平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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浄土往生、即成仏と同義語でしょうか
往生と成仏の本質を尋ねる質問ですが、これは信心の真・仮・偽と浄土の真土・仮土について、そして浄土往生と成仏の関係が解れば自ずと明らかになる問題でしょう。
結論からいいますと、同義語ではありませんが、如来が私の中でその果報を現わしはじめているということからいえば、「極めて近い」ということです。
浄土往生は本質的には、真実信心を獲得する際に正定聚・不退転に至ることをいいます。しかも現生(生きているうち)において叶うのであり、往相即還相で、いわば浄土に往来する、往ったり還ってきたりできることをいいます。
「浄土往生、即成仏」というのは、経典の意を拡大解釈したものです。
本来浄土に往生することは正定聚不退転の菩薩に成らせていただくことを言いますが、仏地には十段階あり、生きているうちは等正覚までで、正覚(成仏)まではあと一歩の境地です。しかし、即得往生も如来からたまわる信心の徳であって、自分自身の我執・悪性が止んだわけではありませんので、煩悩具足の私の本性は、とても「私は往生を遂げた」と胸を張るれるわけではありません。そこで、どうしても臨終を期してこそ「往生」と称せられるわけで、この浄土往生を即成仏というのです。
つまり、信心の徳目から言えば、浄土往生は生きたまま仏地・十地に至り等正覚に至ること。自身の敬虔な胸中から言えば、浄土往生は臨終を待たずには成就できないこと、という道理です。
以下その詳細を述べてみます。
「浄土往生の因は真実信心である」ということは、浄土真宗の教義の基盤を成しています。浄土に往生する因は様々にありますが、信心にすべて集約して示すことができるのです。このことは浄土真宗のみならず仏教の基盤でもありますが、ここでわざわざ「真実信心」とあるのは、真実でない「仮(方便)の信心」があるからです。ただしこの方便が質問の重要な鍵をにぎりますので注視して下さい。
信心の本質は「無上菩提心・大菩提心」であり、これは「願作仏心」といって自ら仏になろうと決した心であり、これは同時に「度衆生心」といってあらゆる衆生の苦を除きさとりに向かわしめる心です。([浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?] 参照)
この無上菩提心を起こそうとせず、ただ自分が死後の安逸を貪るために往生しようとしても、これは偽りの信心ですから願いはかなうことはありません。したがって、普段よく法を聞いていない人が「念仏をとなえておけば、死ねば自動的に浄土へ往生して安楽に暮らせる」などと勝手に思い込んでいるのは、何の根拠も道理さえない単なる気休めに過ぎません。まずこのことは肝に銘じておかねばないでしょう。{※資料1▼ 参照}
ただし衆生は何の縁もなく自分で覚りの心をおこすことは滅多にありません。そこで、真実のはたらきの主体である如来は、私たちに往生の因となる無上菩提心を示すために、釈尊はじめ善知識を総動員して「真実の願」と「方便の願」のいわれを明かされました。これはどちらも如来が先手で願を起こしたもので、その果報として仏と浄土が成就する訳ですから、その浄土はともに報土ということができますが、単に「報土」といった場合は真実の願の成就した報土をさし、方便の願が成就した報土は「化土」といいます。なお「如来が仏を成就する」というのは、如来が如来としての本懐を遂げるという意味です。
真実の願とは、如来の第十八願をいいます。
この願を因として成就した仏が「真仏」なのですが、それは「無碍光仏」であり「諸仏の王」であり、光明は「極尊」です。
そして真実の願を因として成就した浄土を「真土」といいますが、それは「無量光明土」とも「諸智土」ともいい、「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」と表わされています。
この真実報土に往生する人々は、「すべてのものが平等に、おのずと極めてすぐれた覚りの身を得る」のであり、「浄土の清浄の人々は、如来のさとりの花から化生する」といわれます。化生とは、さとりの果を得てすぐに仏を見たてまつる、ということです。{※資料2▼ 参照}
方便の願とは、如来の第十九願と第二十願をいいます。
これらの願を因として成就した仏が「化仏」ですが、これは『観無量寿経』の「真身観の仏」などにあらわされています。なぜこれが化仏かというと、どんなにすぐれた相をあらわしても、その相には限界があるからです。しかし私たちには限界のある姿が示されなければ、さとりの世界があることすら思い至りませんので、方便として必要なのです。
方便の願を因として成就した浄土を「化土」といいますが、「懈慢界」とも「疑城胎宮」とも説かれている浄土です。これはどれほど信じようとしても、その果は未来であり、おのずと疑惑が生じるからです。
この方便化土に往生する人々は、その因が「修諸功徳」であり人によって異なるため、往生する浄土もそれぞれに異なってしまいます。そこで化土に往生したことを「胎生」といい、報土往生の「化生」と区別しますが、これは浄土に生れても疑惑の花びらに閉じられて、すぐには仏を見たてまつることができないことをいいます。しかしこの方便は決して嘘ではなく、仮とはいえ往生のひとつの目標となるものです。
どういうことかといいますと、例えば第十九願を励みとして往生を願う人には、「命を終えようとするとき、わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう」とあるように、これは念仏の功徳により釈尊と同じように聖者の死を迎えることを意味します。{※資料3▼ 参照}
自身の人生を、<すべきことは行い、説くべきことは説き、後の憂いなく、完全燃焼した人生であった>と振り返り、阿弥陀如来はじめ諸仏聖者や衆生が褒め称える中で死を迎える、ということは、人間として充実した人生を送ったひとつの結果であり、望むべき臨終の姿でありましょう。この臨終の姿のモデルは釈尊であり(ブッダ最後の旅 E
参照)、まさに聖者の死の姿であります。
ですから、<このように臨終を迎えたい>という願いは、如来の真実心より出たものですから、決しておろそかにはできません。むしろひそかに心に期すべきところでしょうが、全ての聖者・念仏者がこのような臨終を迎えるわけではありません。
断末魔の苦痛の中でのたうち回り、信心も菩提心も意識に上らず、自他の判別もつかずに死を迎える場合もあるでしょう。やり残した仕事が山積みにあり、後悔ばかりが先立つ臨終の姿もあるかも知れません。長く身心を患うこともあるでしょうし、呆けの症状が悪化して周りに迷惑をかけたはての死、という場合もあります。そうした人生も決して如来の真実心から外れた結果ではなく、むしろそのような苦悩と苦痛を背負う私たちだからこそ、如来は誓願とその成就を示すのです。
また、この第十九願の成就だけを心の依りどころとしても、その果報は未来であり疑惑を生むとともに、その間に何をするのかという行に差別の相が出ています。ですから人生の成就した結果も、縁あって釈尊と同じ臨終の形を現わすだけでなく、様々な差別の相を示します。ですから第十九願は、ひとつのあるべき姿とはなりますが、普遍的ではないため真実の願いとはなりません。
しかしその奥に真実の願いが隠されていることに着目すれば、第十八願の展開を方向づけるものとなるでしょう。「寿命が尽きるまでには私も釈尊と同じように覚りを開きたい」という願いは、真実信心の願いの深さを方便として形であらわしたものです。形は真実ではないので方便ですが、方便は真実に導く術であり、同時に真実信心のひとつの展開の姿でありましょう。
第二十願は阿弥陀仏の名を称ずるわけですから、行そのものに差別はありませんが、称える心が問題となっていません。称える心に差別があるのでこれも依りどころとなる願ではありませんが、真実信心は必ず称名念仏を導きますので、これも如来の真実心が形をとった方便の願なのです。{※資料4▼ 参照}
さらに、第十七願の諸仏称名の願に護られて、私たちの念仏も真実に転じられていくのです。
このような無上菩提心をおこすことは、私たちには非常に難しいことで、仏でなければ適わない心です。それゆえに如来は四十八の願をおこし、成就した浄土のいわれを説くのです。衆生は浄土を求め学ぶ中で、諸仏の導きの中でおのずと「無上菩提心を発こしたい」と願うようになります。如来の願いが我が願いとなることが真実信心なのです。
もう少し真実信心についてはっきりさせておきますと――真実報土に往生する因となる信心は、求道心をともない、教えを聞いても鵜呑みにせず意味内容を深く思惟し、また覚りの道があるというだけではなく覚りを得た人がいることを理解する必要があります。また覚りの内容が完全に正しく説かれた教え(つまり大無量寿経)を依りどころとし、因果の道理を知り、仏・法・僧の三宝の本質が一体であることを信じる必要があります。{※資料5▼ 参照}
このような信は、自分の心が如来を信じていくようになる、という次元の話ではなく、如来が信心となって私の心に至り届いて下さる世界です。真実の側が私にその本質を開いて見せて下さるのです。ですから、信じるといっても私が信じるのではなく、聞けば聞くほど歩むべき究極の道が見えてくるという世界であり、肯くしかない一本道を見せて下さる世界です。私がこの世界を出て浄土に往くのではなく、浄土がこの世界に成り切って私に示してくださるのです。
目が変わる 世が変わる
ここが極楽に変わる
うれしや 南無阿弥陀仏
浅原才市
さらに、真実信心は懺悔をともないます。これは覚りの眼が、罪を重ね迷い迷っている私の姿を見抜くのですから、必ず懺悔をともなうのです。その姿は、眼や身体中から血を流すほどの懺悔もあれば、涙を流し熱が出るほどの懺悔もあります。
ただ、以前[機(闇)と法(光明)どちらを先に観るべきか? ] に書きましたが、懺悔も自分自身を責めることが本質ではなく、真実信心を得れば喜びの中に懺悔が果たされると、という境涯を味わっていただきたいと思います。{※資料6▼ 参照}
親鸞聖人は、こうした境涯を「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」{※資料7▼ 参照} とよろこばれてみえますが、「弘誓の仏地」とはまさに浄土のことです。真実報土は死んでから往生するのではなく、即得往生といって真実信心の至り届いた時に開ける世界です。これは覚りに向かう喜びが得られた正定聚の位であり、再び迷いの世界に落ち込まない不退転の位をいいます。([現世での救い十種]・[五十二位と、親鸞聖人・蓮如上人の教学の違い] 参照)
このことは、『仏説無量寿経』などの浄土三部経と、親鸞聖人の著である『顕浄土真実教行証文類』を読めば自ずと明らかになってくるのですが、残念ながら現在の教学は、宗教に入る動機や問いが個人的な救済に偏った『歎異抄』が中心となっていて、せっかくの聖教がその本懐を発揮するのを妨げています。{※資料8▼ 参照}
以上、長々と信心と往生の関係について書きましたが、浄土往生と成仏の関係を知るには、どうしても浄土往生の真・仮・偽の実態を外すわけにはいきませんでしたので、詳説させていただきました。
このように、真実信心は即得往生であり、往生が即成仏であれば、信心獲得と同時に即成仏となりそうなものですが、これは二つの事柄が混乱して結びついていますので、これを整理して考えてみましょう。
勤行で使う様々な「聖典」の初めには、大抵「礼讃文」が掲載されていますが、その最後の方に――
無上甚深微妙[むじょうじんじんみみょう]の法は、百千万劫にもあい遇うことかたし。われ今見聞[けんもん]し受持することをえたり。願わくは如来の真実義を解[げ]したてまつらん。
とあります。これは信心獲得と成仏の関係を適切に表わした言葉です。
つまり「われ今見聞し受持することをえたり」とは信心をいただいた姿であり、「如来の真実義を解したてまつらん」とは成仏を願う文です。「見聞し受持する」ことは今であり、「解したてまつらん」は回向された願いの深さを表わしています。如来の真実義を解すのは、成仏し覚りを開くことであり、これは永遠の理想ですが、「せめて命終えるまでには何としても解さねばならない」と本気になってはじめて「見聞し受持することをえたり」といえるのです。信心のもよおすはたらきが私を本気にさせるのです。
信心と覚りが別になっている信心は真実信心ではありません。真実信心の本質は覚りなのですから、信心獲得するということは、おのずと私の人生が覚りに含まれる形になるのです。この覚りの功徳が行者の意識で自覚され、マナ識や身に満ちていくことを信心の生活といい、日常生活・行住坐臥にまで完全に表れ出て、アラヤ識にまで到達し、自覚覚他、自ら覚り人々をも覚りに導くことを成仏というのです。
また、「見聞」とは「聞見」ともいい、第十地までの菩薩が仏性を垣間見ることをいいます。真実義を完全に解すのは「眼見」といって、仏が明らかに仏性を見ることをいいます(第十地の菩薩は多少は眼見もする)。仏性を見るというのは、仏を見ることであり、仏の心を知ることであり、それは仏になることをあらわしています。
「聞見」は、「如来の言葉をよく聞き開いてこれが真実であることを知り、衆生の声と覚りの声の違いを聞き分け、さらに如来が衆生の様子を知って衆生のために教えを説かれていることを知る」ことをいいます。
衆生は仏を明らかに見たてまつることはできませんので、仏の言葉をよくよく聞き開いて信じ受けとることが大切なのです。ですから如来より回向された信心が重要で、受持した最初の位を「初地」・「歓喜地」といい、正定聚・不退転の位に入るともいいます。そしてその内容が日一日と深く濃く私の中で育ち入り満ちてゆくことを「念仏のお育て」といい、生きて第五十一の菩薩の位にまで至らしめる意から『無量寿経』には「諸地の行が現前する」(還相回向の願 参照)とも示されています。{※資料9▼ 参照}
このことを具体的に申しますと――<如来の声が胸に響きわたる>ということが、如来から信心をいただくということなのですが、それと同時に私を苦しめていた闇が照らされ、その正体が迷いや罪として現われてきます。闇は去った訳ではありませんが正体が明らかになるのです。
正体が明らかになるとは、「浄土と穢土が同時に見える」とともに「見分けられる」ということなのです。浄土と穢土を混同していたために道がわからず、どこに向かって歩めばよいか解らなかったが、見分けることができて始めて穢土を離れて浄土を求めることができるのであり、そうした心の目をいただくことが信心の徳なのです。
娑婆の世界はここのこと
極楽の世界もここのこと
これは目の幕切りをいうこと
浅原才市
ですから、不退転の位であっても闇は再び私を襲ってくる。迷いによって仏への歩みは滞り、この場ではたらく浄土でさえ無限の彼方に感じられる。さらに私の罪の重さは自他をさいなみ、今受持したはずの浄土往生も永遠の未来のことのように感じられる。これは信心をいただいた者の正直な気持ちです。
浄土について「西方十万億仏土の彼方」という表現も、「後世に成仏を願う」ということも、固定的な既成概念でとらえれば戯論であり迷信に堕してしまいますが、信心の領解としては真実なのであり、そのことを如来は先回りして説かれているのでしょう。
このように私たちの心は何度も何度も退転しますが、如来が私の闇の正体を照らされているので、転ぶ度に立ちあがって歩み直すことができます。これが不退転の菩薩を念じる念仏者の姿であり、その一歩一歩が諸地の行が現前することであり、成仏への志向なのです。もちろん私にとってはその目的地は永遠の彼方であり、完成は永久の未来かも知れません。しかし如来の願心は覚りを成就していますので、何としても成し遂げたいという如来のはからいもまた真なるものであります。
この永遠の未来と如来の真実が重なるところ、この一点こそまさに死の瞬間でありましょう。臨終往生の方便も、「体失往生すると同時に大般涅槃を得る」ということも、既成概念や人間の分別の上で見た時は戯論になりますが、如来の願いの深さと衆生の無明の深さにおいて結してみれば、これは覚りの真相となります。親鸞聖人は「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」と顕されています。{※資料10▼ 参照}
ですから、「生きて浄土にお育ていただき、死して足元の浄土に還る」ということが念仏者の生死ということであり、息を引き取られた方やご先祖を「仏」と称するのは、そうした一点に還られた方への尊称として申し上げるのです。
{※資料11▼ 参照}
以上、浄土往生と成仏の関係について述べてみましたが、私たちにとっては如来の願いとその成就のいわれを聞き開き、正定聚・不退転の菩薩としての本質を求道の励みとして歩む以外に道はなく、また覚りの言葉を人間の分別で誤解しないように注意せねばなりません。
(53) 『論の註』(下)にいはく、「王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生のなかに行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ぜん、またまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑにいふこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲ふがゆゑにと。住持楽とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて受楽間なきなり。おほよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と。抄出
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 菩提心釈 より
意訳▼(現代語版 より)
『往生論註』にいわれている。
「王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな無上菩提心[むじょうぼだいしん]をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心[がんさぶっしん]すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、そのまま度衆生心[どしゅじょうしん]である。度衆生心とは、衆生を摂[おさ]め取って、阿弥陀仏の浄土に生れさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生れようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀仏の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。
総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自ら積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。
【39】それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。真仏といふは、『大経』(上)には「無辺光仏・無碍光仏」とのたまへり、また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経・上)とのたまへり。以上 『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」といへり。真土といふは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経・二)とのたまへり、あるいは「諸智土」(如来会・下)とのたまへり。以上 『論』(浄土論)には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」といふなり。往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。以上 『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。以上 また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知る
『顕浄土真実教行証文類』 真仏土文類五 真仮対弁 より
意訳▼(現代語版 より)
さて、報ということを考えると、如来が因位においておこされた願の果報として浄土は成就されたのである。だから報というのである。ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのでる。真実の仏とは『無量寿経』には「無辺光仏・無碍光仏」と説かれ、また『大阿弥陀経』には、「仏がたの王であり、その光明はもっとも尊い」と説かれている。『浄土論』には「帰命尽十方無碍光如来」といわれている。
真実の浄土とは、『平等覚経』には「限りない光明の世界」と説かれ、また『如来会』には「あらゆる智慧をそなえた世界」と説かれている。『浄土論』には「はかり知れないことは虚空のようであり、広大であってきわまりがない」といわれている。
往生とは、『無量寿経』には「すべてのものが、きわまりなくすぐれたさとりの身を得る」と説かれている。『浄土論』には「浄土の清浄の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する」といわれ、また『往生論註』には「同じ念仏によって浄土に生れるのであり、その他の道によるのではないからである」といわれている。また『法事讃』に「難思議往生」といわれているのがこの往生である。
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。釈尊の教説、龍樹菩薩や天親菩薩の説示、浄土の祖師方の解釈を、仰いで敬い信じ、つつしんで承るべきである。よく知るがよい。
【1】 つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 総釈
意訳▼(現代語版 より)
つつしんで、方便の仏と浄土を顕わせば、仏は『観無量寿経』に説かれている真身観[しんしんかん]の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である。また『菩薩処胎経[ぼさつしょたいきょう]』などに説かれている懈慢界[けまんかい]である。また『無量寿経』に説かれている疑城胎宮[ぎじょうぐたいぐ]である。
【2】 しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 要門釈 説意出願 より
意訳▼(現代語版 より)
さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵[ふくとくぞう]と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。すなわち、すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。この願を修諸功徳[しゅしょくどく]の願と名づけ、また臨終現前[りんじゅうげんぜん]の願と名づけ、また現前導生[げんぜんどうしょう]の願と名づけ、また来迎引接[らいこういんじょう]の願と名づける。また至心発願[ししんほつがん]の願と名づけることができる。
【3】 ここをもつて『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 要門釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
そこで『無量寿経』の第十九願に説かれている。
「わたしが仏になったとき、すべての人々がさとりを求める心をおこして、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生まれたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい」
(37)この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。三経一心の義、答へをはんぬ。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕 より
意訳▼(現代語版 より)
『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏自ら進んで説かれた経典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかににして、涅槃に入る因とする。そのため三経のはじめには、「如是」と示されているのである。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。いまこの三経をうかがうと、みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。その真実の心とは他力回向の信心である。この信心は、たぐいまれな、もっともすぐれた、真実の、清らかな心である。どうして信心の大海には入ることが難しいのかというと、この信心は仏力によっておこるからである。しかし、真実の浄土に往生することはとてもやさしい。それは本願のはたらきによってただちに往生できるからである。いま、『無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と『阿弥陀経』に説かれる一心とが同じであるか異なるかを論じようとするのは、このことをあらわすものである。これで、この三経に説く教えはみな他力の信心をかなめとするということについて答えおわった。
【59】またのたまはく(同・迦葉品)、「善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといへども、推求にあたはざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏法僧ありといはん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性異なりと言ひて、もろもろの邪語、富蘭那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏法僧宝を信ずといへども、三宝同一の性相を信ぜず。因果を信ずといへども得者を信ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。この人、不具足信を成就すと。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 真門釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
また次のように説かれている(涅槃経)
「善良なものよ、信には二種がある。一つには、教えをただ理解する信であり、二つには、教えにしたがって道を求める信である。教えをただ理解しているだけで、教えにしたがって道を求めることがないのは、完全な信ではない。
また信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。
また信には二種がある。一つには、たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、二つには、その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない。
また信には二種がある。一つには、正しい教えを信じるのであり、二つには、よこしまな考えを信じるのである。因果の道理があり、仏・法・僧の三宝があると信じるのを、正しい教えを信じるという。因果の道理がなく、仏・法・僧の三宝の本質が一体ではなくそれぞれ別のものであるといって、さまざまなよこしまな考え、たとえば富蘭那などの言葉を信じるのを、よこしまな考えを信じるという。仏・法・僧の三宝があると信じても、三宝の本質が一体であるということを信じておらず、また因果の道理を信じても、さとりを得た人がいることを信じていないのは、完全な信ではない。この人は、不完全な信しか得ていないのである。
(25) 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔のうちより血を流し、眼のうちより血出すをば上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出づ、眼のうちより血の流るるをば中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼のうちより涙出づるをば下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといへども、これ久しく解脱分の善根を種ゑたる人なり。今生に法を敬ひ、人を重くし、身命を惜しまず、乃至小罪ももし懺すれば、すなはちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懺すれば、久近を問はず、諸有の重障みなたちまちに滅尽せしむることを致す。もしかくのごとくせざれば、たとひ日夜十二時、急に走むれども、つひにこれ益なし。差うてなさざるものは知んぬべし。流涙・流血等にあたはずといへども、ただよく真心徹到するものは、すなはち上と同じ」と。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕 (往生礼讃)より
意訳▼(現代語版 より)
上品[じょうぼん]・中品[ちゅうぼん]・下品[げぼん]のそれぞれのものが行う懺悔[さんげ]である。上品の懺悔とは、毛穴から血の汗を流し、眼から血の涙を流すことである。これを上品の懺悔という。中品の懺悔とは、全身の毛穴から熱い汗を出し眼から血の涙を流すことである。これを中品の懺悔という。下品の懺悔とは、全身が熱を帯び眼から涙を流すことである。これを下品の懺悔という。この上・中・下の三品には、それぞれに違いがあるとはいっても、みなはるかな昔からさとりに向かって善根を積んできた人なのである。これらの人は、この世で法を敬い、人を重んじ、身命を惜しまず、わずかな罪に対してでも、その懺悔は心の奥底まで貫き通る。このように懺悔すれば、時の長短にかかわらず、どのような重い罪もみなたちまち滅してしまうのである。もし、このように懺悔しなければ、たとえ昼夜休みなく懸命に行を修めても、結局利益を得ることがない。行を修めることすらないものはいうまでもない。涙を流し血を流すなどの懺悔はできなくても、まことの信心をいただいた人は、三種の懺悔をしたものと同じである」
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要をヒロふ。ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末) 後序 より
意訳▼(現代語版 より)
まことによろこばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す。深く如来の慈悲のおこころを知り、まことに師の厚いご恩を仰ぐ。よろこびの思いはいよいよ増し、敬いの思いはますます深まっていく。そこで、いまここに浄土真実の教えをあらわす文を抜き出し、往生浄土のかなめとなる文を集めたのである。ただ仏の恩の深いことを思うのみであり、世の人のあざけりも恥とはしない。この書を読むものは、信順すればそれが因となり、疑い謗ってもそれが縁となり、本願のはたらきによって真実の信を得、浄土においてすぐれたさとりを得るであろう。
<中略>
そのことはさておき、『教行信証』と『歎異抄』を読み比べて見ますと、『歎異抄』はまだ三願転入はしていません。もし『歎異抄』の信が第十八願の信であるとするならば、まだ第二十願の皮をかみっている第十八願である。たとえば竹の子が成長してゆく過程において、一枚皮をぬぎ、二枚皮をぬいでゆくように、人間の精神的成長も同じことであるが、法然上人や『歎異抄』は、第十九願の皮はぬいでおられるかも知れませんが、まだ第二十願の皮は破っておられない。したがってその信は、まだ不純なものを残している。それ故仏といっても、まだ真実の仏に遇うておられない。幼児の眼に映った母親と同じように、自己の希望的な眼によって描き出した幻影に過ぎないでしょう。そのことは『教行信証』を読んでゆくにつれて明らかになることであります。
ですから、同じく第十八願といいましても、まだ第二十願の皮をかむっている第十八願と、すでに第二十願の皮をぬいだ第十八願では、けたが一けた違うのであります。竹の子でも、まだ皮をかむっている竹の子と、すでに皮をぬいで、中の芯が出て、一人前に成長した竹とでは、けたが違います。また同じく第二十願といいましても、まだ第十八願を内に宿している第二十願と、第十八願がすでに生れて、ぬけ殻になった第二十願とは、値打ちが違う。法然上人では、まだ親鸞聖人を産み出すものを、内に孕[はら]んでいたので、その信仰はまだ未分化状態のままで生きていたのですが、親鸞聖人の信心までは、よう展開されなかった。しかし『歎異抄』や徳川時代の信仰は、どう見ても、ぬけ殼の第二十願に執われているように思えてなりません。
このことは前に申しました菩薩と大師との違いでありますが、もう一つの信の問題をとりあげて見ます。たとえば『正信偈』でも、法然上人では「生死輪転の家に還り来たることは、決するに疑情を以って所止とす。速かに寂静無為の楽[みやこ]に入るには、必ず信心を以って能入とす」、疑えば迷い、信ずれば浄土に生れる。まことにはっきりしています。昔からこれを「信疑決判」といって、疑えば地獄ゆき、信ずれば極楽参り、一か二か、どっちか。一刀両断で、手際が鮮やかである。それは大体法然上人が、地方の豪族の出で、いわば武士の血をうけていて、実際家であるからでしょう。侍は「文句はいらぬ、唯だ念仏」と、まことに簡単明瞭であります。ここに法然上人の長所もあり、欠点もある。
ところが親鸞聖人は、お公卿さんの血をうけてか、非常に綿密で学問的である。法然上人のいわれる、信ずれば浄土に生れるという信の中に、また二つある。たとい浄土に生れても、疑えば花がつぼんで、仏を見ることができない。信ずれば花が開いて、仏を見ることができる。非常に分析的である。これは「胎生・化生」の問題といわれているものでありますが、今はかんたんに、花が開くか開かぬかといっておきます。このように法然上人では、第一重の疑いと信の問題であって、その信はまだ未分化状態なのであります。親鸞聖人では、第一重の信がさらに分化して、法然上人のおっしゃる信の中に、さらにまた疑いと信があることを指摘しておられるのであります。
したがって同じく仏といっても、また浄土といっても、その内容が違う。疑いをはらんでいる第一重のつぼみの信では、仏も浄土も見ることができない。法然上人では、仏は幼児の眼に映った母親のような慈悲仏であり、浄土は命終って向こうにある。「極楽は日に日に近くなりにけり、あわれ嬉しき老いの暮れかな」、年をとって、死期がだんだん迫って来る。やがて浄土に生れる日が近くなったといわれるのです。『歎異抄』でもそうで、「久遠劫より流転せる苦悩の旧里は捨て難く、未だ生れざる安養の浄土は、恋しからず候」といっています。これは美文ですが、その美文に酔うと、いつの間にか、死んだら、向こうに浄土が待っている。そのまだ見たことのない浄土へ生れてゆきたい。これでは幼稚園の子供ではないですかね。仏教はさとる教えで、浄土がどんな世界かわかるから、生れたいと願うのです。それも希望や空想や要請ではない。直接体験される世界である。一体、法然上人や唯円には、浄土が見え、浄土をさとっていたのでしょうか。
お釈迦さまや天親菩薩は、浄土を見て、浄土がわかって、それをお経や書物に書かれたのであり、親鸞聖人や曇鸞大師では、まだ浄土に生れたことのないものが、浄土へ生れたいと願うのではなく、現在浄土に触れ、浄土に生れた人が、浄土に生れたいと願うのである。「願生するのは、得生者の情」である。そのことは、昨年死なれました曾我量深先生が、一昨年(※註:昭和46年)の一月――曾我先生は待薫寮の寮頭で、お西でいえば、勧学寮の寮頭に当る、いわば東本願寺の学問信仰の最高の地位で、ご法主の相談役であります。一昨年の正月、本山の役人の、お方を集めて、「今真宗教団は、重大な危機にさしかかっている。いろんな問題が山ほどあるが、その中で一番大きな問題は浄土です。浄土はどこにあるのか。浄土という世界は、死んで向こうにある世界ではありませんよ。あなた方一人一人の魂の根源にあって、私たちを魂の根源から呼び返すと同時に、私の主体となって働く。本当の自己となって働くのです」といわれたそうですが、足利浄円先生はいつも、「私の方からいえば、この世は浄土ではありません。だから常に浄土に生れたいと、願生の火を燃やさねばなりませんが、仏さまの方からいえば、私をどこかへつれてゆくのではありません。[至心に廻向したまえり]、お浄土の方から来て下さるのですから、[彼の国に生まれんと願えば、即得往生、住不退転]、いつでもそこが、お浄土の真只中です。生きている間は、浄土に生かされ、命終ればそこへ帰る」といっておられました。親鸞聖人では、往生はいつでも今であります。経の「即得往生」を解釈して、「即は、時をへだてず、日をへだてず、正定聚の位につき定まる」ことだとも、「前念命終、後念即生」ともいっておられるのであります。
浄土はこの世を越えておりながら、しかも一人ひとりの魂の根源から、私たちを呼びさます。私はこれを「おいおい」という言葉で表現します。「才市が、うっかりぼんやりしていると、南無阿弥陀仏が、向こうさまから、才市の心につき当る」。いたずらに日暮らししたり、相手をせめていると、おいおい才市よ才市よと、魂の根源から、おいおいそれでよいか、お前はどうか、自分に帰れ自分に帰れと、いつも私を魂の根源にある浄土へよび返す。内へ帰れ、自分に戻れと、親鸞聖人はそれを「本願召喚の勅命」といっておられる。「本願召喚」ということを、昔は、この私たちの本尊像を「召喚のお像[すがた]」といって、そこは迷いのシャバであるぞと、蓮台の上に、伸びあがり立ちあがって、右の御手を上げなされては、来いよ来いよ、左の御手は下げなされては、必ず救うと、火葬場の向こうの、西方十万億のかなたから、よんでおいでる阿弥陀さまの写真だと、いわれていましたが、これは幼稚園の子供に聞かす話で、おとなになれば、本当のことを教えねばならぬ道理でしょう。
<中略>
どこに見つかったか。「汝の五尺の体の中に在り、汝自らこれを開拓せよ」値打ちがない値打ちがないと思っていた、罪悪深重の泥凡夫のこの私が、南無の花、信心の智慧の眼が開けて見たら、何と驚くなかれ、私そのものが、「不可称不可説不可思議の功徳」の宝の蔵であった。しかしいくら功徳があるといいましても、言うだけではだめである。それが日常生活の中に、煩悩を肥やしにとって働かなかったら、何の値打ちもない。「信は道の元、功徳の母」、信の内にある功徳が、自らを願いとして産み出す。その浄土の功徳の働く相、それを信楽の念仏というのであります。
そこで私は、宗教的世界の精神年齢を、大きく三段階に分けて、信仰と信心と信楽といっています。「信仰」は、素朴な原始宗教から前近代的なもので、神や仏を向こうにながめて、仰いで信ずる段階の、私はつまらぬ、神や仏が尊いという、他者的な救済の宗教で、幼児の信である。「信心」は、近代的自覚の宗教で、独ち立ちせよと、自覚を説く宗教。信心の心は、主体性を意味する。独り立ちして見たら、私の体の中にも、尊い仏の血が流れていた。「一切衆生悉有仏性」という自覚の宗教。いわば成人式までの宗教である。しかしそこが卒業ではない。「信は道の元、功徳の母」で、さらにその自らの内に宿している功徳を、現実に形をとってあらわさねばならぬ。その段階を「信楽」という。この五尺の体の中に具わっている「不可称不可説不可思議の功徳」とは、そもどんな功徳か。その内にある無限の功徳を一つ一つ自覚して、ああこういう功徳があると、その内容を明らかにして、それを現実に具体化せねばならぬ。それが浄土の荘厳功徳として、また四十八の功徳として説きあらわされている。その浄土の荘厳功徳、四十八の功徳が、日常生活を通して、この世に浄土の出張所を造ってゆく。そこに親鸞の宗教がある。往相と還相の問題も、そこから出て来るのであります。この信楽は、おとなになってからの宗教で、まさに人生創造の宗教であります。
島田幸昭 著『教行信証開眼』 より
【21】またのたまはく(同・師子吼品)、「〈一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆゑに、このゆゑに見るといへども明了ならず。善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなはす、掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさらに了々ならず。十住の菩薩、ただよくみづからさだめて阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたはず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は、仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに、仏性を聞見す。菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず〉と。乃至 師子吼菩薩摩訶薩まうさく、〈世尊、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたはず。まさにいかんが観じて知ることを得べきや〉と。〈善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたはず。もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり。もし如来、所有の身業を見たてまつらんは、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来、所有の口業を観ぜん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生のともに等しきものなけん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじ、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来、所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにせず、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもつて衆生を観そなはすとき、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく〉」と。略出
『顕浄土真実教行証文類』 真仏土文類五 真仏土釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
また次のように説かれている。(涅槃経)
「<すべてをさとったものを仏性という。第十地の菩薩はすべてをさとったものとはいえないから、仏性を見るといっても明らかに見るのではない。善良なるものよ。見るということに二種ある。一つには眼見[げんけん]、二つには聞見[もんけん]である。仏がたは手のひらに置いた阿摩勒菓[あまろくか]を見るように、はっきりと仏性をご覧になる。第十地の菩薩は仏性を聞見するけれども、それほど明らかに見るのではない。第十地の菩薩は、ただ自分が間違いなくこの上ないさとりを得ると知ることができるが、すべての衆生にみな仏性があると知ることはできないのである。善良なものよ、仏性を眼見するするものは、仏がたである。第十地の菩薩は、少しは眼見もするが聞見もする。すべての衆生は、第九地の菩薩にいたるまで、みな仏性を聞見する。ただし菩薩が、すべての衆生にみな仏性があると聞いても、それを信じなければ、聞見とはいわないのである>(中略)
師子吼菩薩[ししくぼさつ]が申しあげる。<世尊、すべての衆生は如来のお心を知ることができません。どのように観察してそのお心を知ることができるのでしょうか>と。
<善良なものよ、すべての衆生は本当に如来の心を知ることはできない。もし観察して知りたいと思うなら、二つの方法がある。一つには眼見、二つには聞見である。如来の身業を見たてまつり、これが如来であると知ることとを眼見という。如来の口業を観察して、これが如来であると知ることを聞見という。如来のおすがたを見たてまつると、そのおすがたはすべての衆生に超えすぐれている。そこでこれが如来であると知る。これを眼見という。如来の声を聞くと、この上なくすぐれており、衆生の声とは異なっている。そこでこれが如来であると知る。これを聞見という。如来の不可思議なはたらきを見たてまつり、それが衆生のためなのか、如来ご自身のためなのかというと、それは衆生のためであってご自身のためではない。そこでこれが如来であると知る。これを眼見という。如来を観察すると、如来が他心通により衆生のありさまを知られて教えを説かれている。それは如来ご自身のためなのか、衆生のためなのかというと、衆生のためであってご自身のためではない。そこでこれが如来であると知る。これを聞見という>」
【103】 まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 便同弥勒釈 より
意訳▼(現代語版 より)
いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚(第五十一位)の金剛心を得ているから、竜華三会[りゅげさんね]のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希[いだいけ]と同じように、喜忍[きにん]・悟忍[ごにん]・信忍[しんにん]の三忍を得ることができる。これは往相回向の信心をいただいたからであり、阿弥陀仏の不可思議な本願によるからである。
<中略>
昔から「無明」に二つあって、一つには疑無明、二つには痴無明。今ここで「無明の闇が破れる」とおっしゃるのは、その中の疑無明が破れるのであって、痴無明ではないといわれています。「疑無明」とは、本願疑惑の無明といわれて、必ず助けるという弥陀の本願を疑うことであり、「痴無明」とは、ものの道理のわからぬ愚かのことといわれていますが、どうも私はそういうことはこじつけで、親鸞聖人のお意にそぐわぬように思われるのであります。「無碍の光明は無明の闇を破る」ということは、これは明らかに迷いが迷いと知られ、愚かが愚かと知られることである。知ることは確かに、わかることである。今までわかならかったことが、智慧の眼が開けることによって、わかるようになる。これは明らかに痴無明が破れることであります。
もう一つ申しますと、昔から信心決定したら、すぐこれが仏といえるかどうかという問題があるのです。これを一益か二益かという言葉で、論議されているのです。益はやくと読んで、ご利益ということです。一益とは、この世ですぐ仏になれるということで、これを「一益法門」といって、異安心とされています。二益とは、この世で仏になるのではなく、この世でいつ命終っても、必ず次の世では、浄土に生れて、仏になれるに間違いないと約束ができて、安心ができるので、仏になるのは死後のことであるという。これを「現当二益」、現は現在、当は当来で、現在の益と当来の益と二度あって、二つの益は違うというのであります。しかしこういう考えは、素朴な宗教感情としては、まんざらうそとも言えませんが、ほとんどの場合概念化されて、そう頭で決めてしまう。一般に、信心頂いても日暮らしは変らないという。何が変るかといえば、いつ死んでも、お浄土に生れさせて頂けるに間違いないと、安心ができる。それによってご恩報謝日暮らしができるようになるといっています。死んだら仏にして頂く、浄土に生れて、ぽっと眼が開く、こういう信仰は明らかに気休めであり、自己満足に過ぎません。
「無明の闇が破れる」とは、手の合わされた、心の手の合わされた境地は、明らかに現在浄土の光に照らされている事実である。今現に仏の光が働いているのである。照らせば照らすほど、いよいよ迷いの闇が深いと感ずる。闇が深いと感ずるものは何か。深くて底のない暗がりが見えるのは、深くして底のない浄土の光が、そのまま自分の智慧となっているからである。浄土の光か自分の智慧か、こういう二重性をもっているのが、信心の智慧であります。しかも浄土の光が、現に自分の智慧となって働きながら、なお闇が残る。残るけれども自己の浅ましさは底なく広がって見える。これをどう表現してよいか。言葉は適当でないかも知れませんが、曇鸞大師に「不断煩悩得涅槃分」というお言葉があります。これはどう受けとったよいのか。私は涅槃の全体が得られるのではない。涅槃分で、涅槃の一部分が自分のものになる。一部分といいましても、十あるものが、その中の一つが得られるのか。何パーセントかが自分のものになるのかというと、そうではない。この分は全体が得られるのだが、薄ぼんやりである。薄ぼんやりと全体である。それがだんだんはっきりして来る。こういうことを得涅槃分という言葉で現わしておられるのではないかと思います。
このことは、さっきの唯識で申しますと、「転識得智」ということがあります。少し専門の話になりますが、識を転じて智を得る。「識」とは、われわれの分別のこと。分別の識を転じて智を得る。「智」は仏智であります。迷いの分別がさとりの分別になる。その場合、識を転じて智と変えるものは何か。それが「慧」であります。その識というのは八識といいまして、眼・耳・鼻・舌・身・意・マナ・アラヤの八つの識のこと。ものを見る眼、声を聞く耳、香いをかぐ鼻、味を知る舌、ものを感ずる体、この五つは外界を受け入れる感覚で、共通しているので、一まとめにして前五識とよんでいます。これらの前五識が転じて成事智となる。またこれを成所作智、外界に働きかける智慧ともいいます。第六の意識が転じて妙観察智となる。妙なる観察、明らかにあるがままにものが見える智慧。第七のマナ識が転じて平等性智。マナ識は我執のことで、自他、私とあなた、自分と相手を区別をし差別をする心が転じて、すべての人を平等に見る智慧となる。自他平等のさとりが開ける。第八はアラヤ識、アラヤ識が転じて大円鏡智。大きな円かな鏡のように、すべてのものがあるがままに映る、大円鏡智が開けるといっているのでありますが、その四つが皆一度に開けるのではない。「妙観平等、初地分得、大円成事、唯仏果起」といって、妙観察智と平等性智の二つは初地、信心決定した初歓喜地において幾分開ける。仏智が開けた最初に、この二つは幾らか開けるのである。けれども大円鏡智と成事智の二つは、永遠の理想で、唯だ仏になった時だけに開けるといっているのであります。その場合でも妙観察智と平等性智の二つは、初地において「分得」できる。ここに分得という言葉を使っています。分得とは幾分開けるということでしょう。
よく宗教的境地は一念に開ける、ぱあっと開けるといわれますが、確かにそういうことも言えるでしょうが、それは自分の眼がさめた驚きはそうでしょうが、それでは何が見えるかというと、そこに段階があり、いろんな複雑な問題がたくさんあるようです。たとえばわしは幾つの年にご信心をもろうたということをよく聞きますが、確かに宗教的な開眼はそういうものに違いない。しかし何がどう見えるかということは、開眼当時と、年功を経た後とは違う。しかもその境地、一念の境地というものは、直線的に続くものではなく、すぐまた元の自分に戻ってしまう。あと戻りする。いわゆる退転する。しかしいつまでもそこに止まってはいない。魂のどん底から「おいおいこんな所へ落ちこんでいるぞ、こんな所に腰をかけているぞ」と呼びさまされる。信の一念に呼び返される。それによって信の一念に立ち帰る。そのようにして信の一念は相続してゆく。足利先生はこれを「退転しながら退転しない」といっておられます。つまり「無退転」ではない、「不退転」である。
しかしここに問題がある。呼びさまされては、信の一念に立ち帰る。その帰った場所は信の一念であるが、前の一念の境地と、帰ったあとの境地は、同じであろうか、違うのであろうか、という問題であります。たとえば蓄音機のレコードが終って、同じ所をぐるりぐるりと廻転するように、いつも同じ所へ戻って来るのかといえば、そうではない。法からいえば同じ涅槃、同じ浄土か知りませんが、私の方からいえば、前よりは後、そのたびごとそのたびごとに、だんだんと深く濃く身につく度合いを増して来る。いわゆる「信力増上」。呼び返されるたびごとに、前の境地より一歩前進、また前進と、お育てが身について来る。転落する、それが呼び返される。そのたびごとに道が進む。このようにして次第に法のお育てに預かる。この「初地分得」というも、また「涅槃分を得る」というも、同じことであろうと思います。同じ開けて来るといいましても、うすうす解る。それが次第にはっきりとして来る。全部わかるのは、唯だ仏になった時だけである。こういうことではないかと思うのであります。
こういう仏教一般に説くことを見ましても、今の「無明の闇が破れる」ということも、今現に私の上に仏の智慧が働いている、その現在私の上に働いている智慧が、だんだんとそれが具体的に形をとって、はっきりと現われて来る。徳でも同じことである。現に種としてある「不可称、不可説、不可思議の功徳」が、形をとって、身について来るのである。だから今現在は私の上には何もないが、向こうにさとりの世界があって、そこへ私が行くと得られる、というのではなく、現在自己の内に働いているものが、だんだん形をとってはっきりとして、具体化して、自己の事実となって来る。自分の上に働いていても、まだはっきりと自覚にもならず、身についてもおらぬ。それがだんだん自覚的に明らかとなり、身について来る。具体的になって来る。二益ということは、こういうことでなければならないでしょう。今現に私の事実として、深みにおいて働いている。その自覚を得たことを現益といい、それがはっきりと身について、姿や生活の上に現われて来るのは、永遠の未来である。そういう考え方は、仏教の常識であります。
金子先生はそういうことを、あの世とのちの世という言葉で現わしておられます。浄土という世界は、私たちからいえば、彼岸の世界である。彼岸の世界は、彼の世界。この世界とその世界と、もう一つあるあの世界。この世は第一の世界、その世は第二の世界、あの世は第三の世界。彼岸の世界は今現にあって、この世を照らしている世界である。この今現にこの世を越えて私の魂の深みから照らしているあの世を、なぜのちの世といわれたのか。それは浄土は明らかに今現在、私の上に働いている世界であるが、それをあの世といわせるものは何か。そういうているものは、私の上に働くまことであるが、そう言わせるものは、私たちの迷いの深さである。迷いの深さが現在直接に照らして来る世界を、無限の彼方と感じさせるのである。それが浄土の光に育てられて、日常生活を通して、お育てお育てと、次第にお育てに預かってゆく。その実感を通して、無限の彼方に輝く彼岸の世界が、だんだんと身に近くなって、それがいつの世にかは、その世界までゆくことができると、それがのちの世として期せられるのであるとおっしゃっておられます。あの世を無限のかなたと感ぜさせるものは、迷いの深さであるが、あの世をのちの世と感ぜさせるものは、私の罪の深さである。このお言葉によっても、向こうにある世界へゆくのではなく、今現に私の魂の内から働きかけている世界が、だんだんと私の上に実現して来るのである。それをさとりといわれるのだと思います。ですから今まで言われていたような、一益でもなければ、二益でもない。もっと違ったものが宗教的世界である、といわねばならぬでしょう。
<中略>
不退転とは、不、退転ですから、このことを親鸞聖人はまた、どういうものが不退転かといって、「常に諸仏と諸仏の大法を念ずる菩薩が不退転である」といって、さらに「不退転の菩薩を念ずるものも、また不退転である」といっておられる。不退転の菩薩とは、法蔵菩薩のことですが、その法蔵菩薩を念ずるものとは、念仏者のことですから、法蔵菩薩の不退転の徳が、そのまま念仏者の徳となることをいっておいでるのでありましょう。それは私の中に、いつも不退転である法蔵菩薩と、もう一ついつも退転し、転げ落ちながらも、その不退転の菩薩を念ぜずにおれぬ私と、この二つがある。この二つが一つになっている。今の言葉で申しますと、私と、もう一人の私、我と我ならぬ我、本当の私というものが、いつも魂の底深くに働いている。こういうことからでも、ここの御文が理解できると思うのであります。
島田幸昭 著『教行信証開眼』 より