ご本願を味わう 第十九願

至心発願の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
(囲繞:とりかこむこと)

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以てわたくしを念いつづけていたとしよう。ところでもしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように、わたくしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、誰でも道を求める心を発し、一生懸命善い行いを積み、その力によって、素直な心で目覚めた私の世界に生まれようと願うに違いない。その人は生涯の終わりに阿弥陀如来が多くの目覚めた人びとと共に、そなたの人生は素晴らしい一生だったと、温かく見守られる世界に導かれるであろう。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとに在りし時、大菩提心おこせども、自力かなわで流転せり」、いずれの行も及びませんと、甲を抜いで、初めて他力にまかすことができる。その方便の願として、この願が建てられたのであるというのが、今日までのすべての人の見方であります。
 もちろんそういう見方も成り立ちますが、昨日も申しましたように、それでは願の順序から言っても、また四十八願全体から見ても、妥当ではないように思われます。これは念仏一つとか、三願転入という立場から解釈されているのですが、私は三願展開の順序で見ることが、妥当だと思いますから、その立場で読んで行きます。
<中略>
 この「菩提心を発こし」とは、はい発こしましょうという、自力の菩提心のことではなく、ほっと気がついて見ると、自然に発こっているという、本願力廻向の菩提心のことでしょう。親鸞聖人は第十八願の信は、「浄土の菩提心」であるといっておられる。その浄土の菩提心のことだと思われます。それはどこまでも自己の真実の在り方を求めてゆく、しかもそれは自己の置かれている場所を通して、浄土が呼び覚ますという菩提心です。
<中略>
成就する可能性があれば、発願とはいいません。親鸞聖人は第十九願を「大悲の願」と呼んでおられます。欲は外に求めるもので、実現の可能性を予想しますが、願はまごころに裏づけられたもので、自己自身に求めるもので、絶対に成就する可能性がないと解っておりながら、なお求めずにおれぬという願いのことです。たとえば親であるものが、親らしい親になりたいとか、先生であるものが、先生らしい先生になりたいということは、永遠に成り切ることはできませんが、親であり、先生であるものにとっては、その願いを捨てるわけに行きません。永遠に卒業のない、限りない道を歩き続けるより外に、その人の救いはありません。それと同じように、私たちは人間ですから、人間らしいまことの人間になるより外に救いはありません。それで経には常にその道のことを「無上菩提」といっています。
<中略>
せめて一生の終わる時には、りっぱな人間になって、「年寄りは家の宝、村の宝」といわれるようになりたい。しかしそれもできぬかも知れん。その時には、たといりっぱな人間にはなれんでも、一生の間よくも法を聞き道を求めて来たなあと、一言讃めてもらいたい。誰は讃めんでも、せめて死んだ父や祖父、死んだ母や祖母には、私の気持ちが解ってもらえるだろうという心が、誰にでもあるはずです。優等賞はもらえんでも、私は私なりの努力賞をもらいたいということです。私たちのその気持ちを見抜いて、仏の立場から、一生の命終る時、ようやったと、その人の前に現れるであろうということでしょう。これは臨終に仏が現われるか現われんかが問題ではない。現在の願いの深さ、願いの真実さを、こういう形で表現しているのだと思います。
<中略>
それで「修諸功徳」とは、自分の人格を高め、徳を身につけるために、菩提心から、いろいろのことをすることと思えばよいでしょう。仏教では、人間の人格はどのようにして形成されるのかということを「種子生現行、現行薫種子」、「種子が現行を生じ、現行が種子を薫ず」、展開して、その人の性格が形成されるといっています。たとえば書を習うのに、初段の力のある人が書をかくと、初段の字が書ける。すると書いたという行為が、初段の力に薫じて、二段の力になる。また二段の力を以て書くと、書いたという行為によって、二段の力を三段の力に変えてゆく。このようにして自己は形成されるというのです。人格もこのようにして段々と高められ深められてゆくことを、「修諸功徳」といったのだと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 自らの「まごころ」を信じて、生きている人が、自らの「まごころ」が受けとられない。すなわち、自らの「まごころ」だけではどうにもならない事態にたちいたれば、生きていけなくなりますから、自らが死ぬか、「まごころ」を受けとらない相手を殺すしかないのです。
 そんな事件あ新聞の三面を毎日のように、にぎわわせています。どうしてこうなるのでしょうか。問題は、自らの「まごころ」を信じ、自らの「愛」をかいかぶりすぎるところにあるのです。
 私たちは、本当に「まごころ」なるものがあるのでしょうか。自分はどうなっても、相手さえよくなればというような「真実の愛」が私たちの中にあるのでしょうか。
 私たちは、私には「まごころ」があるというところから何ごとも出発していますが、この私たちに「まごころ」があるという出発点が、本当は間違っているのではないでしょうか。
<中略>
エゴに美しい「まごころ」というオブラートをかぶせて押しつけるから、押しつけられた方はたまりません。それで、暴力をふるうということになったり、なるべくおそく家に帰るということになったり、できるだけ避けるという行動になっているのではないでしょうか。
 私たちの相手を思う「愛」の中味も、よくよく考えてみますと、自我愛(エゴ)そのものであったり、私たちの仏や神を信じるという「信心」の中味も、よくよく考えてみますと、我欲(エゴ)そのものであったりするのです。
 結局、私たちに「まごころ」があるということは、一種の幻想でしかないのではないでしょうか。
<中略>
・・・わかっていることが、わかっている通りに行えないところに、私たちの悲しい現実があるのです。しかし、実際に実践しようとしないものは、やろうと思えばいつでもできると思っています。
 実践をせずに、やればできるという思いに胡座[あぐら]をかき、如来の真実信をも受つけない私たちを、阿弥陀如来は見捨てることなく、「その方がいいのなら善を行い、正しく生きて幸せになりなさい」とすすめて、私たちが如来の真実心を受けとるのを、待ちつづけてくださるのです。
 この、私たちが、如来の真実心を受けとるのを待ちつづけてくださるお心が、第十九の願となったのであります。それも、「修諸功徳」という、一番、私たちが受け入れやすい願を建て、私たちの目覚めを待ってくださるのです。
 「既にして悲願有[いま]す」とよろこばれた親鸞聖人のお心に、私は深くうなずくばかりであります。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 聖人は、第十九願を修諸功徳の願と言っておられます。そのほかたくさん願名を挙げて、至心発願の願とも、臨終現前の願とも、来迎引接の願とも、現前導生の願ともいっておられます。その成就の文が非常に長いのでありますが、下巻のはじめの、第十八願の願成就文の次に、

仏、阿難につげたまはく、「十方世界の諸天人民、それ心をいたしてかのくにに生ぜんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは捨家棄欲して沙門となり、菩提心をおこして一向にもはら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかのくにに生ぜんと願ず。これらの衆生、臨終終時に、無量寿仏、もろもろの大衆とそのひとのまへに現ず。すなはちかの仏にしたがひてそのくにに往生す。すなはち七宝華中より自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。このゆへに、阿難、それ衆生ありて今世にをいて無量寿仏をみたてまつらんとおもはば、無上菩提の心をおこし功徳を修行してかのくにに生ぜんと願ずべし。(四〇)※

という言葉があります。
 この願の御文の意味は、私が仏になった暁には、十方世界のあらゆる衆生、菩提心を起こし、諸諸の功徳を修するとある。菩提心とは、上求菩提、下化衆生といいまして、仏教では、道を求めるということは、本当に幸せになりたいということでありますが、自利と利他、自分が幸せになりたいということと、他の者が悩んでおるのを助けたいという、此の二つの願いを持つということが本当に自分を幸せにするということでありまして、それが菩提心という仏たらんとする心です。
<中略>
それでも来迎によって、臨終正念を得て、安心して死んでゆきたいと、こういうように願うものは、真実信心という本当に助かったものがない。つまり救いを将来に求めている故に、平生も不安だけども、臨終の時に、非常に不安に陥るのであります。だから来迎ということは、諸行によって往生しようと思う人には、非常に重大問題となるのである。それは何故かというと、自力の行者なるが故に、自分がいいことをして、そのいいことをしたことによって助かろうと思っている。その為に、その自力というものは不確定でありますから、遂には不安といい、不確実ということになるから、臨終というものに困って、来迎ということを願うようになる。だから臨終ということは、諸行往生の人にいうべし。言葉は簡単ですけれども、非常に意味の深い言葉であります。その人はまだ真実の信心を得ておられないから、来迎を願い、臨終を大切にするようになるのだ。自力であるから平生に於て助かっておらないから不安になるのである。不安になるから来迎を願い、臨終正念を祈るということになるのである。けれどもそういうものは駄目だと言ってお棄てになるかというと、お棄てになるのじゃなくて、こういうことを知らせたいのが、十九の願であります。
<中略>
 この第十九願の菩提心を起こすまでにいたり、諸々の功徳を修するというまでにいたった人は助かるとありますが、これは方便の願でありますから、助かる道に出たものであります。十方衆生を助けたいというのが仏の願いでありますから、ここに入った者は助かる筋のものということですが、まだここまで来ない人がたくさんあるわけであります。十方衆生の中で菩提心を起こさないし、自分の便宜になり楽になることならば、方法も手段もえらばず妄語、綺語、良舌、悪口というようなことも平気でやっておる。殺生、偸盗、邪淫ということも平気でやっておる。仏とも法とも思わない、我儘な生活をしておる人がたくさんあるのです。そういう人も十方衆生の中ですから、この十九の願でお誓いになったということの中には、菩提心を起こし、功徳を修する者は助かるとありますが、菩提心も起こさず功徳も修せずというものを、ここまで持ってきたいというお心があるわけであります。如来の願い、如来の光明は十方衆生の上にいたり届き、そういう者も菩提心を起こし、功徳を修するということをするまでにさせたい、というおこころが一つあるということを、この十九願を拝読するときに思うのであります。
<中略>
期待の必要なのは、現在救われておらないから、危ないから臨終を期待するのであるからして、助かっておられないのです。それは真実信心がないからであります。だからそういう善を修して臨終の来迎を期待するというようなものをも、第十八願のお心をいただいてそういうことを期待しないことにならしめたい。現在助かって常来迎にあずかって、仏名を讃歎して、念仏を称え喜ぶということのできるようになる身の上にならしめたいということが、十方衆生救済の第十八願のお心と申すものであります。こういうことにならぬ者をなさしめずばおかないということが方便の願として第十八願意の真実から流れ出て十九の願となったのである。信じないものは助からぬということでは、十方衆生の本願は成就あいないのであるが、第十九願となり第二十願となると、どうでもこうでも十方衆生を救って第十八願をいただくような身の上にさせねばおかぬ、ということがこの三願を如来がお立て下さったやるせない思召しであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 四〇 =浄土真宗聖典註釈版 P41『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 三輩往生)

 それでは、まず第一に、仏道修行を志す人々が、第十八願より第十九願を重んじた心持ちから申してみましょう。そういう人達も、第十八願を無用としたのではありません。第十八願なしには弥陀の浄土に往生する縁がないことは、十分に承知しておられたのであります。それらの人達の考えでは、第十八願は浄土往生についての基礎的な本願であります。したがってその対象が十方衆生一般であることも申すまでもありませんが。しかしそれらの人達には至心信楽欲生ということが如来の願心であるということは思われませんでした。それゆえに十方衆生というも、衆生の意識している衆生一般でありまして、仏のお胸にある衆生一般というようなものではなかったのであります。まあ何人でも弥陀の浄土へ生れようとするならば、至心信楽欲生の心を起こして念仏しなければならないことは、当然である、というような心持ちでありましょう。それはいわば浄土往生の基礎条件で、そうしますと、唯除逆謗は基礎条件の上に「この限りにあらず」と除外されたもの、したがって逆謗でないかぎりは、至心信楽欲生して念仏するものは、みな浄土往生の有資格者となるわけであります。さればその有資格者はどんなことをしたらよいのであろうか。それを定められたものが第十九願であるということになりましょう。
<中略>
人間にはおのおの善をたのむ心ははなはだ深いのであります。智ある人は智によって行なうことを善とたのみ、財ある人は財によって行うことを善とたのみ、それを内に誇る心によってわれわれは生きているようであります。それもまあ悪いことではないでしょう。この世の中というものは、そういうことで成り立っているようでもあります。しかし実を申しますと、そのためにほんとうの如来の大悲の願心が届かないのであります。それは子は子で自分をたのむために、真に親の心がわからないようなものであります。しかるに如来大悲の願心は、そのおのおのの善をたのむ者をもお見捨てなく、かえってとくにそれを哀れみたまうのがすなわち第十九願であります。
<中略>
すなわち修諸功徳の往生人は、臨終の来迎によってはじめてほんとうに安心するということになるのでありましょう。したかってこの場合の仮令は「たとひ」とか「もし」とかいう意味で、来迎する必要があるならば来迎もしようということになるのであります。これを反面から申しますと、第十八願の念仏往生人には、臨終来迎の必要はない。なぜならば若不生者の誓いにおいて、三心十念の衆生はすでに如来の光明に摂取されているからであります。この点から、念仏往生の行者は現生不退の益を得るとも説かれました。
 それで修諸功徳ということは、いかにもたのみにならないものではあるが、しかしわれわれがいかにそれをたのみにしようとしている者であるかということが思われるのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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