平成アーカイブス  <研修会の記録>

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【平成アーカイブ/研修会の記録】
公開講座   〔平成15年11月9日(日)〕

平家物語の仏教 2

法然上人との出遇い

講師: 山下宏明 先生

 母親に窮状を訴える

 先ほどお話しいたしましたことを簡単に振り返っておきますと、なぜ平清盛が南都、奈良のお寺に対して怒りをもったか、そして清盛の怒りを受けて重衡が大将軍として出兵し、最初は一方的に火を放つ気持ちはなかったのですが、結果的に火を放って、そしてとんでもない事件になってしまった。その当事者が平重衡であった、ということをお話ししました。そのように『平家物語』は一連の事件をとらえ、そして重衡を理解しています。

 なお『方丈記私記』の堀田善衛さんの名前を出しましたが、堀田さんは、富山県の伏木の生まれ、旧回船問屋の子息で、堀田家は、あるいは一向一揆の系統の宗派のお宅じゃないかと思います。一度堀田家に伺ったことがありまして、すごく立派な仏壇があったことを思い出します。堀田善衛さんは、さかんに「一期一会」とか「倶会一処」なんて言葉を小説の中で入れるわけですね。おそらく堀田氏のライフワークに仏教の問題があるんじゃないかな、と思っています。

 さて、こういうことで、いよいよ重衡が生け捕りになってしまいます。そして当然責任・罪を負うことになるわけです。平家の一行は、一の谷の合戦の後、八島に向かいます。そして都には後白河上皇がいるのですが、実は当初、平家は都落ちをするときに、後白河を同行しようとする。ところが後白河は、さっとうまく体をかわして逃げてしまうんですね。結果的に平家は後白河を残したままで、安徳天皇を擁して都落ちをすることになった。そしてその後、木曾義仲が都に入ってきまして、後白河は木曾義仲と同盟を結んで、一方鎌倉の頼朝と連絡を取っていましたが、やがてその義仲が都で乱暴をはたらくものですから、後白河は頼朝とタイアップして、結果的に義仲を討ち平らげる、ということをやります。そして今申しました状況の中で、京都には天皇がいなくなるわけです。天皇は四国に行ってしまって、これは政治上まずい、というんで、後白河は後鳥羽天皇を即位させます。

 ところが、即位させようとしても残念なことに三種の神器が無いわけです。そこで困って、後白河は重衡に持ちかけます。「そなたを助けてやる。その代り交換条件として、安徳天皇ならびに三種の神器を都に返せ」、という交換条件を出すわけです。【八島院宣】です。

 それを出すについて、重衡にも、「自分を救ってくれ、という嘆願書を書け」と後白河は言う。それに対して重衡は、そんなものを書いたって、自分一人のために平家一門が応じるわけがない。しかしそう言いながら、ひょっとすると母親の二位殿が自分に同情してくれるかもわからない。そういうことを申します。

【巻十 八島院宣】
大臣殿[おほいとの]・平大納言のもとへは、
「大臣殿」というのは当時の平家の頭領の宗盛です。それから平大納言は時忠ですね。
院宣の[おもむき][まうし]給ふ。二位殿へは御文[おんふみ]こまごまとかいてま[〔ゐ〕]らせられたり。「今一度御覧ぜんとおぼしめし候は[]
もう一度私に会いたいと思ったならば、<内侍所>・・・三種の神器ですね。
内侍所の御事を、大臣殿に能々[よくよく]申させおはしませ。
宗盛に言って三種の神器を差し出し、
さ候はでは、[この]世にて見参[〔けんざん〕][いる]べしとも覚え候はず
無ければ、二度と生きてお母さんにお目にかかることはできないでしょう。
なンどぞかゝれたる。二位殿はこれを見給ひて、とかうの事もの給はず、文をふところに引[〔い〕]れて、うつぶしにぞなられける。まことに心のうち、さこそはおはしけめと、おしはかられて[あはれ]なり。

 そしてここで平家一門が相談します。どうしたものか、色々と意見が出ます。しかしまさか重衡一人のために三種の神器を出すわけにはいかない。まして案徳天皇を都に返したくない、と言って拒否します。その中で二位殿ひとりが「たのむから救ってくれ」と懇願します。

 万策尽きた重衡

 それに対する拒絶の回答が問題の【請文】です。

請文[うけぶみ]
今月十四日[こんぐわつじふしにち]の院宣、[おなじき]廿八日、讃岐[さぬきの]国八島の磯に到来。謹以[ツつシンデもって]承る所如件[くだんのごとし]
[ただし]これについてかれを案ずるに、通盛卿已下[イゲ]当家数輩[たうケスハイ]、摂州一谷にして[スデ][チウ]せられ[〔を〕]はンぬ。[なん]ぞ重衡一人[いちにん]寛宥[クハンユウ][ヨロコブ]べきや。

重衡一人許されたところで、大勢の君たちが亡くなっているのに、重衡一人許されたからといって悦ぶわけにはいかない、ということです。

夫我君[それわがきみ]は、故高倉の御譲[おんユヅリ]をうけさせ給ひて、[]在位既に[]ケ年、政尭舜[マツリゴトげうしゅん]の古風をとぶらふところに、東夷[とうイ]北狄[ホクテキ][トウ]をむすび、[グン]をなして入洛[じゅらく]の間、[かつう]幼帝[ヨウテイ]母后[ボコウ]御嘆[なげき][もっと]もふかく、[かつう]外戚[グハイセキ][キン]臣のいきど[〔ほ〕]りあさからざるによッて、しばらく九国[くこく][カウ]す。
つまり、不本意ながら自分たちは都落ちした。
還幸[クハンカウ]なからんにおいては、三[ジュ]神器[いんギ]いかでか玉体[ぎょくタイ]をはなち奉るべきや。
つまり、天皇が都に帰らない限りは、三種の神器を返すべきでない。
それ臣は君を以て心とし、君は臣をもッて[タイ]とす。君やすければ、すなはち臣やすく、臣やすければすなはち国やすし。君かみにうれふれば、臣しもにたのしまず。心中[しんぢゅう][ウレイ]あれば、体外[タイゲハイ][よろこび]なし。曩祖平[ソウソヘイ]将軍貞盛[さだもり]相馬[サウマの]小次郎将門[マサカド]追討[ツイタウ]せしよりこのかた、[とう]八ケ国をしづめて、子々孫々につたへ、朝敵[テウテキ]謀臣[ボウシン]誅罰[チウバツ]して、代々世々[だいだいせせ]にいたるまで、朝家[テウカ]聖運[セイウン]をまもち奉る。
代々平家は朝敵と戦い、朝廷に忠節を尽くしてきた。
然則[しかればすなはち]亡父[バウブ]故太政大臣、保元・平治両度の合戦の時、勅命をおもうして、私の[めい]をかろうず。
天皇の命令を重視して、自分の命を軽視した。
ひとへに君の[ため]にして、身のためにせず。
ひたすら天皇のために尽くしてきた。
就中彼[なかんづくかの]頼朝は、[さんぬる]平治元年十二月、父左馬頭[さまのかみ]義朝が謀反[ムホン]によッて、[シキリ]誅罰[チウバツ]さらるべきよし[おほせ]下さるといえども、故入道相国、慈悲[ジヒ]のあまり[まうし]なだめられしところ也。しかるに昔の浩恩[コウヲン]を忘れ、芳意[ハウイ]を存ぜず、

 平治の乱とか、生け捕りになった頼朝を処刑しようとしたところ、叔母さんの池の禅尼が間に立って「助けてくれ」と言った、そのために、処刑すべきはずであった頼朝を救ってやった、その<芳意を存ぜず>、そういう、だからわれわれの好意を無視して、

[たちまち]狼贏[ラウルイ]の身をもッて、[ミダリガハシク]蜂起[ホウキ]の乱をなす。時儀[シキ][ハナハダ]しき事[まうし]てあまりあり。早く神幣[しんベイ]の天[バツ]をまねき、ひそかに拝跡[ハイセキ]損滅[ソンメツ][]する者[]夫日月[それじつげつ]一物[いちもつ]の為にそのあきらかなることをくらうせず。明王[めいわう]一人[いちにん]が為にその法をまげず。一悪をもッて[その]善を[すて]ず。小瑕[せうカ]をもッて[その]功をお[〔ゝ〕]ふ事なかれ。[かつう]は当家数代[すだい]の奉公、且は亡父数度[ばうぶすど]の忠節、思食[おぼしめし]忘れずは、君[かたじけな]く四国の御幸[ごかう]あるべきか。
それほど天皇家のことが気になるのならば、後白河が言うには「あなたがたが四国へいらっしゃい、そうすれば万事うまく治まります」という言い方ですね。
時に臣[]院宣をうけ給はり、[ふた]たび旧都にかへッて、
そうすれば、我々も喜んであなたと一緒に都に帰りましょう。
会稽[くわいけい]の恥をすゝがむ。[もし]しからずは、
それでもし拒否されるならば、我々は絶対に納得しない。
鬼界・高麗[かうらい]天竺[てんぢく]震旦[しんだん]にいたるべし。
中国・インドまで都を移してゆく。
悲哉[かなしきかな]人王[にんわう]八十一代の御宇[ぎょう]にあたッて、我朝神代[わがてうかみよ]の霊宝、ついにむなしく異国のたからとなさんか。
我々は朝鮮半島から中国へインドまで行きますよ。そうすれば三種の神器はそこへ行ってしまうんですよ。
よろしくこれらの[おもむき]をもッて、しかるべきやうに[モラシ]奏聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首[せいきょうトンジュ]謹言[ツつシンデマウス]

 こういうふうです。皆さんどう思われましたか? こういう流れで『平家物語』は歴史をとらえている、語っているということです。
 そして結論として、重衡を人質とした交換条件を拒否する。

 さあ、そこで重衡はどうなるでしょうか。やがて重衡に対して関東の頼朝から召喚状が来ます。つまり「連行しろ」という命令が下ります。そこで、その前に「出家したい」と言い出す。この希望を聞いたのはまず源義経です。しかし義経の一存じゃいけないというので、その義経の言葉を後白河に上奏します。そうしますと、後白河はこの辺がなかなかしたたかですね。後白河はなかなかプラグマチックです。非常に現実的な対応をするわけです。
 この後白河は、「いや、私の一存じゃいけません。関東の頼朝がどう言うか分からないから、頼朝の判断にゆだねるべし」という形で、出家を許さないわけです。

 そこで重衡は、「それじゃ日ごろから篤く信仰しているところ、尊敬しているところの黒谷の上人に会いたい」と。「一体誰か?」と言ったら「法然上人だ」って言うんですね。それならば、有名な人だから、会うことなら差し支えない、というので使者がたちまして、法然上人と重衡とを会わせるわけです。

 「読み本」と「語り本」の違い

 これからが問題です。

 法然上人は重衡と会います。重衡がどういう立場にあったか、話して来ました。考えてみれば、歴史の流れの中で、結果責任を取らざるを得ない状況に追い込まれました。いろいろ言い分はありましょう。しかしながらこういう事態になってしまって、そして重衡が責めを負うことになる。その重衡に対して、法然上人がどういう応え方を、導き方をするか、ということが問題です。

 ここで『平家物語』の専門的な話をすると、複雑なので詳しくは申しません。『平家物語』は、ご承知のように琵琶法師によって語られます。そして非常に複雑な経過があるわけです。語られてゆく中で、どんどん変わってくるんです。そして大きく分けますと、二つの系統に分かれる。琵琶法師が語る物語と、そうじゃなくて、お寺で色々説教する場面に説教のネタ本として使われることになってゆく「読み本」があります。つまり「読み本」と、それから「語り本」とに分かれます。

 読み本は、源流をさかのぼりますと、どうも高野真言から出ているらしい。高野真言だけではないのですけど、いわゆる高野真言の系統の根来寺が関与しているらしい。そういう系統の本があるわけです。それを我々は「読み本」といっています。

 それに対して、「語り本」というのが琵琶法師が語っていったものです。しかし琵琶法師は目が見えませんから、目の見えない琵琶法師がどうしてこういう物語のテキストが必要なのか、ということが最近の大変な論争で、この私と、それから今、学習院大学の兵藤裕己(ひろみ)さんが、最近評判で大活躍している。愛知県出身ですね。何といっても、彼は若いですからね。この語りの文字化は重要な課題です。

 私は文字テキストをずっと考えてきたもの。文字テキストを語り手の文字テキストと考えている私が一つ気がついたのは、「語り本」の中で、『屋代本』というテキストがある。これは屋代弘賢という、江戸時代の国学者がいまして、その国学者が持っていた古い写本なんです。これを『屋代本』と言ってますけれど、それに対し、『覚一本』というのは、これは14世紀中ごろの覚一検校という人が出てきまして、その覚一検校が制定した物語です。これを『覚一本』といってます。

 この覚一というのは、実は『太平記』にも登場します。忠臣蔵のネタになっている高師直と塩谷判官の物語で、ご存知ですね、浅野内匠頭と吉良上野介。あの時代は、そのまま名前を出せないですから、『太平記』の高師直と塩谷判官の物語に置き換えてしまった物語があります。その高師直が、あるとき、実はある女性に横恋慕します。落ち込んでいるときに琵琶法師を招いて『平家物語』を語らせた。その法師の一人が覚一ですね。その覚一の伝えたものが『覚一本』になる。

 この『屋代本』と『覚一本』では、法然が言ってる対応の仕方がかなり違うわけです。
 この後、私の話が終わりましたところで、30分ばかりの質疑応答の場をつくっていただくよう、お願いしたわけですけれど、実はこの二つの違った物語をどういうふうに解読していくか、ということについて、ここには大勢の専門家がいらしてますので、ひとつお知恵を拝借したいと思います。

 一応私なりの答案を書いたのです。1963年か64年でしたですね、つまり40年経つ論文をですね、それを思い出しながらお話するわけです。さて、その両方の物語を読んでみます。

 法然上人の教説


<三位中将、>・・・これは重衡、<上人>・・・これは法然上人。

【戒文】「屋代本」
 三位中将、上人に奉出合申ケルハ、「南都ヲ滅シテ候事、世ニハ皆重衡カ所行ト申候ハレハ、聖人モ定テサソ聞召候覧。全フ重衡カ下知シタル事ハ候ハス。
私が命令を下したのではない。
悪党多ク籠テ候シカハ、何ナル者ノ師態ニテカ候ケン。火ヲ放チタル折節、風滋シウ吹テ、多クノ伽藍ヲ奉滅、末ノ露本ノシツクト成事ニテ候ナレハ、
つまり結果責任ですね。
重衡一人カ罪ニテ、無間ノ底に沈ミ、
無間地獄ですね。
永ク出離ノ其期アラシトコソ存候ヘトモ
このまま永遠に私は地獄の苦しみを体験せざるを得ないと思います。
皆人ノ生身如来ト奉仰上人
人びとが皆、生きながらの仏さまであると尊敬しているあなたに、
生テ二度奉見参タレハ、今ハ無始罪障悉ク消滅シ候ヌトコソ覚候ヘ。
ありがたい法然上人にお目にかかったことによって、私の罪は全部消滅するであろう。
出家ハ免レネハ不力。本鳥付ナカラ授サセ給ヘウヤ候覧」ト申サレケレハ、聖人泣々頂剃テ戒ヲソ授給ケル。其夜ハ上人留給テ、終夜、浄土荘厳可
ずっと極楽浄土を想いうかべて、お経をあげるでしょう、念仏も称えるでしょう。色々な修行を行いながら浄土荘厳を想像するわけですね。
様々ノ法文共ヲソ宣ケル。三位中将、「ウレシカリケル善知識哉」と悦テ、年来常ニヲハシテ遊給ケル侍ノ本に頂置レタリケル御硯ヲ召寄テ、「是ハ故入道相国ノ、宋朝ヨリ渡テ秘蔵して候シヲ、重衡ニタヒテ候。名ヲハ松陰ト申名誉ノ硯ニテ候也。御目ノ通ン所ニ置セ給テ、御覧セン度毎ニ重衡カ物と思召出テ、後生訪ハセ給ヘ」トテ奉給フ。上人是ヲ請に入レ、涙ヲ押て出給フ。

 さて、いかがでしょうか。こういう、ですから、『屋代本』の平家物語の語り方。ところがこれを、同じ重衡と法然上人との対話を、『覚一本』は次のように語るわけです。

【戒文】「覚一本」
 三位[さんみの]中将[これ][〔き〕]いて、「さこそはあらむずれ、
これは請文のことですね。きっと平家は拒否するであろう、と。
いかに一門の人々わるく思ひけん」と後悔すれ[ども]かひぞなき。けにも重衡卿一人を[〔を〕]しみて、さしもの我朝[わがてう]の重宝、三種の神器を返し[〔い〕]れ奉るべし[とも]おぼえねば、[この]御請文のおもむきはかねてより思ひまうけられたりしかども、未左右[いまださう]を申されざりつる程は、なにとなういぶせく[〔おも〕]はれけるに、
ひょっとして、という弱いところを見せるわけです。
請文[うけぶみ]すでに到来して、関東へ下向せらるべきに[〔さだ〕]まりしかば、なむのたのみもよ[〔わ〕]りはて[〔ゝ〕]、よろづ心ぼそう、都の名残も今更[〔を〕]しう思はれける。三位中将、土肥次郎を[〔め〕]して、「出家をせばやと思ふはいかゞあるべき」とのたまへば、実平、此由[おのよし]を九郎御曹司[おんざうし]に申す。[ゐんの]御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に[〔み〕]せて後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかでかゆるすべき」と[おほせ]せければ、[この]よしを申す。「さらば年ごろ[ちぎ]ッたりし[ひじり]に今一度[いちど]対面して、後生[ごしょう]のことを[まうし]談ぜばやと思ふはいかゞすべき」との給へば、「聖をば誰と申候やらん」。「黒谷[くろだに]法然房[ほふネンばう][まうす]人也」。さてはくるしう候まじ」とて、ゆるし奉る。中将なのめならず悦ンで、聖を請じたてまッて、[なく]泣申されけるは、
この辺の重衡のものの言いようです。
「今度いきながらとらはれて候けるは、[ふた]たび上人の見参に罷入[まかり〔い〕]るべきで候けり。
ま、ここは似てますね、『屋代本』と。
さても重衡が後生、いかゞ候べき。
どうしたらいいでしょう。
身の身にて候し程は、
非常に平家が栄華を極めている頃は、
出仕にまぎれ、政務にほだされ、
政治の仕事に追われて、
驕慢[ケウマン]の心のみふかくして、
ともすれば思い上がったことをやっていた。
かへッて当来の昇沈[セウチン]をかへりみず。
これから後どうなるかは全然考えない。
[イハン]や運[〔つ〕]き、世乱てより以来[このかた]は、こゝにたゝかひ、かしこにあらそひ、人をほろぼし身をたすからんと思う悪心のみ[サヘギッ]て、善心はかつて[ヲコ]らず。就中[なかんづく]に南都炎上[えんしゃう]の事、王命と[〔い〕]武命[ぶめい][〔い〕]ひ、君につかへ世に[〔したが〕][〔ふ〕][〔はう〕][ノガレ]がたくして、
立場上逃れようがなかった。拒否できなかった。
衆徒[しゅうと]悪行[あくぎゃう]をしづめんが為にまかりむかッて候し程に、不慮[おもはざる]伽藍[ガラン]の滅亡に[および]候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍にて候し上は、せめ(責任)一人[いちにん][]すとかや申候なれば、重衡一人が罪業[ザイゴウ]にこそなり候ぬらめと覚え候。[かつう]は(それに)か[やう]に人[〔し〕]れず、かれこれ[ハヂ]をさらし候も、しかしながら[その]むく[〔い〕]とのみこそ思ひ[〔し〕]られて候へ。
こうなったのも日ごろからの、ともすれば職務を果たしながらも、そして平家が危なくなってからは戦闘に終始していた。そして火が回って南都が炎上してしまった。
今はかしらをそり、戒をたもちなんどして、[ひとへ]に仏道修行したう候へども、かゝる身にまかりなッて候へば、心に心をもまかせ候はず。けふ明日とも[〔し〕]らぬ身のゆく[〔へ〕]にて候へば、いかなる[ぎゃう](行い)を[シュ]して一[ゴウ]たすかるべしとも覚えぬこそ口をしう候へ。[つらつら]一生の化行[ケギャウ]を思ふに、罪業[ザイゴウ]須弥[シュミ]よりも高く、善業は微塵[ミヂン]ばかりも[タクハ]へなし。かくてむなしく命[〔を〕]はりなば、火穴湯[くわケッタウ](地獄・餓鬼・畜生道へ落ちる)の苦果[ククワ](報い)あへて[ウタガイ]なし。[ネガハ]くは、上人慈悲[ジヒ]をおこし、あはれみをたれて、かゝる悪人のたすかりぬべき方法候は[〔ゝ〕]、示し給へ」。
 其時上人涙に[ムセビ]て、しばしは物もの給はず。[やや]久しうあッて、「誠に受難[ウケガタ]人身[ニンジン]をうけながら、むなしう三[]にかへり給はん事かなしんでもな[〔ほ〕]あまりあり。しかるを今穢土[エド]をいとひ、浄土をねがはんに、悪心を[すて]て善心[ヲコ]しましまさん事、三世[さんぜ](過去・現在・未来)の諸仏も定て随喜[ズイキ]したまふべし。それについて出離[しゅつリ]の(仏門に入る)道まちまちなりといへども、
つまり、成仏するためには色々な方法があるけれども、
末法濁乱[マッぽふジョクラン][]には、
こんなに乱れてる法が行われている末法の時代、乱れている時代には、
称名[セウみゃう]をもッて[スグ]れたりとす。
南無阿弥陀仏という名を称えることを「勝れたりとす。」
心ざしを九品[クホン]にわかち、[ギャウ]を六字につゞめて、いかなる愚痴闇鈍[グチアンドン]の者も[トナ]ふるに便[タヨリ]あり。
難しいことはない。南無阿弥陀仏、六字にこの身をゆだね、
[ツミ]ふかければとて卑下[ヒゲ]したまふべからず。十[アク]逆廻心[ギャクエシン]すれば、[ワウ]生をとぐ。功徳[クドク]すくなければとて、[ノゾミ]をたつべからず。一念、十念の心を[イタ]せば、来迎[らいカウ]す。「専称名号至西方[センセウみゃうガウシサイはう]」と[シャク]して、

 これは下の注釈にある通り、『日中偈』とか、それから善導和尚の言葉ですね。浄土三部経に出てくるものだと思いますが、「専称名号至西方」と、これを翻訳すると、専ら名号を称ずれば、西方に至る、つまり解読をしているわけです。

[モッパラ]名号を[セウ]ずれば西方にいたる。「念々称名常懺悔[セウみゃうじゃうサンゲ]」とのべて、念々に弥陀[ミダ]を唱ふれば、懺悔[サンゲ]する也
要するに、南無阿弥陀仏という名前を称えれば、結果的に懺悔することになるんだ、
とをしへたり。「利剣即是弥陀号[リケンソクゼミダガウ]」をたのめば、魔閻[マエン]ちかづかず。「一声称念罪皆叙[イッシャウセウねんザイカイジョ]」と念ずれば、[ツミ]みなのぞけりと[〔み〕]えたり。浄土[シウ]至極[シゴク](極重)[〔お〕]のをの[リャク]を存じて、大略[たいりゃく]是を肝心[カンジン]とす。
要するにここは、浄土宗の一番大事なところです。
[ただし]往生の得否[トクフ](可不可)は、[シン]心の有無[ユウブ]によるべし。たゞふかく信じて、ゆめゆめ[うたがひ]をなし給ふべからず。若此[もしこの]をしへをふかく信じて、行住坐臥[ギャウヂウザグハ]時処諸縁[ジショショエン]をきらはず、三[ゴウ]威儀[イギ]において(いつ、どこでも)、心念口称[シンネンクセウ]をわすれ給はずは、畢命[ヒツみゃう][]として(臨終には)、此苦域[クイキ][カイ][いで]て、彼不退[カノフタイ][][ワウ]生し給はん事、何の疑かあらむや」と教化[ケウゲ]し給ひければ、中将なのめならず悦ンで、「此ついでに[カイ]をたもたばやと[ぞんじ]候は、出家[つかまつり]候はでは、かなひ候まじや」と申されければ、「出家せぬ人も[カイ]をたもつ事は、世のつねのならひなり」とて、[ヒタイ]にかうぞり(かみそり)をあて[〔ゝ〕]、そるまねをして十[カイ]をさづけられければ、中将随喜[ズイキ]の涙を[〔なが〕]いて、是をうけたもち給ふ。上人もよろづ物あはれに覚えて、かきくらす心地して、[なく][カイ]をぞとかれける。
こういうふうに説かれます。

 称名念仏を選択

 こういう法然上人の説教にしましても、『屋代本』と『覚一本』ではかなり違いがある。これは薄々とは気がついていたのです。例えば丁度40年ほど昔、『平家物語』の作者は誰か、という問題がありまして、信濃前司行長と言われていたんですけれども、法然と関係があるならば、当然これは『平家物語』の中に法然の教えが出てくるはずである。しかしどうも『平家物語』を見ると、必ずしもそうじゃなくて、その前の段階の源信、比叡山の源信の世界じゃないか、ということが言われています。

 これは家永三郎さんが、おっしゃっている。『平家物語』のバックにある仏教というのは、源信流の思想であるというのです。
 それに対して、当時の早稲田大学の宗教学の教授であった福井康順さん、この方は大変な方ですが、福井康順さんは、「やはり法然が登場している」と、しかし法然が登場したというのなら、これは明らかに法然上人がうしろにあるはずである。ところが信濃前司行長は上人とは接点がないんですね。そういうことから、「信濃前司行長が『平家物語』を作ったというのは嘘である」と、そういうふうに論をもっていった。

 このような論争になって、国語学者であった時枝誠記(ときえだもとき)さんのお説に、実はこれは同じ物語といってもテキストによって違うんだ、と。そういうことを無視してはいけない、ということを言って、大変な論争になった。これを法然義論争と申します。

 そういう状況の中で、丁度私が色々なテキストの違いを考えていたものですから、編集部から、この問題について考えてくれと言って来ました。私は、そこで、昔の人たちが、死を迎えた時に一体どういう行動をとっただろうか、ということを高僧伝や往生伝を通して見たんですね。そうしますと、時代が変わると色々な死に方があるわけですね。中には確かに、南無阿弥陀仏と称えたという例がたくさんある。一方では、そう言いながら、お経を写したり、お寺を建てたり、善行を行う、ということをするんですね。そういうものを見て、一体どこで法然的なものを見るべきかと考えてしまいました。
 そうして、迷いに迷った挙句に出会ったのが、この『選択本願念仏集』です。これを見ると、色んな往生する行がある中で、称名念仏、南無阿弥陀仏を称えることが一番勝れている、と選択しているわけです。

 つまり、色々な行動の中から「称名念仏」を選び出した。つまり、いろいろな行動の中から一つの選択ですね。これは現象的だと思うんですが。実は、称名念仏を選択しているところに法然の実体が出ているということを、全く今から考えれば冷や汗が出ますけれども、書いてしまいました。その論文が出たときに、国文学者の中にも仏教に詳しい人たちがいて、その仏教の専門家が私の論文を読んで、「山下の論文は非常に教学的すぎる」、「余りにも教学的すぎる」と言って、「仏教の実態を知らない」という批判を浴びせられました。

 仏教学的といえば、そうかも知れないけれど、『平家物語』は教学的かどうかはさておいて、『平家物語』は、特に『屋代本』から『覚一本』に変わる過程において、確実に選択の姿勢を保っている。そこで『選択本願念仏集』にあるように、『平家物語』の語り手の琵琶法師たちは、こういう一つの説教の仕方をしている。ということで、『平家物語の仏教』と結論づけた訳です。こういう考え方が、果たして当たっているかどうか分かりませんが。

 この後、重衡は関東に連行されます。ここでまた、頼朝と対決する。頼朝との対決は読みませんけれど、先ほどの話と同じことを、重衡は堂々と頼朝に主張するわけです。「結果責任は私です。しかしこれは私がやらせたわけではなく不慮のことだった」ということを言うわけです。「しかし責任は私が取ります」と言う。

 その後、頼朝は非常に満足しまして、千手の前という女性を介添えとしてつけさせたのです。千手の前は重衡の身の回りの世話をし、後生について語り合うのが「千手前」です。やがて千手の前は、重衡が処刑されたことを聞いて出家します。そして善光寺に入っていった、という物語が後につくわけです。

 そして重衡は、<粉津の辺にてきらすべし>とありますが、粉津というのは木津川です。木津川のほとりで処刑されます。処刑される前に、内裏女房のところでも出てきましたが、最期になって、このままではとても成仏はできないから、仏像を拝みたい言って、探し出して来た阿弥陀如来の像にすがりながら、「南無阿弥陀仏」と称えて処刑されるわけです。

【重衡被斬】
守護の武士も、みな涙をぞ[〔なが〕]しける。その頸をば般若寺[ハンにャじ]大鳥井[おほどりゐ]の前に[くぎ]づけにこそかけたりけれ。治承[ぢしょう]の合戦の時、こゝにうッ[〔た〕]ッて、伽藍[ガラン]をほろぼし給へる故也[ゆゑなり]

 ということで、般若寺のここに重衡の頸がさらされたわけです。そして能の「笠卒塔婆」というのは、問題の般若寺にある、この笠卒塔婆だと言うのです。修羅能の「笠卒塔婆」は、重衡を、そのように登場させる。以上が重衡の最期です。そして、実は今、「戒文」を読みましたけれども、徳川幕府の記録の『徳川実紀』に、<将軍・大名と法華頓写>、徳川将軍、家継の時代ですね。<正徳二年>ですから、1712年です。

【将軍・大名と法華頓写】
徳川実紀  正徳二年正徳二年十一月十六日 このたびの御法会(六代将軍家宣葬儀)により瞽者(盲人)にも賜物あり。検校に青鳧(銭)三十貫、座頭に千貫文、盲女に二百貫なり。豊波、豊田両検校は、頓写の時平家琵琶を弾ぜしにより別に銀を下さる。

<このたびの御法会>というのは、徳川将軍家宣の葬儀ですね。
<瞽者[こしゃ]>というのは盲人です。盲人にも賜り物がある。
<検校[けんぎょう]>というのは盲人の中の官位を持っている人です。
<青鳧三十貫文>の<青鳧>というのは、お金です。お金三十貫文を将軍は検校に渡す、
<頓写>というのは、後で教えていただきたいのですが、法華経をすばやく写経することです。法華経を頓写する時に、その間、豊波検校や豊田検校が、<平家琵琶を弾ぜしにより別に銀を下さる>とあります。

 尾張藩では、建中寺で尾張のお殿様の仏事があった時に、やはり「法華頓写」があった。その法華頓写の席で、どうやら、問題の「戒文」が語られたらしい。ですから、将軍や、尾張の殿様と『平家物語』の語っている問題が重なっていまして、場合によっては、重衡の「戒文」の沙汰が語られることがあったようです。

 以上、特に「覚一本」の「戒文」の沙汰を私から見た思い切った解釈を行ってまいりました。この機会に、ひとつ専門家の見方をお教えいただきたいと思います。

「平家物語と仏教」ではなくて、「平家物語の」、教学的にはどうか知りません。要するに琵琶法師は『平家物語』を以上のように歴史を語ってまいりました。そして重衡に関して、今申しましたようなひとつの説教を行ったわけでございます。

 

東海教区仏教青年連盟主催 公開講座 〔平成15年11月9日(日)〕

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 (資料)

 あえて口語訳を付さなかったが、小学館『新編日本古典文学全集 平家物語』二冊に口語訳があるので参照されたい。

八島院宣[やしまいんぜん]
大臣殿[おほいとの]・平大納言のもとへは、院宣の[おもむき][まうし]給ふ。二位殿へは御文[おんふみ]こまごまとかいてま[〔ゐ〕]らせられたり。「今一度御覧ぜんとおぼしめし候は[]、内侍所の御事を、大臣殿に能々[よくよく]申させおはしませ。さ候はでは、[この]世にて見参[〔けんざん〕][いる]べしとも覚え候はず」なンどぞかゝれたる。二位殿はこれを見給ひて、とかうの事もの給はず、文をふところに引[〔い〕]れて、うつぶしにぞなられける。まことに心のうち、さこそはおはしけめと、おしはかられて[あはれ]なり。  []


請文[うけぶみ]
今月十四日[こんぐわつじふしにち]の院宣、[おなじき]廿八日、讃岐[さぬきの]国八島の磯に到来。謹以[ツつシンデもって]承る所如件[くだんのごとし]
[ただし]これについてかれを案ずるに、通盛卿已下[イゲ]当家数輩[たうケスハイ]、摂州一谷にして[スデ][チウ]せられ[〔を〕]はンぬ。[なん]ぞ重衡一人[いちにん]寛宥[クハンユウ][ヨロコブ]べきや。夫我君[それわがきみ]は、故高倉の御譲[おんユヅリ]をうけさせ給ひて、[]在位既に[]ケ年、政尭舜[マツリゴトげうしゅん]の古風をとぶらふところに、東夷[とうイ]北狄[ホクテキ][トウ]をむすび、[グン]をなして入洛[じゅらく]の間、[かつう]幼帝[ヨウテイ]母后[ボコウ]御嘆[なげき][もっと]もふかく、[かつう]外戚[グハイセキ][キン]臣のいきど[〔ほ〕]りあさからざるによッて、しばらく九国[くこく]に幸[カウ]す。還幸[クハンカウ]なからんにおいては、三[ジュ]神器[いんギ]いかでか玉体[ぎょくタイ]をはなち奉るべきや。それ臣は君を以て心とし、君は臣をもッて[タイ]とす。君やすければ、すなはち臣やすく、臣やすければすなはち国やすし。君かみにうれふれば、臣しもにたのしまず。心中[しんぢゅう][ウレイ]あれば、体外[タイゲハイ][よろこび]なし。曩祖平[ソウソヘイ]将軍貞盛[さだもり]相馬[サウマの]小次郎将門[マサカド]追討[ツイタウ]せしよりこのかた、[とう]八ケ国をしづめて、子々孫々につたへ、朝敵[テウテキ]謀臣[ボウシン]誅罰[チウバツ]して、代々世々[だいだいせせ]にいたるまで、朝家[テウカ]聖運[セイウン]をまもち奉る。然則[しかればすなはち]亡父[バウブ]故太政大臣、保元・平治両度の合戦の時、勅命をおもうして、私の[めい]をかろうず。ひとへに君の[ため]にして、身のためにせず。就中彼[なかんづくかの]頼朝は、[さんぬる]平治元年十二月、父左馬頭[さまのかみ]義朝が謀反[ムホン]によッて、[シキリ]誅罰[チウバツ]さらるべきよし[おほせ]下さるといえども、故入道相国、慈悲[ジヒ]のあまり[まうし]なだめられしところ也。しかるに昔の浩恩[コウヲン]を忘れ、芳意[ハウイ]を存ぜず、[たちまち]狼贏[ラウルイ]の身をもッて、[ミダリガハシク]蜂起[ホウキ]の乱をなす。時儀[シキ][ハナハダ]しき事[まうし]てあまりあり。早く神幣[しんベイ]の天[バツ]をまねき、ひそかに拝跡[ハイセキ]損滅[ソンメツ][]する者[]夫日月[それじつげつ]一物[いちもつ]の為にそのあきらかなることをくらうせず。明王[めいわう]一人[いちにん]が為にその法をまげず。一悪をもッて[その]善を[すて]ず。小瑕[せうカ]をもッて[その]功をお[〔ゝ〕]ふ事なかれ。[かつう]は当家数代[すだい]の奉公、且は亡父数度[ばうぶすど]の忠節、思食[おぼしめし]忘れずは、君[かたじけな]く四国の御幸[ごかう]あるべきか。時に臣[]院宣をうけ給はり、[ふた]たび旧都にかへッて、会稽[くわいけい]の恥をすゝがむ。[もし]しからずは、鬼界・高麗[かうらい]天竺[てんぢく]震旦[しんだん]にいたるべし。悲哉[かなしきかな]人王[にんわう]八十一代の御宇[ぎょう]にあたッて、我朝神代[わがてうかみよ]の霊宝、ついにむなしく異国のたからとなさんか。よろしくこれらの[おもむき]をもッて、しかるべきやうに[モラシ]奏聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首[せいきょうトンジュ]謹言[ツつシンデマウス]
   寿永三年二月[にんぐわつ]廿八日   従一位平朝臣宗盛[むねもり]請文[うけぶみ]
とこそかゝれたれ。


【戒文】「屋代本」
 三位中将、上人に奉出合申ケルハ、「南都ヲ滅シテ候事、世ニハ皆重衡カ所行ト申候ハレハ、聖人モ定テサソ聞召候覧。全フ重衡カ下知シタル事ハ候ハス。悪党多ク籠テ候シカハ、何ナル者ノ師態ニテカ候ケン。火ヲ放チタル折節、風滋シウ吹テ、多クノ伽藍ヲ奉滅、末ノ露本ノシツクト成事ニテ候ナレハ、重衡一人カ罪ニテ、無間ノ底ニ沈ミ、永ク出離ノ其期アラシトコソ存候ヘトモ、皆人ノ生身如来ト奉仰上人、生テ二度奉見参タレハ、今ハ無始罪障悉ク消滅シ候ヌトコソ覚候ヘ。出家ハ免レネハ不力。本鳥付ナカラ授サセ給ヘウヤ候覧」ト申サレケレハ、聖人泣々頂剃テ戒ヲソ授給ケル。其夜ハ上人留給テ、終夜、浄土荘厳可、様々ノ法文共ヲソ宣ケル。三位中将、「ウレシカリケル善知識哉」と悦テ、年来常ニヲハシテ遊給ケル侍ノ本に頂置レタリケル御硯ヲ召寄テ、「是ハ[]入道相国ノ、[ソウ]朝ヨリ渡テ秘蔵して候シヲ、重衡ニタヒテ候。名ヲハ松陰ト申名誉ノ硯ニテ候也。御目ノ[カヨハ]ン所ニ置セ給テ、御覧セン度毎ニ重衡カ物と思召出テ、後生訪ハセ給ヘ」トテ奉給フ。上人是ヲ請に入レ、涙ヲ押て出給フ。


【戒文】「覚一本」
 三位[さんみの]中将[これ][〔き〕]いて、「さこそはあらむずれ、いかに一門の人々わるく思ひけん」と後悔すれ[ども]かひぞなき。けにも重衡卿一人を[〔を〕]しみて、さしもの我朝[わがてう]の重宝、三種の神器を返し[〔い〕]れ奉るべし[とも]おぼえねば、[この]御請文のおもむきはかねてより思ひまうけられたりしかども、未左右[いまださう]を申されざりつる程は、なにとなういぶせく[〔おも〕]はれけるに、請文[うけぶみ]すでに到来して、関東へ下向せらるべきに[〔さだ〕]まりしかば、なむのたのみもよ[〔わ〕]りはて[〔ゝ〕]、よろづ心ぼそう、都の名残も今更[〔を〕]しう思はれける。三位中将、土肥次郎を[〔め〕]して、「出家をせばやと思ふはいかゞあるべき」とのたまへば、実平、此由[おのよし]を九郎御曹司[おんざうし]に申す。[ゐんの]御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に[〔み〕]せて後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかでかゆるすべき」と[おほせ]せければ、[この]よしを申す。「さらば年ごろ[ちぎ]ッたりし[ひじり]に今一度[いちど]対面して、後生[ごしょう]のことを[まうし]談ぜばやと思ふはいかゞすべき」との給へば、「聖をば誰と申候やらん」。「黒谷[くろだに]法然房[ほふネンばう][まうす]人也」。さてはくるしう候まじ」とて、ゆるし奉る。中将なのめならず悦ンで、聖を請じたてまッて、[なく]泣申されけるは、「今度いきながらとらはれて候けるは、[ふた]たび上人の見参に罷入[まかり〔い〕]るべきで候けり。さても重衡が後生、いかゞ候べき。身の身にて候し程は、出仕にまぎれ、政務にほだされ、驕慢[ケウマン]の心のみふかくして、かへッて当来の昇沈[セウチン]をかへりみず。[イハン]や運[〔つ〕]き、世乱てより以来[このかた]は、こゝにたゝかひ、かしこにあらそひ、人をほろぼし身をたすからんと思う悪心のみ[サヘギッ]て、善心はかつて[ヲコ]らず。就中[なかんづく]に南都炎上[えんしゃう]の事、王命と[〔い〕]武命[ぶめい][〔い〕]ひ、君につかへ世に[〔したが〕][〔ふ〕][〔はう〕][ノガレ]がたくして、衆徒[しゅうと]悪行[あくぎゃう]をしづめんが為にまかりむかッて候し程に、不慮[おもはざる]伽藍[ガラン]の滅亡に[および]候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍にて候し上は、せめ一人[いちにん][]すとかや申候なれば、重衡一人が罪業[ザイゴウ]にこそなり候ぬらめと覚え候。[かつう]はか[やう]に人[〔し〕]れず、かれこれ[ハヂ]をさらし候も、しかしながら[その]むく[〔い〕]とのみこそ思ひ[〔し〕]られて候へ。今はかしらをそり、戒をたもちなんどして、[ひとへ]に仏道修行したう候へども、かゝる身にまかりなッて候へば、心に心をもまかせ候はず。けふ明日とも[〔し〕]らぬ身のゆく[〔へ〕]にて候へば、いかなる[ぎゃう][シュ]して一[ゴウ]たすかるべしとも覚えぬこそ口をしう候へ。[つらつら]一生の化行[ケギャウ]を思ふに、罪業[ザイゴウ]須弥[シュミ]よりも高く、善業は微塵[ミヂン]ばかりも蓄[タクハ]へなし。かくてむなしく命[〔を〕]はりなば、火穴湯[くわケッタウ]苦果[ククワ]あへて[ウタガイ]なし。[ネガハ]くは、上人慈悲[ジヒ]をおこし、あはれみをたれて、かゝる悪人のたすかりぬべき方法候は[〔ゝ〕]、示し給へ」。
 其時上人涙に[ムセビ]て、しばしは物もの給はず。[やや]久しうあッて、「誠に受難[ウケガタ]人身[ニンジン]をうけながら、むなしう三[]にかへり給はん事かなしんでもな[〔ほ〕]あまりあり。しかるを今穢土[エド]をいとひ、浄土をねがはんに、悪心を[すて]て善心[ヲコ]しましまさん事、三世[さんぜ]の諸仏も定て随喜[ズイキ]したまふべし。それについて出離[しゅつリ]の道まちまちなりといへども、末法濁乱[マッぽふジョクラン][]には、称名[セウみゃう]をもッて[スグ]れたりとす。心ざしを九品[クホン]にわかち、[ギャウ]を六字につゞめて、いかなる愚痴闇鈍[グチアンドン]の者も[トナ]ふるに便[タヨリ]あり。[ツミ]ふかければとて卑下[ヒゲ]したまふべからず。十[アク]逆廻心[ギャクエシン]すれば、[ワウ]生をとぐ。功徳[クドク]すくなければとて、[ノゾミ]をたつべからず。一念、十念の心を[イタ]せば、来迎[らいカウ]す。「専称名号至西方[センセウみゃうガウシサイはう]」と[シャク]して、[モッパラ]名号を[セウ]ずれば西方にいたる。「念々称名常懺悔[セウみゃうじゃうサンゲ]」とのべて、念々に弥陀[ミダ]を唱ふれば、懺悔[サンゲ]する也とをしへたり。「利剣即是弥陀号[リケンソクゼミダガウ]」をたのめば、魔閻[マエン]ちかづかず。「一声称念罪皆叙[イッシャウセウねんザイカイジョ]」と念ずれば、[ツミ]みなのぞけりと[〔み〕]えたり。浄土[シウ]至極[シゴク][〔お〕]のをの[リャク]を存じて、大略[たいりゃく]是を肝心[カンジン]とす。[ただし]往生の得否[トクフ]は、[シン]心の有無[ユウブ]によるべし。たゞふかく信じて、ゆめゆめ[うたがひ]をなし給ふべからず。若此[もしこの]をしへをふかく信じて、行住坐臥[ギャウヂウザグハ]時処諸縁[ジショショエン]をきらはず、三[ゴウ]威儀[イギ]において、心念口称[シンネンクセウ]をわすれ給はずは、畢命[ヒツみゃう][]として、此苦域[クイキ][カイ][いで]て、彼不退[カノフタイ][][ワウ]生し給はん事、何の疑かあらむや」と教化[ケウゲ]し給ひければ、中将なのめならず悦ンで、「此ついでに[カイ]をたもたばやと[ぞんじ]候は、出家[つかまつり]候はでは、かなひ候まじや」と申されければ、「出家せぬ人も[カイ]をたもつ事は、世のつねのならひなり」とて、[ヒタイ]にかうぞりをあて[〔ゝ〕]、そるまねをして十[カイ]をさづけられければ、中将随喜[ズイキ]の涙を[〔なが〕]いて、是をうけたもち給ふ。上人もよろづ物あはれに覚えて、かきくらす心地して、[なく][カイ]をぞとかれける。


【千手前】
 兵衛佐[ひゃうゑのすけ][〔いそ〕]ぎ見参して申されけるは、「[そもそも]君の御いきどをり[〔ほ〕]りをやすめ奉り、父の[ハヂ]をきよめんと思ひ[〔た〕]ちしうへは、平家をほろぼさんの案の内に候へども、まさしくげンざむに[〔い〕]るべしとは存ぜず候き。このぢやうでは、八島[やしま]大臣殿[おほいとの]のげンざむにも[いり]ぬと覚え候。[そもそも]南都をほろぼさせたまひける事は、故太政入道殿の[おほせ]にて候しか。又時にとッての御ぱからひにて候けるか。以外[もってのほか]罪業[ザイゴウ]にてこそ候なれ」と申されければ、三位中将のたまひけるは、「まづ南都炎上[えんしゃう]の事、故入道の成敗[せいばい]にもあらず、重衡[しげひら]愚意[グイ]発起[ホッキ]にもあらず。衆徒の悪行をしづめむがためにまかりむかッて候し程に、不慮に伽藍[がらん]滅亡に[および]候し事、力及ばぬ次第也。昔は源平左右[さう]にあらそひて、朝家[てうか]の御かためたりしかども、近比[ちかごろ]は、源氏の[ウン]かたぶきたりし事は、事あたらしう[はじめ]て申べきにあらず。当家は、保元・平治より以来[このかた]、度々の朝敵をた[〔ひ〕]らげ、勧賞[ケンジャウ]身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚[ゴグハイセキ]として、一[ゾク]昇進[セウジン]六十余人、廿余年の以来[コノカタ]はたのしみさかへ[まうす]はかりなし。今又運[〔つ〕]きぬれば、重衡とらはれて、是まで[くだり]候ぬ。それにつ[〔い〕]て、帝王の[おん]かたきを[〔う〕]ッたるものは、七代まで朝恩[テウヲン]うせずと[まうす]事は、きはめたるひが事にて候けり。まのあたり故入道は、君の[おん]ためにすでに命をうしなはんすること度々に及ぶ。され[ども][わづか]に其身一代のさいは[〔ひ〕]にて、子孫かやうにまかりなるべしや。されば運[〔つ〕]きて都を[いで]し後は、かばねを山野[さんや]にさらし、名を西海の浪に[〔なが〕]すべしとこそ存ぜしか。


【重衡被斬】
 南都の大衆うけとッて僉議[センギ]す。「[ソモソモ][この]重衡卿は、大犯[ダイボン]の悪人たるうへ、三千五[ケイ]のうちにもれ、修因感果[シュインカンクワ]の道理極上[ごくじゃう]せり。仏敵[ブッテキ]、法敵の逆臣[げきしん]なれば、東大寺・興福寺の大垣をめぐらして、のこぎりにてやききるべき、堀頸[ほりくび]にやすべき」と僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧[]の法に穏便[ヲンビン]ならず。たゞ守[]の武士にたうで、粉津[コつ]の辺にてきらすべし」とて、武士の手へぞかへしける。武士これをうけとッて、粉津河のはたにてきらんとするに、数千人の大衆、見る人いくらといふ[〔かず〕][〔し〕]らず。
 三位中将のとしごと[〔め〕]しつかはれける侍に、木工右馬允知時[むくうまノじょうともとき]といふ物あり。八条女院に候けるが、最後を見たてまつらんとて、鞭をうッてぞ[はせ]たりける。すでに只今きりたてまつらむとするとことにはせつ[〔い〕]て、千万立[せんばんたち]かこうだる人のなかをかきわけかきわけ、三位中将のおはしける御そばちかう[〔まい〕]りたり。「知時こそ、たゞ今最後の御ありさま見ま[〔ゐ〕]らせ候はんとて、是まで[〔まい〕]りてこそ候へ」となくなく[まうし]しければ、中将、「まことに心ざしのほど神妙也。仏を[〔ゝ〕]がみたてまッてきらればやと[〔おも〕]ふはいかゞせんずる。あまりに罪ふかうおぼゆるに」との給へば、知時、「やすい御事候や」とて、守護の武士に[まうし]あはせ、そのへんにおはしける仏を一体むかへたてまッて[いで]きたり。[さいはひ]阿弥陀[あみだ]にてぞましましける。河原のいさごのうへに[たて]てま[〔ゐ〕]わせ、やがて知時が狩衣[かりぎぬ]の袖のくゝりをといて、仏の御手[みて]にかけ、中将にひかへさせたてまつる。これをひかへたてまつり、仏にむかひたてまッて[まう]されけるは、「つたへ[〔き〕]く、調達[テウダツ]が三[ギャク]をつくり、八万[ざう]聖教[シャウゲウ]をほろぼしたりしも、[ツイ]には、天王如来の記■[キベツ]にあづかり、所作[ショサ]罪業[ザイゴウ]まことにふかしといへども、聖教[シャウゲウ]値遇[チグ]せし逆縁[ギャクエン]くちずして、かへッて得道[とくだう]の因となる。いま重衡が逆罪[ギャクザイ][〔を〕]かす事、まッたく愚意[グイ]発起[ホッキ]にあらず。只世に[した]がふこと[〔わ〕]りを存斗[ぞんずるばかり]也。命をたもつ物、誰か王命を蔑如[ベツジョ]する。[しゃう]をうくる物、誰か父の命をそむかん。かれと[〔い〕]ひ、これと[〔い〕]ひ、[]するにところなし。理非[リヒ][]照覧[セウラン]にあり。[そもそも]罪報たちどころにむくひ、運命只今を[〔かぎ〕]りとす。後悔千万、かなしんでもあまりあり。たゞし三宝の境界[キャウガイ]は、慈悲[ジヒ]を心として、済度[サイド]良縁[リャウエン]まちまち也。「唯縁[ユイエン]楽意、逆即是順[ギャクソクゼジュン]」、[]文肝[モンキモ][メイ]ず。一[ネン]阿弥陀仏、即滅無量罪[ソクメツムリャウゼイ][ネガハ]くは、逆縁[ギャクエン]をもッて順縁ジュンエン]とし、只今の最後の念仏によッて、九品託生[くぼんタクしゃう]をとぐべし」とて、高声[かうしゃう]に十念となへつゝ、頸をのべてぞきらせられける。日来[ひごろ]の悪行はさる事なれ共、いまのありさまを見たてまつるに、[]千人の大衆も、守護の武士も、みな涙をぞ[〔なが〕]しける。その頸をば般若寺[ハンにャじ]大鳥井[おほどりゐ]の前に[くぎ]づけにこそかけたりけれ。治承[ぢしょう]の合戦の時、こゝにうッ[〔た〕]ッて、伽藍[ガラン]をほろぼし給へる故也[ゆゑなり]
 北方大納言佐殿、「かうべをこそはねられたりとも、むくろをばとりよせて孝養[ケウヤウ]せん」とて、輿[コシ]をむかへにつかはす。げにもむくろをば[〔す〕][〔お〕]きたりければ、とッて輿に[〔い〕]れ、日野へかいてぞかへりける。これをまちうけ見給ひける北方の心のうち、[〔お〕]しはかられて[あはれ]也。昨日まではゆゝしげにおはせしかども、あつきころなれば、いつしかあらぬさまになり給ひぬ。さてもあるべいならねば、[その]辺に法界寺[ほふかいじ]といふ処にて、さるべき僧どもあまたかたらひて、孝養[ケイヤウ]あり。頸をば、大仏のひじり、俊乗房[シュンゼウばう]にとかくの給へば、大衆にこうて日野へぞつかはしける。頸もむくろも煙になし、[コツ]をば高野[たうや]へをくり、[ハカ]をば日野にぞせられける。北方もさまをかへ、かの後世菩提[ごせぼだい]をとぶらはれけるこそ[あはれ]なれ。

東海教区仏教青年連盟主催 公開講座 〔平成15年11月9日(日)〕

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