平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成19年12月15日
毎年恒例となった「今年の世相を表す漢字」(日本漢字能力検定協会)が12月12日に発表された。今年は90,816通の応募のうち実に16,550票(18.22%)と圧倒的多数で「偽」が1位に選ばれたが、この結果は多数のメディアでも予想されていたようだ。ちなみに、2位は「食」2,444票、3位は「嘘」1,921票、4位は「疑」1,848票、5位は「謝」1,844票。ネガティブな漢字がずらりと上位を占めてしまった。
確かに「偽」が目についた年だった。年金や薬害問題などに見られる政界や官庁の「偽」、食品の「偽」、給油量の「偽」、八百長や仮病の「偽」。2位以下の「食」「嘘」「疑」「謝」も同じ流れの中で選ばれた漢字であろう。さらに中国では、日米の「偽」有名キャラクターが使用され、ゲーム機wiiの「偽」物まで堂々と売られている。
しかしここまで否定的な漢字が並ぶと、逆に今年ばかりが「偽」の年だったのか?≠ニの疑問がわく。どの「偽」もよくよく見れば、今年になって初めて為された「偽」というものは少なく、むしろ昔から行われていた「偽」が今年になって発覚した≠ニいうケースがほとんどだ。中には、皆が疑心暗鬼になり過ぎたため過剰反応を生んだ事例もある。重箱の隅をつつくような攻撃は控えた方が良いだろう。
ところで 日本漢字能力検定協会 では、「今年の世相を表す漢字」の選定について――
毎年、全国公募により世相を表す漢字一字を決定することで、一年を振り返りながら、漢字一字に込められた奥深い意味を認識する機会を創出すると選出の意義を述べている。
- 【偽】11 『僞』14
- ギ・キ・カ(クヮ)
いつわる・うそ
形声 旧字は僞に作り、音符は爲<イ>(為)。為に*(女偏に爲)<ぎ>・譌<カ>の声がある。人為を偽とするのは後世の考えかたで、ものの変化することを偽という。
[説文]八上に「詐<いつは>るなり」、[広雅、釈詁<しゃくこ>]に「欺<ぎ>なり」とするが、[説文]二上*(口偏に化)<か>字条に「動くなり」とある*(口偏に化)はまた偽に作り、言部三上の譌はまた訛に作る。
偽はすなわち化、変化するの意をもつ字である。のち仮偽・偽詐の意となる。作為はもと詐欺と通ずる語であった。『字統』 白川静 (平凡社)より
- 【偽】(11)常用 人偏 『僞』(14)
- ギ(グヰ)(呉)(漢) (去)眞
- [常用音訓]
- ギ「偽作・真偽」/いつわる「偽る・偽り」/にせ「偽・偽物」
- [意味]
- @{動}いつわる(いつはる)。うわべを繕う。「偽作」「偽遊雲夢=偽りて雲夢<ウンボウ>に遊ぶ」[史記・高祖]
A{名}いつわり(いつはり)。うわべだけのみせかけ。うそ。「詐欺<サギ>・<サクギ>」「国中無為=国中に偽り無し」[孟子・滕上]
B{名}人間の作為。うわべのつくろい。「人之性悪、其善者偽也=人之性は悪なり、その善なる者偽なり」[荀子・性悪]
C{名}なまったことば。また、ことばのなまり。譌<カ>(=訛)に当てた用法。「偽言<カゲン>(=譌言。なまり)」- [解字]
- 爲(=為)の原字は「手+象の形」の会意文字で、人間が手で象をあしらって手なずけるさまを示す。作為を加えて本来の性質や姿をためなおすの意を含む。僞は「人+(音符)爲<イ>」の会意兼形成文字で、人間の作為により姿をかえる、正体を隠してうわべをつくろうようなどの意。爲(=為)が、広く、作為する→するの意となったため、むしろ偽にその原義が保存され、特にBの用法が為のもとの意味に近い。詐<サ>は、作為を加えたつくり事。
- [古訓]
- アヤマツ・イツハリ・(イツハル)・ウカス・ウコカス・ウコク・ソラコト・ハツ・マネク(観名)
『学研 漢和大辞典』 藤堂明保 編 (学習研究社)より
興味深いのは、「為」が人間が手で象をあしらって手なずけるさまを示す≠アとであり、また中国では「人間の作為」そのものが「うわべを繕う」と否定的に解釈されていたことである。
今や「象」といえばインドや東南アジア(アジアゾウ)もしくはサハラ砂漠以南のアフリカ(アフリカゾウ)にのみ生息する希少動物だ。しかしかつてゾウは世界中で生息していて、中国では宮殿建立や土木作業に使役されていたことが漢字からも読み取れる。人間はゾウをはじめ多くの動植物を利用し繁栄を築いたのだが、彼らに対しての報恩の志は極めて薄く、戦争の道具として利用(火をつけて敵軍に突進させる等)したり食用や象牙目的で乱獲を繰り返し、絶滅の危機にまで追い込んでしまった。
こうした恩を仇で返す≠りさまを鑑みると、「為」の漢字が「偽」となり「いつわる」意となったのは人間の業は嘘偽りに満ちていると弾じた見解≠ニするのは穿った見方だろうか。「人之性は悪なり、その善なる者偽なり」と云う荀子はその一つの例であろう。
ところで、仏教では「為」や「偽」の漢字はどう扱われているのだろう。
「為」で多用されるのは「有為」・「無為」で、「有為」は因縁和合によって生じた現象、「無為」は有為の現象を越えた常住普遍の存在を指す。真如・法性・法界・実相・涅槃なども「無為法」と表されている。さらに『仏説無量寿経』40(五善五悪)には「生死の苦を抜いて五徳を獲しめ、無為の安きに昇らしむ」とあり、これを「迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである」と訳す通り、「無為」は「浄土」の意まで含んでいる。
ただし「無為」で気をつけなければならないのは、老子の説にある「無為」と混同すると仏教の徳が見出せなくなってしまうことだ。人間社会全てが嘘偽りなのではない。嘘偽りが多い社会の中でこそ、その嘘偽りに辛苦し悲嘆する心も同時に生まれてくるのだ。「嘘偽り」という言葉自体「嘘偽り」の中からは生まれてこないように、「嘘偽り」を離れた何か≠フ働きがあってはじめて「嘘偽り」を告発することができる。偽りを偽りと見抜き、真実の生き方を願って立ち上がる、その根もやはり人の世の深きより貫かれているといえよう。これを仏性とも菩提心とも言い、人生の依りどころとして回向され行者の身に満ちてくる。この身に満ちた指針は世の深きにある。仏教で言う「無為」はこの深きであり、「有為」は浅き心であろう。
(参照:{自然と社会と仏教の関係}、{「自然法爾」とはどういう意味ですか?})
さらに言えば、「偽」は仏教でも「いつわり」という意味で用いられている。「虚偽」、「邪偽」、「機偽多端」(巧みに悪事をはたらく)、「人民諂偽」(人々は偽りが多くなる)等の用法が基本だ。また「真の言は偽に対し仮に対するなり」(『顕浄土真実教行証文類』84)と、「偽」は「真」の対義語として用いられている。しかし対義語というのは、元の語と別に存在するものではない。むしろ双方が照らしあって互いを明らかにしてゆくものだ。ならば、「偽」明らかなれば「真」も明らかとなる。そして「真」が明かされてこそ「偽」も明かされる。
余談だが、福田康夫首相は11日、今年の世相を表す漢字として「信」を挙げた。信頼と信義が重要という意味だろう。しかし首相が「信」を強調すればするほど対義語の「疑」が背景に浮かんでくるのが悲しい。信と疑、互いに映しあう中でどちらが本質となってくれるだろうか。
翌12日、「今年の世相を表す漢字」はやはり「偽」であった。これは誰もが認める日本の現状だろう。しかし「偽」は「偽」のみで成り立ってはいない。「真」があってこその「偽」だ。今年が「偽」の年であったということは、むしろ社会の深きには「真」が宿っている証拠でもある。それは私たちの存在の深きより貫いている「願い」であろう。今後は、この深き願いが顕現する年としたいものである。
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