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【平成モニター】

平成17年12月3日

耐震強度偽造問題と日本の伝統

自浄作用がはたらきやすい社会に

 参考人質疑を見て

「自分が全ての責任をとる!」
 前提としてこう述べておきながら、結局は責任逃れに終始する参考人質疑――11月29日に行われた衆院国土交通委員会における耐震強度偽造問題の審議は、業者側からは住民救済の具体的な提案は何一つ示されず、真相究明に関しても煮え切らない内容だった。特に逆切れして怒号を張りあげる小嶋社長の態度や、「現場のことは全く関知していない」とうそぶく木村社長の弁は印象的で、こうした無責任な言動に終始する人たちが組んでいたからこそこれほどの巨悪が野放しになっていたのだ、と解る。

 それにしても被害者住民の立場に立てば何ともやり切れない。「何の収穫もなかった」、「ますます疑心暗鬼になってしまった」と述べられる住民の方々の気持ちは察するに余りある。マンション購入は一生をかけた大きな買い物である。その一生の希望が打ち砕かれようとしている今回の偽造問題では、早急に救済策を示すことを第一とすべきだろう。なぜなら「怒りを通り越して、虚脱感さえおぼえた」と仰る住民の声が象徴するように、関係者らの無責任な態度を見続けているうちに、怒りを維持する力さえ失ってしまう可能性があるのだ。特に住民に過大な債務だけが残る「重畳的契約」だけは何としても避けたい。そのためには持続的な世論の支持も不可欠だ。

 私たちは社会との関連において、自らの欲望の充足のみを求めず、同朋精神を発揮し、互いに支えあって生きることを願っている。この基本を忘れてしまえば、偽造に手を染めた業者らと同じ罪を自分も犯すことになる。人は皆弱いところがあり、一つ間違えば自分も「無関心」という底なしの沼にはまってしまう。世間の注目を失った被害者ほど孤独な立場はない。犯罪が泣き寝入りになるのはこうした時だ。だからこそここで、権限を持っていたり公的な立場の者は積極的に救済措置を講ずるべきで、これは真相究明に先んじて行うべき最優先事項だろう。そして私たちには問題解決の過程を最後まで見届ける義務があるのだ。

 西岡常一氏の言葉

 建築施工に関して問題が起こった時、私が真っ先に思い浮かべるのは、斑鳩大工 西岡常一氏の言葉だ。全く世界が違うから比較にならん、と言われればそれまでだが、あえて今の偽造問題で揺れる世界と対比して味わってみたい。

 言葉は悪い言い方ですが、儲け仕事に走りましたら心が汚れるというようなことでした。そのために私らは田畑を持っておりました。仕事がないときは田畑をやって、自分と家族の食いぶちをつくれということだったんでっしゃろな。

依頼主が早よう、安うといいますやろ。あと二割ほどかけたら二百年は持ちまっせというても、その二割を惜しむ。その二割引いた値段で「うちは結構です」というんですな。二百年も持たなくて結構ですっていうんですな。<中略>もう目先のことばかり、少しでも早く、でっしゃろ。それでいて「森を大事に、自然を大切に」ですものな。

人の目を気にして「こんなもんでどうや」とか、「いっちょう俺の腕を見せたろ」と思って造るんですな。ところがそういうふうにして造られた建物にはろくなものがないんです。
 室町時代に入って道具が進歩してくると、そんな建物がぎょうさん出てきますのや。華美に走りますな。そのため構造が犠牲になります。

 私ら檜を使って塔を造るときは、少なくとも三百年後の姿を思い浮かべて造っていますのや。三百年後には設計図通りの姿になるやろうと思って、考えて隅木を入れていますのや。<中略>ですから私らだって完璧ということはないんです。じゃあ、どうするのかといいましたら、精一杯のことをするしかないですな。自分ができる仕事を精一杯する。これだけですわ。

 これは本・映画等の紹介、評論のコーナーで紹介した{木のいのち木のこころ(天)}という本に掲載されている西岡氏の言葉だが、儲け仕事に走り、目先のことばかり考え、構造を犠牲にして華美に走る私たちへの警鐘であり、対照的に「自分ができる仕事を精一杯する」日本古来の伝統の尊さを教えてくれている。

 二つの道

 拝金主義に走る現代の建築業者と、自分ができる仕事を精一杯する伝統の工人。この対比において、西岡氏ほどではないにしろ、目先の金より仕事の質を優先してきた伝統がついこの間までの日本にはあったはずだ。そして今もこの伝統は残っていると私は信じている。しかし昨今のマスコミはこうした面を認めず、「日本はずっと性善説でやってきたが、欧米のように性悪説でいくべきだ」という論に傾いている。「現実を見ろ。悪い奴らが一杯で、性善説に立った法律では抜け穴が多すぎる」という訳で、一々の事件を背景に述べればその論は説得力を持つ。

 確かに今の抜け穴だらけの法律では現状にそぐわない。早急に法整備を急いでほしいと願う。しかし極端から極端への移行もまた危険である。それに自然のことならいざ知らず、これは人間自ら造り出した社会の問題である。
 住民無視の業者が増えたのは自然現象ではない。因果応報の社会的必然で、人間によって現状が生み出されたのだ。ならば根本の因縁も変えなければならない。金のためなら何でもするような人間が増えたら、増えた現状を是として問題解決を図るのではなく、増えてしまった現状を第一に改革すべきだろう。特に教育の問題は重要だ。
 現在のように、個人主義と拝金主義を助長するようなカリキュラムばかり子どもに押し付ければ、確固とした社会性をもった大人が育つはずはない。本当は個人の生活も金銭も、互いの信頼関係の上に社会は成り立っているのである。そこには人間としての真心の基軸があり、この基軸を自覚的に身に備えることが大人になるということなのである。そう、あくまで自覚的に。ここにこそ経験で得た人類の宝が満載されているということに気付かねばならない。こうした一人ひとりの国民の自覚こそが国の宝であり、社会を維持する基盤なのだ。

 社会は人間や組織相互の信用なくしては成立しない。信用のないところに基点を置けば、社会を維持するための経費は膨大になり、やがて国は破綻してしまう。「人を見たら泥棒と思え」とばかり厳しい法律が次々造られれば、監視の網は密になり、生き生きとした人間関係も築きにくくなる。しかも自浄作用のない人や組織には耐性を与えるのみである。
 特に日本のような規模の国では、互いを拝みあい信頼を基礎とした社会でなければ継続的な発展は難しい。再来したミニバブルの美酒に酔い、冷ややかな自己責任論の果てに待っているのは、弱肉強食の畜生世界である。ここに見えざる手などという根拠のない力を頼る愚は犯すべきではないだろう。
 もちろん問題が起きてしまった場合の真相究明は必須である。後に撤回したとはいえ11月26日に武部幹事長が発言した「悪者捜しに終始するとマンション業界はつぶれ、不動産業界もまいってくる」と、人命より景気を優先した意見に賛成するつもりは毛頭ない。徹底究明しない方が長期的には景気が悪くなることくらい誰でも解る。これは国全体の信用問題に関わるからだ。

 仏教の人生観

 ところで、仏教では人間を性善説で語っているのだろうか、それとも性悪説で語っているのだろうか。これについては以前、{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか? }に書いた通り、本質としては「一切衆生悉有仏性」とあるように、尊い存在と観る事が正しい法である。これは人間の本質は仏であることを意味する。ただしこれは単純な性善説とは違い、悪を転じて徳となす力が人間の身に備わっていて、聞法を機に仏徳と浄土の徳が回向されることを示している。つまり人間は、常に自らと周囲の問題点を探り当てる智慧と、現状を改革する能力を持っている存在なのである。
 また「罪悪深重の凡夫」というのは「正機」、つまり自己認識としての話である。自らの存在の尊さが本当に自覚されると、尊さに奢る態度はくじけ、逆に罪悪深重の現状の姿が自覚される。この中から、至り届けられていた本来の尊い私を発揮したいとの願いが起き、底無しの無明の詳細を認識し、結果として無明が打ち破られるのである。これによって社会的にも自浄作用がはたらくことになる。
(参照:{至心信楽の願}

 今回の事件の底には一体どんな闇が隠されているのだろう。真相が明らかになった時のおぞましさは、知るのに覚悟さえ必要となるかもしれない。しかし人間は闇の深さも深いが、闇を明らかにし転じる智慧も頼もしく持っている。これは人間全体に具わる伝統の力といってもいい。この力をどこまで発揮できるかが、今の私たち日本人の文化程度を示すことになるだろう。

 最後も西岡常一氏の言葉でしめてみたい。

次の世代を担う人を育てるという使命感がなければあきません。それも口先だけやなしに心底から信じなくてはあきませんわ。

[Shinsui]

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