平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル)


質問:

  阿弥陀とは無量の時間と空間の意味。そして、真実をさしたりします。
 また、如来や仏とは、これはブッタの意味、つまり目覚めたもの・悟った者という意味。
 これをふまえて、阿弥陀如来や阿弥陀仏とは真実に目覚めたもの、つまり釈尊のことですか?
 釈尊と阿弥陀仏は同一のものですか?

 あと阿弥陀如来の仏像や絵のモデルは誰なんですか?
 阿弥陀は姿、形がないし、色も無色透明だと聞いてます。
 やっぱり、モデルは釈尊?おしえてください!



返答

> 阿弥陀とは無量の時間と空間の意味。そして、真実をさしたりします。
> また、如来や仏とは、これはブッタの意味、つまり目覚めたもの
> ・悟った者という意味。

よく勉強されてみえますね。
漢訳では『無量寿如来』とか『無量光仏』『無碍光如来』等と示されていますが、 無量の時間を『無量寿如来』、 つまり仏としての寿命(菩提心)に限りが無いことをあらわし、 無量の空間(物理的・精神的な隔たりを越える)を『無量光仏』『無碍光如来』、 つまり如来としてのはたらきには、状況的な障りがないことをあらわしています。

> これをふまえて、阿弥陀如来や阿弥陀仏とは
> 真実に目覚めたもの、つまり釈尊のことですか?釈尊と阿弥陀仏は
> 同一のものですか?あと 阿弥陀如来の仏像や絵のモデルは誰なんです
> か?阿弥陀は姿、形がないし、色も無色透明だと聞いてます。
> やっぱり、モデルは釈尊?おしえてください!

 これはかなり奥深い質問になっていまして、 ちゃんと答えるには仏教の教学的な流れと、 仏像表現の流れを並列させて述べなければなりませんが、 ここではごくかいつまんで書かせていただきます。

◆ 釈尊と阿弥陀仏の関係

 まず阿弥陀如来と釈迦如来の関係ですが、 『仏説無量寿経 巻上 序分 発起序 出世本懐』に 以下のように顕されています。

善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の 弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。如来、無蓋の大悲をも つて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、 恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。

【意訳】(浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語版より)
 よろしい阿難よ、そなたの問いはたいへん結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。

 これは弟子の阿難が釈尊の光り輝くお姿に驚き、発せられた問いを受けたものです。 この後釈尊は、阿弥陀如来の成仏のいわれとして本願を説かれるのですが、 ここを浄土教学の完成者である親鸞聖人は、 『顕浄土真実教行証文類 教文類一 六句嘆釈』におきまして

しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ、 如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、 十方称讃の誠言、時機純熟の真教なりと、知るべしと

【意訳】(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語版より)
 すなわち、これらの文は、真実の教を顕す明らかな証である。まことに『無量寿経』は、如来が世にお出ましになった本意を示された正しい教えであり、この上なくすぐれた経典であり、すべてのものにさとりを開かせる至極最上の教えであり、速やかに功徳が満たされる尊い言葉であり、すべての仏がたがほめたたえておられるまことの言葉であり、時代と人々に応じた真実の教えである。よく知るがよい。

 とあり、また、『顕浄土真実教行証文類 行文類二 正信偈』には

 如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
 五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。

【意訳】(同上より)
 如来が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。
 五濁の世の人々は、釈尊のまことの教えを信じるがよい。

 と、味わっておられます。

 「仏教は釈尊から始まった宗教である」 というのは一般的な解釈ですが、 本質的に言いますと、釈尊独自のものではありません。 時空を越えて普遍的に証明される教えです。
 ですから、釈尊の教説の中に、釈尊個人の覚りに留まらず、 出家在家の別、男女の別、才能の別、国や時代の違い、 そうした垣根を越えて覚りを得さしめるものがなければ、 釈尊がこの世に生まれた意味は空虚なものとなってしまいます。

 この点を金子大榮氏は「口語訳 教行信証」の中で、

 愛情の動乱する生死海の底深く、善悪を是非する争いの世の彼方に、 佛佛相念の境地が感ぜられる。 その境地において佛たちは群生の救いの道あるに微笑み、 各々の法も一に帰することに頷きあいたまう。 これによりて諸佛の称名は弥陀の本願となり、 群生の信心は涅槃の真因となるのである。

と領解してみえます。

 宗教の本質は、私という有限の時空にある身が、 その有限性ゆえに苦悩することを縁として、 いかに無限の時空と関わっていくか、ということにあります。 仏教では、無限の中に個人が埋没し解消するのではなく、 無限のいのちの象徴を有限のこの身に証してゆく、 といういのちの方向性を一切衆生に示し、 自覚を得さしめてゆくわけです。

 阿弥陀如来の本願は、無限のいのちのほとばしりであり、 それは釈尊の覚りの本質でもあり、 釈尊の覚りを私たち一人一人に意味あるものに仕上げたものです。

 私たちは、そうしたをはたらきそのものを拝ませていただくわけで、 そこには釈尊と阿弥陀如来の別はありません。 ただ実際、浄土真宗や浄土宗の信徒が本尊として安置し、 拝ませていただく仏像(仏画)は、阿弥陀如来一尊なのですが、 それはそこに釈尊の覚りが完全な形で含まれているからです。

 教学として言うと、釈尊は応身で真実の法が個人の身に実現する姿であり、 阿弥陀仏は報身で、真実の法が歴史を貫いて顕現された姿となります。 阿弥陀仏の修行の場は全人類の胸の内であり、その永劫の修行の成果が報いた姿が阿弥陀仏なのです。

◆ 仏像のモデル

次に仏像表現の流れですが、 釈尊が完全な涅槃に入られて(亡くなられて)からしばらく(400〜500年間)は、 釈尊の遺徳は口伝の経典と、石塔や仏伝画で伝えられました。 そこでは釈尊は塔や菩提樹・法輪・法座・仏足跡などで象徴表現されていて、 人間の形をとって表すことはしませんでした。 これは信仰の対象が「仏舎利」中心であったためと思われます。

 やがて大乗仏教が起り、 釈尊個人ではなく、覚りの内容、法が中心になっていきます。 その影響でしょうか、突然のように西暦1世紀から2世紀にかけて、 ガンダーラ地方とマトゥーラ地方で仏像が製作され始めます。
 ちなみにガンダーラ地方の仏像はギリシャ彫刻の影響が顕著ですが、 マトゥーラ地方の仏像はインドの伝統的な芸術観が表出されています。 こうして一旦作られた仏像は瞬く間に仏教界全体に広がり、 礼拝対象として定着します。

 このように釈尊の肖像が残っていたわけでなく、 像制作まで数百年のブランクがあるわけですから、 仏像が釈尊の生き写しというわけにはいきません。 むしろ如来としての「覚り」そのものを表現しようとしていきます。 つまり人間の姿を基本にしながら、仏教の理想の境地の象徴として、 超人間的な表現を取ります。
 そのため、各地で独自に作られた仏像も、仏教哲理を下敷きとして 約100年の間に「三十二相」という規則によって定型化されていきます。

 「三十二相」とは例えば『大智度論』では――

  1. 足下安平立相[そくげあんびょうりゅうそう]: 偏平足で、立つと大地に足が密着する。(宿業の大地にしっかり足をつけている)
  2. 足下二輪相[そくげにりんそう](千輻輪相[せんぷくりんそう])
  3. 長指相[ちょうしそう]
  4. 足跟広平相[そくこんこうびょうそう]: 円く長いかかと。
  5. 手足指縵網相[しゅそくしまんもうそう]: 手足の指に水かきのような膜がある。(苦悩に満ちた世界を泳ぎ渡りきる。人々を慈悲のはたらきで漏れなく救う)
  6. 手足柔軟相[しゅそくにゅうなんそう]
  7. 足趺高満相[そくふこうまんそう]: 高い足の甲
  8. 伊泥延膊相[いにえんせんそう]: 腿が鹿王のように円く発達。
  9. 正立手摩膝相[しょうりゅうしゅましつ相]: 直立した時、手が膝をなでるくらいの長さがある。(慈悲のはたらきが遠くまでおよぶ)
  10. (馬)陰蔵相[めおんぞうそう]: (馬のように)平常は陰部が体内に隠されている。(智慧により性欲がコントロールされている)
  11. 身広長等相[しんこうちょうとうそう]: 身長と広げた両手幅が同等。(バランスのとれた人格)
  12. 毛上向相[もうじょうこうそう]: 身体の毛がすべて上向きに生えている。(菩提心・向上心に満ちている)
  13. 一一孔一毛生相[いちいちくいちもうそう]
  14. 金色相[こんじきそう]: 全身が微妙金色に輝いている。(全身が真心のかたまりで輝いている)
  15. 丈光相[じょうこうそう]: 身体の周囲に一丈の長さの光が輝いている。(徳が周囲におよぶ)
  16. 細薄皮相[さいはくひそう]
  17. 七処隆満相[しちしょりゅうまんそう]: 両手・両足・両肩・頭の肉が隆起。
  18. 両腋下隆満相[りょうえきげりゅまんそう]: 脇の下の豊富な肉。
  19. 上身如獅子相[じょうしんにょししそう]: 獅子のように堂々とした上半身。
  20. 大直身相[だいじきしんそう]: 端正な身体。
  21. 肩円満相[けんえんまんそう]: 豊かな肩の肉。
  22. 四十歯相[しじゅうしそう]: 四十本の歯。(物事をよく噛みしめる)
  23. 歯斉相[しせいそう]: よい歯並び。
  24. 牙白相[げびゃくそう]: 白く美しい犬歯。
  25. 獅子頬相[ししきょうそう]: 頬が獅子のように隆起。
  26. 味中得上味相[みちゅうとくじょうみそう]: すぐれた味覚。
  27. 大舌相[だいぜっそう]: 耳に達し、顔を覆うほどの長い舌。
  28. 梵声相[ぼんじょうそう]: すばらしい声。
  29. 真青眼相[しんしょうげんそう]: 青い瞳。
  30. 牛眼睫相[ごげんせいそう]: 牛のようなりっぱなまつげ。
  31. 頂髻相[ちょうけいそう]: 髻[もとどり]のように頭の頂上の肉が隆起している。(どこまでいっても頂上が見えない=智慧が量り知れない)
  32. 白毫相[びゃくもうそう]: 眉間に白毛が右旋していて、常に光を発している。(智慧が自然[ジネン]で、常に人々を照らしている)

という顕著な特徴が述べられ、また「八十種好」「八十随形好」という微細な特徴もあります。
(参照:{具足諸相の願}

 これらは当然、普通の人間としての表現ではなく、 特に大乗仏教の影響を受けたものですので、 釈尊は既に法身の表出として刻まれているのですが、 そうすると、仏教教理の必然として、釈尊以外の仏も無数に顕れてきます。

 その中で、最も人々を引きつけ、すぐれた姿を示されたのが阿弥陀如来です。
 阿弥陀如来による救済は、親鸞聖人以前はこの仏を観ずることが仏道の中心で、 『仏説観無量寿経 正宗分 定善 像観』には以下のように示されています。

 まさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の 心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すな はちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏な り。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきら かにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし

【意訳】(浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語版より)
仏を想い描くがよい。
 なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏になるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。
 まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけてはっきりと想い描くがよい。

 ではこの阿弥陀如来の特徴はどういうものかといいますと、 同じく『仏説観無量寿経 正宗分 定善 真身観』に その姿を見る方法と功徳が述べられています。

 無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ六十万億那由他 恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転して、〔大きさ〕五つの須弥山 のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明なり。身のもろもろの毛孔よ り光明を演出す。〔大きさ〕須弥山のごとし。かの仏の円光は、〔広さ〕百億の三 千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏ましま す。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に 八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好 にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏 の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさ に説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。こ の事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たて まつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切の仏身を 観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈 悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。この観をなすものは、 身を捨てて他世に諸仏の前に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を 繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。
 無量寿仏を観ぜんものは、〔仏の〕一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を観 じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八万四千の 相好、自然にまさに現ずべし。無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量 の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏 は現前に授記す。これをあまねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づ く。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観 とす

【意訳】(同上より)
 無量寿仏のお体は百千万億の夜摩天の黄金のようにまばやく輝き、その高さは六十万億那由他恒河沙由旬[なゆたごうがしゃゆじゅん]である。
 また眉間の白毫は、右にゆるやかにめぐり、その大きさはちょうど須弥山を五つあわせたほどであって、その目は四大海水のように広々としており、清らかに澄みきっている。
 またお体の毛穴から放たれる光明はまるで須弥山のように大きく、その頭の後ろにある円光の広さは百億の三千大千世界をあわせたほどである。
 その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになり、それぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそっている。
 また無量寿仏には八万四千のすぐれたところがあり、そのそれぞれにまた八万四千のこまかな特徴がそなわっている。
 さらにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。その光明やお体の特徴、そして化身の仏について詳しく説くことはとてもできない。ただ思いをこらし、心の目を開いて明らかに見るがよい。

 このように想い描くものは、さまざまな世界の仏がたをすべて見たてまつることになる。すべての仏がたを見たてまつるのであるから、この観を念仏三昧と名づける。
 また、この観を行えばすべてのほとけのおすがたを想い描くことになり、仏のすがたを想い描くのであるから、仏の心を見たてまつることになる。 その仏の心は大いなる慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべての人々を摂め取られるのである。

 この願が成就すれば、来世には仏がたの前に生れ、無生法忍を得ることができる。だから智慧のすぐれたものは心を一つにして、はっきりと無量寿仏を想い描くがよい。 そして無量寿仏を思い描こうとするものは、その仏の特徴の一つを想い描くことから始めるがよい。それにはまず、眉間の白毫をきわめてはっきりと想い描くことである。眉間の白毫を想い描くなら、八万四千のすぐれた特徴を持つおすがたがおのずから現れてくる。

 こうして無量寿仏を見たてまつるなら、それはすなはちさまざまな世界の数限りない仏がたを見たてまつることになる。さまざまな仏がたを見たてまつることによって、仏がたは目の前でさとりを得ることを約束してくださるであろう。このように想い描くのをひろくすべての仏のおすがたを想い描く相といい、第九の観と名づける。

 このように観ることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。

 このように天文学的なスケールで述べられた阿弥陀如来ですが、 そのまま像を刻むことは不可能ですので、 上記の釈迦如来像の延長線上に阿弥陀如来像を製作することになります。

 古くは敦煌壁画にも多数描かれていますが、 日本では奈良・平安時代に、盛んに阿弥陀浄土の再現をはかって製作され、 また比叡山における常行三昧堂による修行 (七日から九十日間、常に念仏を称え如来を念じる修行) も、大衆に広まることで、浄土教が信仰として確立していきます。

 鎌倉時代には山越阿弥陀来迎図のように山をしのぐ大きさを示したり、 臨終の来迎図のようなスピード感あふれる図像等が様々描かれますが、 やがて法然上人や親鸞聖人のお示しにより、阿弥陀仏との出会いが、 観仏の個人的な修行から、本願による自然法爾の信心に普遍化されていきます。

◆ 浄土真宗の本尊

 親鸞聖人の示された本尊は、聖道門的な浄土教の究極『真身観』でさえ仮の姿としてとらえられ、また「九品の浄土におわす」とされる阿弥陀仏も姿に差別があり方便化身で真実ではなく、ただ「善悪・賢愚のへだてなく救う」と誓われた本願力を信じせしめるはたらきのみを真実とみられました。そのため名号、特に十字名号を重視されていましたが、浄土真宗も歴史を重ねる中、信徒や寺院が増え、絵像や木像が必要となってきました。
 そうした形像を本尊とする際に教義の上において依りどころとなったのは、以下の『仏説観無量寿経 正宗分 定善 華座観 住立空中尊』です。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに 聴け。よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し 解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。こ の語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、こ の二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の 閻浮檀金色も比とすることを得ず。ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりを はりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、

【意訳】(同上より)
 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「そなたたちはわたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい」
 釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり。その左右には観世音・大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにはくらべようもなかった。ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができたので、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝して申し上げた。

 この部分がどうして重要かといいますと、罪悪深重のイダイケ夫人が、凡夫のまま釈尊の導きで「まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができた」のですから、これは「一切衆生を差別なく救う」と誓われた本願の現れであったわけです。そして夫人の「申し上げた」質問は、後の世の人が自力で阿弥陀仏を見たてまつる修行の方法を質問したのですが、普通の人(罪悪深重の凡夫)では適わない方法ですから、真実ではなく仮の方法だったわけです。

 こうした点について、梯實圓氏は「浄土真宗の本尊論」の中で、以下のようにまとめられています。

 浄土真宗の本尊は、弥陀一仏に帰命する一心一向の宗義に依って方便法身(真実報身)である阿弥陀仏一仏と定められているが、具体的には名号をもってその徳をあらわした名号本尊と絵像もしくは木像をもって仏徳を標示した形像本尊とがある。
<中略>
 形像本尊は、歴史的にみても、方便法身尊号たる十字名号の徳を形像化したもので、方便法身尊形(あるいは尊像)とよばれている。その形像の造像様式は、安阿弥(快慶)様の影響が強いようであるが、真宗の本尊としてそこに標示されている法義は臨終来迎の義意ではなくて、第十八願成就の方便法身のもつ摂取不捨という絶対無限の救済力のいわれである。その意味では『大経』の法義をあらわすというべきである。
 しかしこの仏を等足立像としてあらわすのは、『観経』の住立空中尊をかたどっているとみるべきである。それはどこまでも弘願(第十八願の法義)の教主であり、その姿は煩悩具足の凡夫を本として一切衆生を平等に救わんとする救急の大悲をあらわしており、善導大師は、それを立撮即行の相といい、大悲招喚の相とみられた・・・・・
<中略>
・・・・・一切衆生を善悪、賢愚のへだてなく、平等に摂取して捨てないという阿弥陀仏のいわれを形像化しているのが真宗の本尊である。したがって、その印相も「念仏衆生、摂取不捨」という阿弥陀仏の仏意を標示されていると領解すべきであろう。

 こうして浄土真宗の本尊としての阿弥陀如来像は、マムキ(正面向き)の立ち姿に集約されていきました。

浄土真宗の本尊の詳細については{阿弥陀如来像(仏像・絵像)は偶像か?}に掲載

仏の本質については{釈尊と阿弥陀仏の関係2(覚りの内容)}に掲載



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