平成アーカイブス <研修会の記録>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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講師: 山下宏明 先生
先ほどお話しいたしましたことを簡単に振り返っておきますと、なぜ平清盛が南都、奈良のお寺に対して怒りをもったか、そして清盛の怒りを受けて重衡が大将軍として出兵し、最初は一方的に火を放つ気持ちはなかったのですが、結果的に火を放って、そしてとんでもない事件になってしまった。その当事者が平重衡であった、ということをお話ししました。そのように『平家物語』は一連の事件をとらえ、そして重衡を理解しています。
なお『方丈記私記』の堀田善衛さんの名前を出しましたが、堀田さんは、富山県の伏木の生まれ、旧回船問屋の子息で、堀田家は、あるいは一向一揆の系統の宗派のお宅じゃないかと思います。一度堀田家に伺ったことがありまして、すごく立派な仏壇があったことを思い出します。堀田善衛さんは、さかんに「一期一会」とか「倶会一処」なんて言葉を小説の中で入れるわけですね。おそらく堀田氏のライフワークに仏教の問題があるんじゃないかな、と思っています。
さて、こういうことで、いよいよ重衡が生け捕りになってしまいます。そして当然責任・罪を負うことになるわけです。平家の一行は、一の谷の合戦の後、八島に向かいます。そして都には後白河上皇がいるのですが、実は当初、平家は都落ちをするときに、後白河を同行しようとする。ところが後白河は、さっとうまく体をかわして逃げてしまうんですね。結果的に平家は後白河を残したままで、安徳天皇を擁して都落ちをすることになった。そしてその後、木曾義仲が都に入ってきまして、後白河は木曾義仲と同盟を結んで、一方鎌倉の頼朝と連絡を取っていましたが、やがてその義仲が都で乱暴をはたらくものですから、後白河は頼朝とタイアップして、結果的に義仲を討ち平らげる、ということをやります。そして今申しました状況の中で、京都には天皇がいなくなるわけです。天皇は四国に行ってしまって、これは政治上まずい、というんで、後白河は後鳥羽天皇を即位させます。
ところが、即位させようとしても残念なことに三種の神器が無いわけです。そこで困って、後白河は重衡に持ちかけます。「そなたを助けてやる。その代り交換条件として、安徳天皇ならびに三種の神器を都に返せ」、という交換条件を出すわけです。【八島院宣】です。
それを出すについて、重衡にも、「自分を救ってくれ、という嘆願書を書け」と後白河は言う。それに対して重衡は、そんなものを書いたって、自分一人のために平家一門が応じるわけがない。しかしそう言いながら、ひょっとすると母親の二位殿が自分に同情してくれるかもわからない。そういうことを申します。
【巻十 八島院宣】「大臣殿」というのは当時の平家の頭領の宗盛です。それから平大納言は時忠ですね。大臣殿 ・平大納言のもとへは、
院宣のもう一度私に会いたいと思ったならば、<内侍所>・・・三種の神器ですね。趣 を[ 申 給ふ。二位殿へは[ 御文 こまごまとかいてま[ い らせられたり。「今一度御覧ぜんとおぼしめし候は[ ば 、[
内侍所の御事を、大臣殿に宗盛に言って三種の神器を差し出し、能々 申させおはしませ。[
さ候はでは、無ければ、二度と生きてお母さんにお目にかかることはできないでしょう。此 世にて[ 見参 に[ 入 べしとも覚え候はず[
なンどぞかゝれたる。二位殿はこれを見給ひて、とかうの事もの給はず、文をふところに引入 れて、うつぶしにぞなられける。まことに心のうち、さこそはおはしけめと、おしはかられて[ 哀 なり。[
そしてここで平家一門が相談します。どうしたものか、色々と意見が出ます。しかしまさか重衡一人のために三種の神器を出すわけにはいかない。まして案徳天皇を都に返したくない、と言って拒否します。その中で二位殿ひとりが「たのむから救ってくれ」と懇願します。
それに対する拒絶の回答が問題の【請文】です。
【請文 】[ 今月十四日 の院宣、[ 同 廿八日、[ 讃岐 国八島の磯に到来。[ 謹以 承る所[ 如件 。[ 但 これについてかれを案ずるに、通盛卿[ 已下 [ 当家数輩 、摂州一谷にして[ 既 に[ 誅 せられ[ お はンぬ。[ 何 ぞ重衡[ 一人 の[ 寛宥 を[ 悦 べきや。[
重衡一人許されたところで、大勢の君たちが亡くなっているのに、重衡一人許されたからといって悦ぶわけにはいかない、ということです。
つまり、不本意ながら自分たちは都落ちした。夫我君 は、故高倉の[ 御譲 をうけさせ給ひて、[ 御 在位既に[ 四 ケ年、[ 政尭舜 の古風をとぶらふところに、[ 東夷 ・[ 北狄 ・[ 党 をむすび、[ 群 をなして[ 入洛 の間、[ 且 は[ 幼帝 、[ 母后 の[ 御嘆 、[ 尤 もふかく、[ 且 は[ 外戚 ・[ 近 臣のいきど[ を りあさからざるによッて、しばらく[ 九国 に[ 幸 す。[
つまり、天皇が都に帰らない限りは、三種の神器を返すべきでない。還幸 なからんにおいては、三[ 種 の[ 神器 いかでか[ 玉体 をはなち奉るべきや。[
それ臣は君を以て心とし、君は臣をもッて代々平家は朝敵と戦い、朝廷に忠節を尽くしてきた。体 とす。君やすければ、すなはち臣やすく、臣やすければすなはち国やすし。君かみにうれふれば、臣しもにたのしまず。[ 心中 に[ 愁 あれば、[ 体外 に[ 悦 なし。[ 曩祖平 将軍[ 貞盛 、[ 相馬 小次郎[ 将門 を[ 追討 せしよりこのかた、[ 東 八ケ国をしづめて、子々孫々につたへ、[ 朝敵 の[ 謀臣 を[ 誅罰 して、[ 代々世々 にいたるまで、[ 朝家 の[ 聖運 をまもち奉る。[
天皇の命令を重視して、自分の命を軽視した。然則 [ 亡父 故太政大臣、保元・平治両度の合戦の時、勅命をおもうして、私の[ 命 をかろうず。[
ひとへに君のひたすら天皇のために尽くしてきた。為 にして、身のためにせず。[
就中彼 頼朝は、[ 去 平治元年十二月、父[ 左馬頭 義朝が[ 謀反 によッて、[ 頻 に[ 誅罰 さらるべきよし[ 仰 下さるといえども、故入道相国、[ 慈悲 のあまり[ 申 なだめられしところ也。しかるに昔の[ 浩恩 を忘れ、[ 芳意 を存ぜず、[
平治の乱とか、生け捕りになった頼朝を処刑しようとしたところ、叔母さんの池の禅尼が間に立って「助けてくれ」と言った、そのために、処刑すべきはずであった頼朝を救ってやった、その<芳意を存ぜず>、そういう、だからわれわれの好意を無視して、
それほど天皇家のことが気になるのならば、後白河が言うには「あなたがたが四国へいらっしゃい、そうすれば万事うまく治まります」という言い方ですね。忽 に[ 狼贏 の身をもッて、[ 猥 [ 蜂起 の乱をなす。[ 時儀 の[ 甚 しき事[ 申 てあまりあり。早く[ 神幣 の天[ 罰 をまねき、ひそかに[ 拝跡 の[ 損滅 を[ 期 する者[ 歟 。[ 夫日月 は[ 一物 の為にそのあきらかなることをくらうせず。[ 明王 は[ 一人 が為にその法をまげず。一悪をもッて[ 其 善を[ 捨 ず。[ 小瑕 をもッて[ 其 功をお[ ほ ふ事なかれ。[ 且 は当家[ 数代 の奉公、且は[ 亡父数度 の忠節、[ 思食 忘れずは、君[ 忝 く四国の[ 御幸 あるべきか。[
時に臣そうすれば、我々も喜んであなたと一緒に都に帰りましょう。等 院宣をうけ給はり、[ 二 たび旧都にかへッて、[
それでもし拒否されるならば、我々は絶対に納得しない。会稽 の恥をすゝがむ。[ 若 しからずは、[
鬼界・中国・インドまで都を移してゆく。高麗 ・[ 天竺 ・[ 震旦 にいたるべし。[
我々は朝鮮半島から中国へインドまで行きますよ。そうすれば三種の神器はそこへ行ってしまうんですよ。悲哉 、[ 人王 八十一代の[ 御宇 にあたッて、[ 我朝神代 の霊宝、ついにむなしく異国のたからとなさんか。[
よろしくこれらの趣 をもッて、しかるべきやうに[ 洩 奏聞せしめ給へ。宗盛[ 誠恐頓首 、[ 謹言 。[
こういうふうです。皆さんどう思われましたか? こういう流れで『平家物語』は歴史をとらえている、語っているということです。
そして結論として、重衡を人質とした交換条件を拒否する。
さあ、そこで重衡はどうなるでしょうか。やがて重衡に対して関東の頼朝から召喚状が来ます。つまり「連行しろ」という命令が下ります。そこで、その前に「出家したい」と言い出す。この希望を聞いたのはまず源義経です。しかし義経の一存じゃいけないというので、その義経の言葉を後白河に上奏します。そうしますと、後白河はこの辺がなかなかしたたかですね。後白河はなかなかプラグマチックです。非常に現実的な対応をするわけです。
この後白河は、「いや、私の一存じゃいけません。関東の頼朝がどう言うか分からないから、頼朝の判断にゆだねるべし」という形で、出家を許さないわけです。
そこで重衡は、「それじゃ日ごろから篤く信仰しているところ、尊敬しているところの黒谷の上人に会いたい」と。「一体誰か?」と言ったら「法然上人だ」って言うんですね。それならば、有名な人だから、会うことなら差し支えない、というので使者がたちまして、法然上人と重衡とを会わせるわけです。
これからが問題です。
法然上人は重衡と会います。重衡がどういう立場にあったか、話して来ました。考えてみれば、歴史の流れの中で、結果責任を取らざるを得ない状況に追い込まれました。いろいろ言い分はありましょう。しかしながらこういう事態になってしまって、そして重衡が責めを負うことになる。その重衡に対して、法然上人がどういう応え方を、導き方をするか、ということが問題です。
ここで『平家物語』の専門的な話をすると、複雑なので詳しくは申しません。『平家物語』は、ご承知のように琵琶法師によって語られます。そして非常に複雑な経過があるわけです。語られてゆく中で、どんどん変わってくるんです。そして大きく分けますと、二つの系統に分かれる。琵琶法師が語る物語と、そうじゃなくて、お寺で色々説教する場面に説教のネタ本として使われることになってゆく「読み本」があります。つまり「読み本」と、それから「語り本」とに分かれます。
読み本は、源流をさかのぼりますと、どうも高野真言から出ているらしい。高野真言だけではないのですけど、いわゆる高野真言の系統の根来寺が関与しているらしい。そういう系統の本があるわけです。それを我々は「読み本」といっています。
それに対して、「語り本」というのが琵琶法師が語っていったものです。しかし琵琶法師は目が見えませんから、目の見えない琵琶法師がどうしてこういう物語のテキストが必要なのか、ということが最近の大変な論争で、この私と、それから今、学習院大学の兵藤裕己(ひろみ)さんが、最近評判で大活躍している。愛知県出身ですね。何といっても、彼は若いですからね。この語りの文字化は重要な課題です。
私は文字テキストをずっと考えてきたもの。文字テキストを語り手の文字テキストと考えている私が一つ気がついたのは、「語り本」の中で、『屋代本』というテキストがある。これは屋代弘賢という、江戸時代の国学者がいまして、その国学者が持っていた古い写本なんです。これを『屋代本』と言ってますけれど、それに対し、『覚一本』というのは、これは14世紀中ごろの覚一検校という人が出てきまして、その覚一検校が制定した物語です。これを『覚一本』といってます。
この覚一というのは、実は『太平記』にも登場します。忠臣蔵のネタになっている高師直と塩谷判官の物語で、ご存知ですね、浅野内匠頭と吉良上野介。あの時代は、そのまま名前を出せないですから、『太平記』の高師直と塩谷判官の物語に置き換えてしまった物語があります。その高師直が、あるとき、実はある女性に横恋慕します。落ち込んでいるときに琵琶法師を招いて『平家物語』を語らせた。その法師の一人が覚一ですね。その覚一の伝えたものが『覚一本』になる。
この『屋代本』と『覚一本』では、法然が言ってる対応の仕方がかなり違うわけです。
この後、私の話が終わりましたところで、30分ばかりの質疑応答の場をつくっていただくよう、お願いしたわけですけれど、実はこの二つの違った物語をどういうふうに解読していくか、ということについて、ここには大勢の専門家がいらしてますので、ひとつお知恵を拝借したいと思います。
一応私なりの答案を書いたのです。1963年か64年でしたですね、つまり40年経つ論文をですね、それを思い出しながらお話するわけです。さて、その両方の物語を読んでみます。
<三位中将、>・・・これは重衡、<上人>・・・これは法然上人。
【戒文】「屋代本」私が命令を下したのではない。
三位中将、上人に奉り二出合一被レ申ケルハ、「南都ヲ滅シテ候事、世ニハ皆重衡カ所行ト申候ハレハ、聖人モ定テサソ聞召候覧ン。全タフ重衡カ下知シタル事ハ候ハス。
悪党多ク籠テ候シカハ、何ナル者ノ師態ニテカ候ケン。火ヲ放チタル折節シ、風滋シウ吹テ、多クノ伽藍ヲ奉リレ滅、末ノ露本ノシツクト成事ニテ候ナレハ、つまり結果責任ですね。
重衡一人カ罪ニテ、無間ノ底に沈ミ、無間地獄ですね。
永ク出離ノ其期アラシトコソ存候ヘトモこのまま永遠に私は地獄の苦しみを体験せざるを得ないと思います。
皆人ノ生身ノ如来ト奉ルレ仰上人ニ、人びとが皆、生きながらの仏さまであると尊敬しているあなたに、
生テ二度奉リレ入二見参ニ一タレハ、今ハ無始罪障悉ク消滅シ候ヌトコソ覚候ヘ。ありがたい法然上人にお目にかかったことによって、私の罪は全部消滅するであろう。
出家ハ免レネハ不レ及レ力。本鳥付ナカラ授ケレ戒ヲサセ給ヘウヤ候覧ン」ト申サレケレハ、聖人泣々頂キ計リ剃テ戒ヲソ授給ケル。其ノ夜ハ上人留給テ、終夜、浄土荘厳可レ観ス、ずっと極楽浄土を想いうかべて、お経をあげるでしょう、念仏も称えるでしょう。色々な修行を行いながら浄土荘厳を想像するわけですね。
様々ノ法文共ヲソ宣ヒケル。三位ノ中将、「ウレシカリケル善知識哉」と悦テ、年来常ニヲハシテ遊ヒ給ケル侍ノ本に頂ケ置レタリケル御硯ヲ召シ寄テ、「是ハ故入道相国ノ、宋朝ヨリ渡テ秘蔵して候シヲ、重衡ニタヒテ候。名ヲハ松陰ト申名誉ノ硯ニテ候也。御目ノ通ン所ニ置セ給テ、御覧ンセン度ヒ毎ニ重衡カ物と思召出テ、後生訪ハセ給ヘ」トテ奉給フ。上人是ヲ請ケ取リ懐ロに入レ、涙ヲ押ヘて出給フ。
さて、いかがでしょうか。こういう、ですから、『屋代本』の平家物語の語り方。ところがこれを、同じ重衡と法然上人との対話を、『覚一本』は次のように語るわけです。
【戒文】「覚一本」これは請文のことですね。きっと平家は拒否するであろう、と。
三位 中将[ 是 を[ 聞 いて、「さこそはあらむずれ、[
いかに一門の人々わるく思ひけん」と後悔すれひょっとして、という弱いところを見せるわけです。共 かひぞなき。けにも重衡卿一人を[ お しみて、さしもの[ 我朝 の重宝、三種の神器を返し[ 入 れ奉るべし[ 共 おぼえねば、[ 此 御請文のおもむきはかねてより思ひまうけられたりしかども、[ 未左右 を申されざりつる程は、なにとなういぶせく[ 思 はれけるに、[
この辺の重衡のものの言いようです。請文 すでに到来して、関東へ下向せらるべきに[ 定 まりしかば、なむのたのみもよ[ は りはて[ て 、よろづ心ぼそう、都の名残も今更[ お しう思はれける。三位中将、土肥次郎を[ 召 して、「出家をせばやと思ふはいかゞあるべき」とのたまへば、実平、[ 此由 を九郎[ 御曹司 に申す。[ 院 御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に[ 見 せて後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかでかゆるすべき」と[ 仰 せければ、[ 此 よしを申す。「さらば年ごろ[ 契 ッたりし[ 聖 に今[ 一度 対面して、[ 後生 のことを[ 申 談ぜばやと思ふはいかゞすべき」との給へば、「聖をば誰と申候やらん」。「[ 黒谷 の[ 法然房 と[ 申 人也」。さてはくるしう候まじ」とて、ゆるし奉る。中将なのめならず悦ンで、聖を請じたてまッて、[ 泣 泣申されけるは、[
「今度いきながらとらはれて候けるは、ま、ここは似てますね、『屋代本』と。二 たび上人の見参に[ 罷入 るべきで候けり。[
さても重衡が後生、いかゞ候べき。どうしたらいいでしょう。
身の身にて候し程は、非常に平家が栄華を極めている頃は、
出仕にまぎれ、政務にほだされ、政治の仕事に追われて、
ともすれば思い上がったことをやっていた。驕慢 の心のみふかくして、[
かへッて当来のこれから後どうなるかは全然考えない。昇沈 をかへりみず。[
立場上逃れようがなかった。拒否できなかった。況 や運[ 尽 き、世乱てより[ 以来 は、こゝにたゝかひ、かしこにあらそひ、人をほろぼし身をたすからんと思う悪心のみ[ 遮 て、善心はかつて[ 発 らず。[ 就中 に南都[ 炎上 の事、王命と[ 言 ひ[ 武命 と[ 言 ひ、君につかへ世に[ 従 [ う [ 法 [ 遁 がたくして、[
こうなったのも日ごろからの、ともすれば職務を果たしながらも、そして平家が危なくなってからは戦闘に終始していた。そして火が回って南都が炎上してしまった。衆徒 の[ 悪行 をしづめんが為にまかりむかッて候し程に、[ 不慮 に[ 伽藍 の滅亡に[ 及 候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍にて候し上は、せめ(責任)[ 一人 に[ 帰 すとかや申候なれば、重衡一人が[ 罪業 にこそなり候ぬらめと覚え候。[ 且 は(それに)か[ 様 に人[ 知 れず、かれこれ[ 恥 をさらし候も、しかしながら[ 其 むく[ ひ とのみこそ思ひ[ 知 られて候へ。[
今はかしらをそり、戒をたもちなんどして、つまり、成仏するためには色々な方法があるけれども、偏 に仏道修行したう候へども、かゝる身にまかりなッて候へば、心に心をもまかせ候はず。けふ明日とも[ 知 らぬ身のゆく[ ゑ にて候へば、いかなる[ 行 (行い)を[ 修 して一[ 業 たすかるべしとも覚えぬこそ口をしう候へ。[ 倩 一生の[ 化行 を思ふに、[ 罪業 は[ 須弥 よりも高く、善業は[ 微塵 ばかりも[ 蓄 へなし。かくてむなしく命[ お はりなば、[ 火穴湯 (地獄・餓鬼・畜生道へ落ちる)の[ 苦果 (報い)あへて[ 疑 なし。[ 願 くは、上人[ 慈悲 をおこし、あはれみをたれて、かゝる悪人のたすかりぬべき方法候は[ ば 、示し給へ」。[
其時上人涙に咽 て、しばしは物もの給はず。[ 良 久しうあッて、「誠に[ 受難 き[ 人身 をうけながら、むなしう三[ 途 にかへり給はん事かなしんでもな[ を あまりあり。しかるを今[ 穢土 をいとひ、浄土をねがはんに、悪心を[ 捨 て善心[ 発 しましまさん事、[ 三世 (過去・現在・未来)の諸仏も定て[ 随喜 したまふべし。それについて[ 出離 の(仏門に入る)道まちまちなりといへども、[
こんなに乱れてる法が行われている末法の時代、乱れている時代には、末法濁乱 の[ 機 には、[
南無阿弥陀仏という名を称えることを「勝れたりとす。」称名 をもッて[ 勝 れたりとす。[
心ざしを難しいことはない。南無阿弥陀仏、六字にこの身をゆだね、九品 にわかち、[ 行 を六字につゞめて、いかなる[ 愚痴闇鈍 の者も[ 唱 ふるに[ 便 あり。[
罪 ふかければとて[ 卑下 したまふべからず。十[ 悪 五[ 逆廻心 すれば、[ 往 生をとぐ。[ 功徳 すくなければとて、[ 望 をたつべからず。一念、十念の心を[ 致 せば、[ 来迎 す。「[ 専称名号至西方 」と[ 釈 して、[
これは下の注釈にある通り、『日中偈』とか、それから善導和尚の言葉ですね。浄土三部経に出てくるものだと思いますが、「専称名号至西方」と、これを翻訳すると、専ら名号を称ずれば、西方に至る、つまり解読をしているわけです。
要するに、南無阿弥陀仏という名前を称えれば、結果的に懺悔することになるんだ、専 名号を[ 称 ずれば西方にいたる。「念々[ 称名常懺悔 」とのべて、念々に[ 弥陀 を唱ふれば、[ 懺悔 する也[
とをしへたり。「要するにここは、浄土宗の一番大事なところです。利剣即是弥陀号 」をたのめば、[ 魔閻 ちかづかず。「[ 一声称念罪皆叙 」と念ずれば、[ 罪 みなのぞけりと[ 見 えたり。浄土[ 宗 の[ 至極 (極重)[ を のをの[ 略 を存じて、[ 大略 是を[ 肝心 とす。[
こういうふうに説かれます。但 往生の[ 得否 (可不可)は、[ 信 心の[ 有無 によるべし。たゞふかく信じて、ゆめゆめ[ 疑 をなし給ふべからず。[ 若此 をしへをふかく信じて、[ 行住坐臥 、[ 時処諸縁 をきらはず、三[ 業 四[ 威儀 において(いつ、どこでも)、[ 心念口称 をわすれ給はずは、[ 畢命 を[ 期 として(臨終には)、此[ 苦域 の[ 界 を[ 出 て、[ 彼不退 の[ 土 に[ 往 生し給はん事、何の疑かあらむや」と[ 教化 し給ひければ、中将なのめならず悦ンで、「此ついでに[ 戒 をたもたばやと[ 存 候は、出家[ 仕 候はでは、かなひ候まじや」と申されければ、「出家せぬ人も[ 戒 をたもつ事は、世のつねのならひなり」とて、[ 額 にかうぞり(かみそり)をあて[ て 、そるまねをして十[ 戒 をさづけられければ、中将[ 随喜 の涙を[ 流 いて、是をうけたもち給ふ。上人もよろづ物あはれに覚えて、かきくらす心地して、[ 泣 泣[ 戒 をぞとかれける。[
こういう法然上人の説教にしましても、『屋代本』と『覚一本』ではかなり違いがある。これは薄々とは気がついていたのです。例えば丁度40年ほど昔、『平家物語』の作者は誰か、という問題がありまして、信濃前司行長と言われていたんですけれども、法然と関係があるならば、当然これは『平家物語』の中に法然の教えが出てくるはずである。しかしどうも『平家物語』を見ると、必ずしもそうじゃなくて、その前の段階の源信、比叡山の源信の世界じゃないか、ということが言われています。
これは家永三郎さんが、おっしゃっている。『平家物語』のバックにある仏教というのは、源信流の思想であるというのです。
それに対して、当時の早稲田大学の宗教学の教授であった福井康順さん、この方は大変な方ですが、福井康順さんは、「やはり法然が登場している」と、しかし法然が登場したというのなら、これは明らかに法然上人がうしろにあるはずである。ところが信濃前司行長は上人とは接点がないんですね。そういうことから、「信濃前司行長が『平家物語』を作ったというのは嘘である」と、そういうふうに論をもっていった。
このような論争になって、国語学者であった時枝誠記(ときえだもとき)さんのお説に、実はこれは同じ物語といってもテキストによって違うんだ、と。そういうことを無視してはいけない、ということを言って、大変な論争になった。これを法然義論争と申します。
そういう状況の中で、丁度私が色々なテキストの違いを考えていたものですから、編集部から、この問題について考えてくれと言って来ました。私は、そこで、昔の人たちが、死を迎えた時に一体どういう行動をとっただろうか、ということを高僧伝や往生伝を通して見たんですね。そうしますと、時代が変わると色々な死に方があるわけですね。中には確かに、南無阿弥陀仏と称えたという例がたくさんある。一方では、そう言いながら、お経を写したり、お寺を建てたり、善行を行う、ということをするんですね。そういうものを見て、一体どこで法然的なものを見るべきかと考えてしまいました。
そうして、迷いに迷った挙句に出会ったのが、この『選択本願念仏集』です。これを見ると、色んな往生する行がある中で、称名念仏、南無阿弥陀仏を称えることが一番勝れている、と選択しているわけです。
つまり、色々な行動の中から「称名念仏」を選び出した。つまり、いろいろな行動の中から一つの選択ですね。これは現象的だと思うんですが。実は、称名念仏を選択しているところに法然の実体が出ているということを、全く今から考えれば冷や汗が出ますけれども、書いてしまいました。その論文が出たときに、国文学者の中にも仏教に詳しい人たちがいて、その仏教の専門家が私の論文を読んで、「山下の論文は非常に教学的すぎる」、「余りにも教学的すぎる」と言って、「仏教の実態を知らない」という批判を浴びせられました。
仏教学的といえば、そうかも知れないけれど、『平家物語』は教学的かどうかはさておいて、『平家物語』は、特に『屋代本』から『覚一本』に変わる過程において、確実に選択の姿勢を保っている。そこで『選択本願念仏集』にあるように、『平家物語』の語り手の琵琶法師たちは、こういう一つの説教の仕方をしている。ということで、『平家物語の仏教』と結論づけた訳です。こういう考え方が、果たして当たっているかどうか分かりませんが。
この後、重衡は関東に連行されます。ここでまた、頼朝と対決する。頼朝との対決は読みませんけれど、先ほどの話と同じことを、重衡は堂々と頼朝に主張するわけです。「結果責任は私です。しかしこれは私がやらせたわけではなく不慮のことだった」ということを言うわけです。「しかし責任は私が取ります」と言う。
その後、頼朝は非常に満足しまして、千手の前という女性を介添えとしてつけさせたのです。千手の前は重衡の身の回りの世話をし、後生について語り合うのが「千手前」です。やがて千手の前は、重衡が処刑されたことを聞いて出家します。そして善光寺に入っていった、という物語が後につくわけです。
そして重衡は、<粉津の辺にてきらすべし>とありますが、粉津というのは木津川です。木津川のほとりで処刑されます。処刑される前に、内裏女房のところでも出てきましたが、最期になって、このままではとても成仏はできないから、仏像を拝みたい言って、探し出して来た阿弥陀如来の像にすがりながら、「南無阿弥陀仏」と称えて処刑されるわけです。
【重衡被斬】
守護の武士も、みな涙をぞ流 しける。その頸をば[ 般若寺 、[ 大鳥井 の前に[ 釘 づけにこそかけたりけれ。[ 治承 の合戦の時、こゝにうッ[ 立 ッて、[ 伽藍 をほろぼし給へる[ 故也 。[
ということで、般若寺のここに重衡の頸がさらされたわけです。そして能の「笠卒塔婆」というのは、問題の般若寺にある、この笠卒塔婆だと言うのです。修羅能の「笠卒塔婆」は、重衡を、そのように登場させる。以上が重衡の最期です。そして、実は今、「戒文」を読みましたけれども、徳川幕府の記録の『徳川実紀』に、<将軍・大名と法華頓写>、徳川将軍、家継の時代ですね。<正徳二年>ですから、1712年です。
【将軍・大名と法華頓写】
徳川実紀 正徳二年正徳二年十一月十六日 このたびの御法会(六代将軍家宣葬儀)により瞽者(盲人)にも賜物あり。検校に青鳧(銭)三十貫、座頭に千貫文、盲女に二百貫なり。豊波、豊田両検校は、頓写の時平家琵琶を弾ぜしにより別に銀を下さる。
<このたびの御法会>というのは、徳川将軍家宣の葬儀ですね。
<瞽者[こしゃ]>というのは盲人です。盲人にも賜り物がある。
<検校[けんぎょう]>というのは盲人の中の官位を持っている人です。
<青鳧三十貫文>の<青鳧>というのは、お金です。お金三十貫文を将軍は検校に渡す、
<頓写>というのは、後で教えていただきたいのですが、法華経をすばやく写経することです。法華経を頓写する時に、その間、豊波検校や豊田検校が、<平家琵琶を弾ぜしにより別に銀を下さる>とあります。
尾張藩では、建中寺で尾張のお殿様の仏事があった時に、やはり「法華頓写」があった。その法華頓写の席で、どうやら、問題の「戒文」が語られたらしい。ですから、将軍や、尾張の殿様と『平家物語』の語っている問題が重なっていまして、場合によっては、重衡の「戒文」の沙汰が語られることがあったようです。
以上、特に「覚一本」の「戒文」の沙汰を私から見た思い切った解釈を行ってまいりました。この機会に、ひとつ専門家の見方をお教えいただきたいと思います。
「平家物語と仏教」ではなくて、「平家物語の」、教学的にはどうか知りません。要するに琵琶法師は『平家物語』を以上のように歴史を語ってまいりました。そして重衡に関して、今申しましたようなひとつの説教を行ったわけでございます。
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あえて口語訳を付さなかったが、小学館『新編日本古典文学全集 平家物語』二冊に口語訳があるので参照されたい。
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八島院宣 】[ 大臣殿 ・平大納言のもとへは、院宣の[ 趣 を[ 申 給ふ。二位殿へは[ 御文 こまごまとかいてま[ い らせられたり。「今一度御覧ぜんとおぼしめし候は[ ば 、内侍所の御事を、大臣殿に[ 能々 申させおはしませ。さ候はでは、[ 此 世にて[ 見参 に[ 入 べしとも覚え候はず」なンどぞかゝれたる。二位殿はこれを見給ひて、とかうの事もの給はず、文をふところに引[ 入 れて、うつぶしにぞなられける。まことに心のうち、さこそはおはしけめと、おしはかられて[ 哀 なり。[ [ 【
請文 】[ 今月十四日 の院宣、[ 同 廿八日、[ 讃岐 国八島の磯に到来。[ 謹以 承る所[ 如件 。[ 但 これについてかれを案ずるに、通盛卿[ 已下 [ 当家数輩 、摂州一谷にして[ 既 に[ 誅 せられ[ お はンぬ。[ 何 ぞ重衡[ 一人 の[ 寛宥 を[ 悦 べきや。[ 夫我君 は、故高倉の[ 御譲 をうけさせ給ひて、[ 御 在位既に[ 四 ケ年、[ 政尭舜 の古風をとぶらふところに、[ 東夷 ・[ 北狄 ・[ 党 をむすび、[ 群 をなして[ 入洛 の間、[ 且 は[ 幼帝 、[ 母后 の[ 御嘆 、[ 尤 もふかく、[ 且 は[ 外戚 ・[ 近 臣のいきど[ を りあさからざるによッて、しばらく[ 九国 に幸[ [
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