平成アーカイブス  <研修会の記録>

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【平成アーカイブ/研修会の記録】
平成14年度勉強会  

『家庭・家族』1−3

― 日本の伝統的なカウンセリング・システム ―

7月11日勉強会3 [講師:西光義敞先生]

 家族形態の分岐点

 現代は、浮き草のように漂っている個人が増えてますから、伝統的な人情・しがらみ、嫁姑のしがらみ、男の束縛から逃れて、個人として自由に生きられる、能力を発揮できる若い人、特に女性が増えてますね。そういうことを、ますます進展させるような仕組みを日本社会は作っていくのかどうか。それとも、「それはちょっと行き過ぎなんじゃないか」と、「欧米はそうかも知らんけど、日本は社会が違うのだから、歴史も伝統も違うんだから、ちょっと日本の良さを見直して、日本独自のサポートシステム、癒しのシステムを個人としても制度としても人間関係の上でも作っていく必要があるんじゃないか」というふうに考えるのか。これは皆が考えることですね。

 カウンセリングというのは、一対一の関係で相手を助けることですが、そういうのを中心に私はやってきましたけど、この頃のサイコセラピーの展開を見てますと、まず対応できるカウンセラーの数が足らない、日本全体で。だから大急ぎでカウンセラーを養成せんならん。これ、ひとつの動きですね。

 そういう方向が進歩だとすると、「アメリカ社会は進んでいる」ということになり、日本は遅れているということになります。けれども、もうひとつの考え方は、「日本は遅れているのだろうか。いくら頑張ってもアメリカのようにはならないんじゃないか」と。だから「日本は伝統を見直して、日本独自のシステムを作るべきだ」と。ここで意見が分かれていく。

 日本の伝統はむしろ新しい

 私、22〜23年前に、アメリカに行ったことがあるんですよ。その時に、一番新しい動きとして、「共同風呂に入るのが、人間としての触れ合いとしてすごく良い」というニュースを見ました。これなど日本でいう銭湯ではないか、と。裸になって触れ合うわけでしょ。子どもも、お爺ちゃんも、おじさんも。そういうことで無意識に満たされた日本のシステムのようなものが、アメリカから見て、それが最も新しいことだ、と。ところが日本に帰ってきたら、どんどん核家族の家が増えて、狭い家なのに皆風呂が欲しいわけですよ。それで家の風呂に入るから銭湯がどんどん消えていく訳ですね。

 そうすると、どういう現象が起こるかというと、昔は子どもはみな、川などフリチンで泳いだわけです。でもフリチンの子どもが無くなった。つまりアメリカで最も新しいとなっていたものが日本の伝統社会にたっぷりあって、それをむしろアメリカ人は憧れている。日本人は、あったものを、どんどん忘れていく。そしてアメリカ型の居住形態や家が良い、進んでいると思ってそちらばっかり向いている。

 もう一つは、飲み屋ですよ。アメリカの人たちが寄って飲む場合でも、ここまでは立って酒を飲む、ディスカッションする時はディスカッションする。日本のような飲み屋というのは無いんですね。日本だったら「今日は部長、ご機嫌悪いですなー」、「課長のあの態度、何だと思う。ちょっといっぺん付き合えや」と。ついて行った先の飲み屋のオバチャンが「えらい今日は荒れてますね。どうしたの」、「ちょっと聞いてくれよ」てなかんじで、酒を飲みながら、うにゃうにゃ言っとったら、憂さが晴れる。そんな赤提灯が沢山あります。

 そんなふうなのは、アメリカには無いんです。だから一緒に酒を飲みながら、部長も平社員も目の前の女性にうっぷんをぶちまけながら、ひと時を過ごすというのは、すごい癒しの場なんですね。普通の女性だったら、そんな愚痴を聞きたくないでしょうが、上手にそれをあしらう術を持っているマダムがいる。

 だから日本的癒しのシステムは、伝統の中に沢山あってね、こうしたことは皆さんにも考えて欲しいのですが、宗教に関しても、すごくいいものを、特に真宗家庭というのは作ってきたと思います。 あの7日・7日の49日、忌明けまで一週間にいっぺんずつ親族や家族が寄ってきて、お坊さんがお参りして、今のグリーフ・ワーク(grief work)みたいなものです、カウンセリングの。

 今まで居た親しい妻なり夫なり家族が亡くなって、葬式が終った途端に落ち込む人がものすごく増えているんです。感情のもっていきどころが無い。そういう人たちを集めて、慰めたり癒したりする専門職的なグリーフ・ワークという領域があります。アメリカの本を見たら、グリーフ・ワークというのがカウンセリングとして一番新しいものとして出ています。

 日本は、アメリカから渡ってくるカウンセリングや、サイコセラピーや、癒し、ヒーリング、グリーフ・ワークというのが、何でも新しいものとして、追っかけているんです。それはいいけどね、「ちょっと待ってくれよ」というのが、真宗のカウンセリングの立場なんです。

 お前たち、日本人だろうが、東洋人だろうが。西洋にあるものは新しいもので、東洋にあるものは古いもの、とばかり思わないで、何十年、何百年、何千年かかってすごいものを作ってきたわけやから、西洋の人たちは、むしろ東洋的なもの、日本的なもの、仏教的なものにあこがれる時代になった。だから、もうちょっと自信を持ってやる必要がある。そういう目覚めが必要ではないか、ということを訴えていきたいですね。

 根本的な問い

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 それで、少子高齢化社会ということになると、今のように子どもを産みたがらない、少なく産む、さらに結婚したがらないという女性が増えてきている、という根本的な変化ですね。この問題が根底にある。 この問題をどうとらえるのか。どう解決していくか、という、これはもうラディカルな問題ですので、そう簡単に解決しないだろうけど、我々は我々として仏教徒、真宗僧侶・門徒としてどう考えたらいいか、ということは青年会の課題とするといいと思います。

 それと、次から次へと、いじめ、家庭内暴力がある。こういうところから、日本における教育システム、これは学校教育中心ですね。その周辺に社会教育というものがあるのに、大事な7、8歳から、22、3歳までの教育というものを、日本の文部省が握っている。こうした、戦後作りあげた教育システムを、良いものとしてきたけれど、そんなに良いものなんだろうか、というラディカルな問いがあります。

 教育というものに、公的機関、公的責任が介入しすぎることが、本当に人間形成に良いのだろうか。昔の丁稚奉公や寺子屋、あるいは家の中で仏壇中心に家族がお勤めをしたり、初物ができたら仏さまにお供えして、「お下がりいただこうか」といった、なんでもないようなことが欠けている時代になってきました。あるいは家庭の中で、宗教教育というものも、眼に見えないものに対する尊敬や敬いの心を教えてきた、それもどんどんと崩れていってます。もう消滅寸前です。

 だからこれを我々としてはどう見るか、ということも具体的な課題だと思います。そう思うについての、私なりの理由とか原因とか体験とかは色々あるんですけどね。また時間があれば聞いてもらうとしましょう。

 もうひとつは、「親子」の関係で、例えばだいたい結婚前の独身の方か、結婚して子どもが小学生ですね。この頃は必死になって子どもを育てます。こういう時に、父親はどう教育に関わるか。権威主義的に関わるべきなのか、そうではないのか。父親の立場が問われます。さらに、もう10年したら全然違った親子問題になる。子どもが高校生から20歳くらいになれば、もうやれやれだ、となるのかどうか。また、親が90歳台で、子どもが70歳台。そういう親子関係から生れる問題もあるんですね。

 中間に挟まれた世代が背負うもの

 高齢化社会では、高齢者を平たく老人というのではなく、今は「ヤング・オールド」、「ミドル・オールド」、「オールド・オールド」と、少なくとも3つに分けて考えなくてはいけない。例えば、65歳から75歳くらいの人たちは、子育ても済んで、経済力もあって、これで健康なら一番自由に飛びまわれる。特に女性は。

 いま問題なのは、後期高齢者です。独りでは生きられない。必ず誰かが支えないといけない。それで「老老介護」の問題になります。年取った配偶者が自分の身体も疲れているのに、相手を介護していかなくてはならない。「助けて」と言っているわけです。だからホーム・ヘルパーが要る。福祉費が要る、という時代になってきているんですね。「最期は、あなたはどこで、誰に看取られながら死ぬのか」という問いかけがあるんですが、僕らの世代ではものすごく深刻です。今日はこうして元気だけど、明日はどこで誰に看取られながら死ぬのか。僕の長男は今は九州に居るんです。この子が寺を後を継いでくれるかも知れないし、継いでくれないかもしれない。私が今倒れたら、息子夫婦に介護を頼む、最期の看取りをしてもらうわけにはいけない。

 そこまで考えてきてるか、というのが、僕らの年代の家族問題です。寂しいのと不安、複雑な心境ですね。 ところが、新しい家庭であっても、「親の最期は看取りたい」という人も居るんです。そういう人は、週末には飛行機で実家に帰り世話をする、というように、遠距離で見てる人もいるんです。だから、一口に介護と言っても、色々なケースが出てきてますね。

 このように、家族問題と言っても、年齢、世代において問題はすごく違ってきます。それで僕が感じるのは、アメリカのように純粋な核家族ではなく、前近代を良いにしろ悪いにしろ引きずってきてる訳だから、そうはいかない。というところで言いますと、一番しんどいのは、中間に挟まれた世代。まさに皆さんじゃないですかね。

 今のところお聞きすると、お爺ちゃんお婆ちゃんが、まあまあ元気にやってくれてる。だから気楽に生活を楽しんでいける。好きなことをやれてますが、もう10年20年したら事情が変わってきますでしょう。お婆ちゃんが先に倒れた、お爺ちゃんが動けなくなった、寝たきりになった。そういう後期高齢者、オールド・オールドを支えていく責任を感じるわけですよ。

 一方、独身だったり、子どもが今は幼児・小学校ですけれども、もう10年20年たったら、中学・高校を終って大学へ行く。教育費の問題が出てきて、教育のレベルを高めなければならない。一方は子育て、教育費。しかもその子どもは、小さい時に可愛がって育てたから、親の言う事を聞かなくなる。そこでトラブルが起こるでしょう。そういう意味の子育て問題で悩みを抱える。孤立状態になる。同時に年寄りを支えていく責任がある。中間に挟まれて、しかも昔は大学を出れば安定した仕事に就けてよかったと思うが、それすら危なくなった訳でしょう。だからすごく不安ですよね。悩みが大きいのではないでしょうか。

 だから、どこを取ってみても大変な時代だな、と分かります。だから、そういうふうな全体を視野に入れながら、ここで問題を深めていくか、あるいは、そういうことを背景に置きながら、さし当って会員として抱えている問題を話し合っていくのか、ちょっと絞ってもらったら、と思います。

 今までのような親子関係、義理人情的な人間関係でもない、そうかと言うて理屈で割り切ったような人間関係でも困る。暖かで、しかも一人一人の個性なり自由の上で生き生き生きられるような生き方、人間関係。これが僕は現代的課題だと思う。

 そういうことに関心があるし、「こういうトレーニングの方法もありますよ」ということを紹介することもできますので、そういう勉強に絞っていただいても良いです。現代における家族関係、家庭内における人間関係。どうすればうまく保っていけるか、という人間関係のつくりかたに絞ってお話しても良いですよ。

――では次回以降はどういう話し合いにするか考えて、また先生に報告して、勉強会を進めていきたいと思います。

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平成14年度 名古屋西別院仏青勉強会 年間テーマ:『家庭・家族』


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