平成アーカイブス <研修会の記録>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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勉強会 年間テーマ:『心の扉を開く』
9月29日勉強会2 [講師:西光義敞先生]
皆さんはお若いけどね、年寄りほどパンパンパンと切れる、というのは、背景にみんな生きていくときに「これが良い」という、個人生活においても社会生活においても価値観がある訳です。その価値観の色眼鏡を通して人を見てる訳ですから、その色眼鏡に適った時には、「良いこと言うやないの」と、にっこり笑うけれども、自分の価値観と真っ向から対立するような人に出会うと「何を言ってるんや」と、相手の価値観を切り捨てるような態度に出ますね。
人間というのは切り捨てられるのは絶対嫌ですから、向こうも自己主張したい。そうすると自己主張と自己主張がぶつかり、「お前とは話できるか」、「こんな家にいると、自分は死んでしまうかもしれんから出ます」と、家出・離婚。
女性は、辛抱して辛抱して日本の社会に合わせてきたけれど、もう子育ても終って、親として責任済んだでしょ。これかは私の人生や、「はいさよなら」。女の人の方が決断が早い。
ところが、男は定年までは会社人間ですから、仕事仕事仕事というために、家族の中に何が起こっているかも知らず、疲れている。だから、疲れた自分を温かく受け入れてほしい。自分は権威者であるという思い込みがありますから、それが定年の時に出てくるわけです。
「今まで苦労かけたけどな、これからは世界一周旅行でもやって」と言ってる男の側には、<これからはお前のことを大事にするから、もっと今まで以上に甘えさせてくれ、持たれかからせてくれ>と言ってるわけです。
女の人は「よく言うよ、もうごめん、あんたの世話は。私は黙って、うつむいてあなたの面倒見てきたけど、私だって二度とない人生、60、70、80。後30年残ってますから、これが私の人生。誰にも譲れませんからね、私は私の好きなように生きていきますよ」と。こういう形で、離婚・家出。
また、親に言わないで結婚する。家から通えるのに突然「下宿する」と言う。
本当に自律して、自分で行先を決め、自分で結婚を決め、社会人になるということは、家族内人間関係だけではやっていけない社会の冷たいルールがあるわけです。ところが、家庭というのは、ちょっと保護されたほんわかとした温かいところがある。するとそれからなかなか離れることができない。
それで、意識のところでは、「早く就職したらいいのにな」と言っているのにも関わらず、深いところでは<あんたが出ていったら困るのよ。いつまでも居てちょうだい>という親子がいるわけです。それを親子癒着、特に母親。母子癒着っていいます。
自立して欲しいのも嘘ではない。でも自立して、「長々お世話になりました。これから私の人生、私で決めます。一切口出ししないでちょうだい」と言って、ある日「お父さん、お母さん、さようなら」と言った時に、「いやあ、立派になったね。一人でやっていけるか。それは素晴らしい」と言えるお父さんお母さんであるかどうか。
そうでなくして、慌てるんじゃないですか。<いつまでも抱いていたい>と。だから子どもにとったら、親離れできないのが問題ではなくして、子離れできないお父ちゃんお母ちゃんが問題なんでしょ、と。「ちっとも分かっちゃいないね」と、子どもは言いたい。
だから、一つは離れていたいという要求。一つはいつまでも一緒にいたいという欲求、これは裏表になっていますが、その辺のところで総合的に考えていくと、かなり深い根っこが見えてくるんじゃないでしょうか。
―― 母子癒着というのは、実例に近いのを知ってます。ありますね。
―― 母子癒着で済まずに、逆ギレした子どもがいるんですよ。まさに母子癒着だったのが、しばらくしたら、子どもの方が暴力を振るい出して、母親は逃げた、という家庭もあります。だから、癒着と暴力は裏返しみたいです。
子どもさんの事は詳しく知らなかったんですが、本当にかわいらしい親子で、だから何か危険な感じもしていたんです。本当に仲がいい感じでしたが、ちょっとかわいがり過ぎじゃないか、と思っていたら、ある時、「子どもの暴力に耐えられないから」と言われて、子どもから逃げるようにして住所を移した、というケースがありました。
その子どもは、引きこもりではなかったのかも知れませんが、ことらも早く、もっと前に、と思うんです。怖いな癒着って。
家族関係の専門家の話を聞くと、摂食障害でも、ドメスティック・バイオレンスでも、閉じこもりでも、深刻になって表面化してしまうと、かなり難しい、と。「鉄は熱いうちに打て」ということがあるでしょう。「悪の芽は見えぬ時に摘み取れ」というでしょ。それが、ちょっといいチャンスを失ったら、鉄は叩いても叩いてもどうにも曲げることができない。だから一番いいのは、仰るように、ことが起こるよりも、起こりそうな気配があるような時に察知して対策をうつということが大事です。
私のところは山奥なんですが、雑草なんかでも、人出の多いときなんかは刈るのも苦労はいらないのに、村全体が高齢化してきますと、人出がなくなってくる。小さいときに刈ったら何でもなかったのが、大きく伸びたら、藤でも萱草でも、もうどうしようもない。前だったら一日で刈れたものでも、5日も1週間もしないと綺麗にならない。そういう意味では、気配というか、チャンスを察知するという意味のアプローチが大切だと、仰る通り絶対大事だと思いますね。
―― 気づいた時に、どうすればいいのか。危ないな、と思っても、何もできなかった私がいるわけで、何ができるのかな、と。
難しいですね。介入していくタイミング。
―― 多分親は、何も問題無いと最初の頃は思っていたのだろうと思います。でも何か危ないな、と察知はできたけど、何を言ったらいいのか、どう関わればいいのか。
危ないな、という感じのところは、どうな感じでした?
―― 仲が良すぎる。本当に、年齢に比べて、可愛がり方が子どもっぽい。後、幼いな、と。年齢に比べて幼いな、という。
どのくらいのお子さんが?
―― ≪中略【註:事実説明につき、掲載略】≫ ・・・表面的に問題が起こっているわけではないので、こちらが何か言うこともないな、と思いながら、ちょっと心配したら、案の定、ある時暴力がすごくて、「逃げます」ということでした。
やっぱり心理的に考える場合は、表のところでは問題が無いように思えても、潜在的に問題を抱えている。それから、光の部分と影の部分があるでしょ。光のところばかり向けていると、影のところで進行しているものが見えない。光と影の両方見ていくことです。それがとても大事じゃないかな。
―― 自分にも覚えがあるんですが、思春期から暴力的になるんです。女の人は知らないんですが、何か見るもの聞くもの、反発したがる時期ってあります。高校か中学くらいですが、この時期の過し方なんじゃないかな、と感じるんです。
その時期に色々な人と出会えた。そういう暴力性が、何か別のものに変わったんかな、と。多分その子は、それができていなくて、暴力だけが残ったのかな。詳しいことは聞けないけど。でも、こんな可愛い男の子がいるのはおかしいなと思ったんですよ。そういう感じでした。それが一気に暴力的になった。
この年だったら、もう少し大人じゃないか、という感じですか。
―― ええ。こういう男の子もいるのかな、と思ったんですが、やはりそうじゃなかた。暴力性は、特に男は暴力的なところがあるから、何かそれが顔に出るんですよ。それがものすごく可愛いままだったので、今から思えばですよ、可愛いからいいのかな、と思ってたら、そうじゃなかった。だから、男の育ち方というのは難しいな、と。可愛がって育てちゃいかんのかな。
―― 普通、親とは仲悪いですよね。
5つか6つの時に、第一反抗期が出てくる。何でも「嫌」って言うじゃないですか。人間として発達成長する第一段階の時に。それまでだと、特に母親の胎内にある訳ですから、妊娠した時からは母子一体ですね。1つの人間の身体の中に、2つの人格があるわけですね。そして出産ということで2つの人間に分かれる。これで自立した人間として生まれた、ということです。それまでは子宮の中で、栄養も温度も全部きちっと安全で保証されながら、羊水の中で漂っていたから、ある意味1番安全で幸せな時期というのは、お母さんのお腹の中にいる時ですね。
ところが、産道という窮屈なところを通らないと声を上げることができない訳です。最近の研究でいきますと、我々の身体のどっかに、胎児の時に感じたことが影響を与えている。それから、産道を通った苦しい時のことも全部身体に刻み込まれている。そういうものが全部傷になりながら、意識の表には出てこないまま大人になっていく、ということです。だから、セラピーは、そこまで遡って意識化させるという、これはごく新しいセラピーです。
母親から二つの身体に別れる、ということは、人間としては独立したということですが、牛や馬や犬や猫とちがって、産まれてもすぐに立って歩くわけにはいかない。自立して生きていく力なんて、全く無いでしょ。人間は、そういう意味で特殊な存在なんですね。
そうすると、特に母親を代表して、抱いて乳を飲まして、ということを1年2年3年やらないと人間にならない。スタートはそこにある訳です。ところが、人間に育っていくということは、いつまでも赤ちゃんであっては困るわけで、やっぱり人間として独立していく中で自己主張が出てくる。今までは何かあると「お母ちゃん」と言って保護してもらえたわけですが、「嫌」「嫌」と言って、反発するというのは、発達心理学では、人間としては非常に健康です。
それがずっとあって、第二反抗期が中学3年、高1高2あたり、16・7・8才。非常に不安定な時期です。だから、振り返ってみても、あの頃はむやみやたらと反抗したかったな、と。だからそういうのが、人間の発達心理学で言ったら健康だとすると、余りにも年に比べたら幼いというのは不健康。
第二反抗期を契機としてはっきりと親子分離して、いよいよ社会に巣立っていくわけですから、一人でも生きていく力を身につけていかなければいけない訳です。
ところが、その時に、いつまでも親が子どもを、雛鳥を抱くようにいつまでも巣の中で抱いていたい。それが非常にいい感じなもんですからね、巣から飛び出ることをしない。鳥はチャンスがきたらひょとひょろしながらも飛び立っていくのに、人間だけがいつまでも巣ごもりをやってる。そういう意味の閉じこもりというのは、大問題ですね。だからその辺の見極めがいるんじゃないでしょうか。
―― どう言葉をかけたり、介入できますかねー。
それが難しい。専門家がみな言ってるのは、本当は閉じこもりをやっている人が問題なんでしょ。その人が、自分が問題だということを自覚して、これではいけないからといって、本人がカウンセラーやセラピストなり専門家のところへ行って「どうすればいいんでしょう」と、これが普通カウンセリングやセラピーの基本ですよね。本人が自主的に行く、と。
ところが、今のような家庭病理的なものは、まずそんなことは絶対ない。じゃあ誰が来るかというと、本人と違う家族の誰かが「これは大変や」といって、悩んでいるその人がやってくる。親も、「安閑としていていいのか」と言われて、やっと専門家のところへ行く。「そこらへんが非常に難しくて悩む」と、これはセラピスト皆そう言ってます。
ましてや、深刻になっていったら、専門家のところへ行くけど、ご院さんのところへ行くことは普通は期待していない。それに、先どって「あんたおかしいよ」とは言いにくい。「ほっといて」となる。だから、それにどう関わっていくかということは、難しい問題ですね。
結論的に言うと、すごく気になっていることは、「気になってる」ということを、ストレートに言う、早い機会に。さっきの「鉄は熱いうちに」と言ったように、「何かこんな感じがするんですが。気になっている私がいます」と。「それは、お父さんお母さんは、どういう風に感じてみえますか? よければ聞かせてほしいな、というのが胸にあるんですよ」と、私のところを伝える。
「あんたらおかしいよ」と言ってる訳ではありません。それをどう受けてくれるかは分からないけど、「気になってるんですけど、私の思い過しかな、何かその辺で、お母さん思い当たることはありませんか?」とか、「お母さんは安心しておられるんでしょうか、どうなんでしょうか?」と言うて、ちょっとそういう呼びかけをすると、傷つくことは少ないであろう、と。
今のケースで、夫婦関係はいかがですか?
―― ≪中略【註:事実説明につき、掲載略】≫
はい。ますます癒着しますね。
―― 外から見たら、いい親子に見えたんですよね、仲のいい。母親もすごく優しい感じで、おそらく傍目には絵に描いたような良い親子。でもちょっとな、という感じはあったけど、問題が無いのに言えないし、仲よくやってるんだから、と思っていましたけど。
―― 全てのことに母親が関わってくると、子どもはうっとうしくなりますよね。普通の子どもならば「うっとうしい」とはね返すのに。
―― ≪中略【註:事実説明につき、掲載略】≫
―― それまで、たまってたんでしょうね。
―― あったかも知れませんが、そこまでは・・・
―― 子どもの幼さが感じられるのは、普通の人でも、ゲームでよく遊ぶ。対機械と遊んでいます。人との接し方が分からないですよね。僕達は外に遊びに行けば、何か喧嘩して帰ってくる。自分を主張しあって喧嘩する。そうすると、どこまで力を出せばいいのかは、自然と身体に身についてくる。我がままを言ってると、向こうも我がままを言ってくる。機械は何も言ってくれない。そうすると、ゲームの中では「やめちゃえ」で、ぽっと止めればいいけど、人間関係はそういう訳にはいかない。そういう関係の触れ合いが乏しかったんじゃないかな。そういう気がします。
親も、砂場で遊ばせない。手が汚れる。そういう環境に染まってくると、どうしても内へ内へとこもってしまうんじゃないでしょうか。親が積極的に指導しないと、学校教育がそういうことをやってくれる訳じゃないですから。今けっこう多いのは、共働きが多いですから、そういうのが無いです。まして核家族で、大家族ではないですから、お爺さんお婆さんのいる家庭といない家庭では、また全然違いますね。子どもの性格が違ってきます。そういうところまで考えていかないと、いけないでしょうね。
―― 先生が仰ったように、親離れよりも子離れが問題というのは、そうだなと思います。
―― それはわかるよ。親としてみれば、身内にその人しか居なければ当然でしょう。
―― だけど、それが子離れを阻んでいるとしたら、親が子ども以外に他の関係を結ぶことをしないと。社会的にとか。夫がいれば夫との関係を重要にしたり。
―― 例えば、自立といっても、寺ならその長男を自立させてはいけないのではないですか。
―― 自立と自営とは違って、いわゆる精神的な自立ですよね。
―― 完全な自立を願っている大人と、職業がら自立を促せない寺。
―― 自立して、かつ、僧侶をしたいという人が寺を継いでくれないと、寺はダメになる。嫌々寺に居るというのでは、ろくな坊主になりません。
―― だから、寺を継ぐ時に、嫌々継ぐのか、本気で継ぐのかでしょう。
―― どのように育てればいい?
―― 本当は、ほっておけば良かったんだろうけど、今はほっとけないんですよ。私が育った時は、学校から帰ってきたらすぐ外に遊びに行ったんですが、今できないですよね。特に小さい子だと、危なくて外に出せない。だから、親が付いていって遊ばせなくちゃならんから、全て意識的にやらないと。社会や近所の人に任せればいい、社会が育ててくれる、という状況じゃない。ところがそのノウハウが無い。そこらへんが問題なんでしょう。
―― アンバランスな環境でしょうか。
―― うちの子どもが幼稚園の年長なんです。それで、新設される小学校のパンフレットが来たんです。そこに学校の方針が書いてあるんですが、盛りだくさんなんです。できるんか? と思うくらい。昔だったら、こんなこと書いてなかったと思うんですが。「日常の生活習慣に対してのしつけを行います」と、小学校のパンフレットに書いてある。小学校でしつけをする、ということは、「しつけをしてない子がワンサカ来るぞー、これは」って、心配になってしまいました。
―― 結局は核家族になって、共働きが多いじゃないですか、だからしつけができてない。だから学校がやらざるを得ない状況になっちゃった。アンバランスと言ったのはそこなんですわ。家庭教育と学校教育と社会教育の真中に人間形成がある。そのバランスが整っていて人間が形成される。
ところが、その過程において、学校教育だけがあって家庭教育がないし社会教育も無い。社会に出さないから、社会の秩序が分からない。どうしても学校教育ばかりで頭でっかちになりやすい。まあ、そういう原因があって、小学校のパンフレットにはしつけまで書かれるんでしょうね、家族がやってないから。
―― 自立心が無いというのは、社会性が無いということでしょう。社会性は家庭の中でも社会性があるわけですよ。おそらく。だから、本当の社会に出る前に、家庭という社会があって、家庭の中で社会性を身につける。だから、役割が無いといかんと思うんです。今自分の家庭のことを考えると、子どもになるべく役割を持たせようと、今考えているんです。社会性を持たせるためには、家庭内での社会性、家庭の中で仕事を与えるところから始めています。それが今度、学校とか会社とか、もっと大きな社会の中で自立する一歩かなと思って。そう理屈では考えて、やらせようとしているんですが・・・叱ってばかりいますね。
―― 幼稚園でも、そこの中で遊ぶのも教育ですから。見てると、協調性とかが養われていくし、その中でルールが出てくるんです。子ども達の中で。
―― 子ども達の中でルールを決めることは大事でしょう。結局、子ども達が自立しなくてはいかん、ということから逆算すると、「こうしなさい」―「はい」ではなくて、自分で決めていく。小さな中でも自分で考えさせる。
―― ただ、今言ったように、そういう環境が整ってない。僕たちの小さい頃は、野原がまだあって、学校から帰ってくると、自然と環境ができている。だけど、今言ったようなことだと、外に出ると交通事故に遭うもんで、親は出さない。
―― 先、先に考えて。
―― そういうような形で縛り付けていく。そうすると環境が束縛されてくる。それが今言った母親からの暴力や、逆に子どもの暴力になる。
―― そうなると、ルールをしっかり守らせることも大事だけど、ルールってそれぞれ違うから、第一の基本は、「自分で動け」と。本当は、ほっておけばいいんだろうな、と思うんです。家庭の中なら。
ちゃんと自分で起きなかったら、ちゃんと遅刻するといい。ところが、起こして食べさせて、口に突っ込むようにして食べさせる。本当は「時間になったら起きなさい」と言っておいて、自分で起きなかったら、学校に遅れて行って叱られてこればいいんですよ。ただ、小学校の場合は分団で行くから他の人に迷惑かけるからできませんが。
―― どこまでが、というボーダーラインを決めないと、判断力がつかないし、知恵がなくなってしまいます。
―― ではここで、5分間の休憩を入れます。
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