の中で味覚はほとんど持っていません。
 僕は新しい子を迎えるとき、まず味覚を調べます。スパゲッティーを食べているときにタバスコの新しいビンを一本置いて私がちょこちょことかけます。「美味しい?」と聞くと「美味しい」と答えます。「でも辛いぞ」と言ってぱっぱとかけます。「辛いだろう?」。「ううん辛くない」。「嘘いえ、辛いよ」。こちらはもう食べられないけど「なんでー、こんなん辛くない」って言いながら、一本丸ごと使っちゃった子もいました。それでも平気で食べるんです。
 辛くないんだもん。凄まじい暴力の中で「辛い」なんて感じていたら生きてこれなかったんです。そうやって、生きる中で色々なものを落としていくんです。だから身長や体重の伸びというのは暴力を受けているときはほとんど伸びません。概して虐待を受けてきた人たちは身体的には小さいです。そして精神の育ち方はものすごくいびつです。

 そして性的なものもあります。これは「数が少ない」と言われるけれど、性的虐待は女性にとっては凄まじい数があるんですね。ヨーロッパでは少年に対する性虐待が増えて問題になってきています。日本ではようやく女性の問題としてクローズアップされてきたところです。

 ある部分、性虐待を受けている人なんかは、3歳4歳でも性的な知識はたくさん持っているわけです。でも普通のごく当たり前の、例えば小さい動物に愛情を感じる、とかは全く持っていません。感覚がいびつになっていくんです。そうすると、例えば言語ということでいうと、虐待は言語を奪うんです。なぜ奪うかというと「私」というものを無くすからです。「私」を語る言葉を持たないんです。
「音」としての言葉はいっぱいあるんです。だから空虚な言葉はいっぱいあって、そして分っているようにみえるけど、実際の言葉の理解ということでいったら、全く力を持っていない。

 例えば、ゆりの花を見せて「何に似てる?」って聞くと、虐待を受けてきた人は知的な遅れはありませんがバリエーションが全く組めません。「花」って言うんです。「何に似てる?」・・・「ゆり」。他に無いんです。それが「ラッパの形に似てる」とか「上を向ければグラスだね」とか、そういう言葉が出てこないんです。

 虐待を受けた人たちは、自分の体験を<自分がどういう思いがしたか>ということで語ることは、全く下手なんです。その人が被虐症候群から立ち直って自分を獲得していくためには、必ず自分の内側に目を向けて、自分をつぶさに見たり、それを言葉にしていく、ということが必要なんです。語るということです。そして語るということは、誰かが聞くということです。この関係です。

 聞くということと、語るということ。浄土真宗の中で言い続けていますよね。「語れ」と蓮如上人が仰ってますよね。「聞け」と仰ってますよね。自分を内観しながら、それを言葉にしていくということが、自分をはっきりさせていく術なんだ、ということです。カウンセリングをやりながら、僕はこれが今1番大事なことだと思っています。

 「私のせいではなかった」と言える

 被虐体験というのは、過去に自分が受けてきた事柄を<最も忌まわしいことだ>というふうに受けとれば受けとる程それは容認できませんから、無かった事にしとかなきゃならないんです。でも無かったわけではありません。忘れた訳ではありません。それは丁度、プリンの中にパチンコの玉を放り込んだような形なんです。このパチンコの玉を「トラウマ」という言い方をするわけです。つまり、<時が癒すことのない過去の記憶>。忘れたように思いたい、といっても忘れた訳ではありません。玉は依然としてプリンの中にあるんです。

 それから場合によっては、忘れたことにするというだけじゃなくて、<あれは私の身に起きたことではない>という言い方をします。これは辛い体験を持った方にはこの二つのパターンがあります。<あれは私のことではない>という人は、こういう言い方をします――「お父さんが熱い物を持って私のベッドに来た。だけど私は平気だった。だって私は雲の上の家にいたから。で、そこからお父さんがあの女にベッドでしていることを私は上から見てた」と。これは人格が離れていますよね。これは「乖離[かいり]」と言います。こういう形だけれども、しかし人格というものを一つのプリンとして見たら、その中に全く異質のものが入っています

 そのときに、「私の事じゃない」と言ったら、それを語る人間とかパーソナリティーを他に作らなきゃなりません。私のベッドに置いてあるリスだとか、あるいは特別なパーソナリティーを持って人間をつくり上げるとか、弟が語るとか、そういう形で語るんです。それはどういう時かというと、パチンコの玉が思い出されてしまうときです。それをフラッシュバックという形で甦ってくるんです。人間の記憶の糸口というのは、音・匂い・温度・光・湿度があります。
 僕なんか、ヨーロッパに居た時期が長いんですが、葉巻の匂いがすると「あ、ロンドンのパブ」、パイプの香りだと「デンマークだ」とか思い出されます。車を運転してても「これはロスだよなー」とかいうふうに甦ってきます。記憶というのはそういうものなんです。

 記憶の糸口というのは色々ありますが、暴力の体験の中で最も強いものが音です。人間の怒鳴り声。だから暁学園で誰かが「馬鹿やろー」って言ったら、目の前の2・3人は消えます。みんな殴られていいところを出して頭を抱えて縮こまります。これはフラッシュバック現象で、その時は確実に記憶が甦っています。そしてその状態の時はパチンコの玉が「今」になるんです。そうすると忘れたはずの記憶が私を飲み込んでしまうんです。そのときは全くセーブは効かなくなります。これを「心神喪失の時」といいます。

 いくつかのパーソナリティーに過去のことを語らせるというのは、過去の出来事と私との間に乖離がおきていて、過去の出来事を引き受けることができないわけです。ということは人格として、人格というのは記憶の層ですから、記憶が欠落したまま人格を作っているわけです。だからものすごくいびつなんですね。
 ですから今やっている行動とか、例えば万引きしている、援助交際している、「もう止めろよ」と言ったって、「わかった」ということだけで終るんです。それを大人たちは良い悪いで判断する。そのときにこの「わかった」は必ず同じパターンで繰り返されていきます。

 それに歯止めをかけることができるのは、<あなたがどういう時にどんな気持ちの時に万引きをやりたくなるのか>、<どういう気持ちの時に援助交際するのか>、過去にのぼってみると、自分が忘れたいと思ったり、捨て去りたいと思った記憶の糸口に結びついて、「悲しい時」と、援助交際やる時の気持ちを言った人がいます。
 「その悲しい時ってどんな時?」と聞くと、「パパが二階で呼んでいるとき、ママに助けてほしいと思って、ママを見たら、ママは向こうを向いてた。そしてパパのいる二階へ上がった。その時に悲しかった」。

 過去捨ててきた記憶をその悲しさで全部貫き通しているんです。そのことによって、今あなたが援助交際ってことをやらなきゃならない。それはあなたが自分を護るためなんだ、そのためにやってたんだ。あなたにやったことは、あの父親がやったんだよ。あなたが悪いから受けたんじゃない。やった父親が悪いんだよ、ってことを、自分の言葉で語らせるんです。
 その時の引き金が「悲しい」とか「痛い」とか「独りぼっち」だとか、そういう言葉でみんな表現しています。その言葉で過去の一つ一つを貫き通していく、そうすると人格というものが帰ってきます。それが大事なことです。
 自己とは何なのかというと、それは記憶を全部統合し、それに対する責任を負える状態です。その中には、不当な扱いには「不当だ」と言い切れる、だから「私のせいではなかったんだ」ってことがきっちりと言えるということが基本になるわけです。

 だから「自己をはっきりさせる」とか「自己を見つめる」と浄土真宗が言い続けてきた訳は、まさにここにあるんだと思います。そして人間の1番根っこに、人間が自分の頭脳によって生きなければならない、そういう宿命を持ったその人間の1番根っこに「見捨てられてはならない」という不安がある。この不安がやがて怒りとなって暴力性になっていく
 だから多分これが僕はダイバダッタの原型だ、と思っています。

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名古屋西別院仏青勉強会 平成13年7月14日


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