ヨーロッパにおいて浄土真宗がどのように理解されてきたのか、またどのように誤解されてきたのか、その本質まで迫るためには、信心を自らの生活としたヨーロッパ人自身の実際の声を聞かねばならないだろう。
以前『十字架から芬陀利華へ』という本を紹介したが、『私の浄土真宗』も、まさにそうした声を代表するものであり、博士の力強い明確な教学理解は、私たちの信心にも大きな恵みをもたらすものとなっている。
◆ 私の信心
本書は1997年に来日されたペール博士の講演3篇を収録したものだが、最初は博士自身の宗教遍歴が語られる。
西洋文明に疑惑を持っていた博士は、東洋の思想に出会い、荘子の思想からやがて仏教に興味を示してゆく。しかし当時のヨーロッパでは仏教の思想を学ぶ機会は少なく、わずか小乗仏教(テーラヴァーダ)の宗派が存在するのみであった。さっそく帰依したもののすぐに満足できなくなり、パーリ語や梵語を学んだ上で大乗仏教に興味を移してゆくことになる。
大乗仏教の中でも華嚴の高邁な教理には心を打たれ、今では教える立場の「私自身しばしば驚かされます」と語る博士だが、「このような華嚴の理念を実際に適用する方法を知り」得ず、縁があって浄土真宗に改宗した親友と侃侃諤諤の議論を戦わすことになる。そして、朝日が昇る頃――
即座にこれこそが私が長年探し求めていた信心だと分かりました。それは小乗や華厳すらも超えたもので、まさしく親鸞聖人によって示された浄土真宗だったのです。
こうしてさっそく帰敬式を受け、その後得度。アントワープに慈光寺を設けます。
ヨーロッパと日本は仏教をとりまく環境が全く違うため、信者にとって「普通耳にする大事な点とはかなりかけ離れたものである」ことを前置きし、浄土真宗にとって重要なポイントを博士はいくつか列挙している。
- 宗教的な修行が無益なこと。私共の自力は役に立たず、私共の過去からのカルマ(業)が余りにも強いので、自分の力だけでは実際、精神的な自由を得ることが出来ません。このような結論は私共の生活と世界観を単純化してくれるでしょう。さらに、私共は瞑想的・非瞑想的な修行や規律を気にすることなく普通の在家の生活を送ることが出来ます。
- 信心の強調。人生はあるがままで、この人生の底に光明と生命であるところの阿弥陀仏の智慧と慈悲があり、それが私共の心に深く語りかけていて、そこで念仏となっている阿弥陀仏の呼び声を聞くことができます。
- 浄土に往生することは、環相回向でこの苦しみの世界に帰ってきて他の人々が往生出来るように助けることになります。ヨーロッパの大多数の真宗教徒にとって、この教えはキリスト教の愛と恩寵の考えよりはるかに優れたものです。
- 感謝の重要性。阿弥陀仏の大悲に対する感謝、私共凡夫に存在の不安と絶望からの解脱の道を説かれた親鸞聖人に対する感謝、私共の先生や両親に対する感謝、実際には私共がその構成分子でありまた私共の一部分でもある全世界に対する感謝の気持ちが大切です。
特に「無神論的で人間味のある精神性を求めて」いるヨーロッパの人々には、こうした点が関心をあつめており、特に「今」「ここでの」救いが重要であると述べている。
信心こそが信仰生活での最も大事な面であり、事実、往生そのものよりも大事です、往生はいわば自然に付き随って来るものです。信心は、たとえ私共が罪業の凡夫のままでも、阿弥陀仏の智慧と慈悲の心に参入することであります。
これはヨーロッパ人が長年苦しめられてきた「不確かな死後の岐路」に対する囚われ、つまり「天国や地獄、罪に対する懲罰と善い行いに対する恩寵」から解放される教えであることを示している。
◆ 瑞劔師とヨーロッパの真宗
ヨーロッパで浄土真宗が大きく育つようになるためには、今後も様々な活動を通して日本からの支援が必要となるだろう。そのさきがけともいえる重要な一人が「稲垣最三瑞劔法師」で、本書には博士が師の十七回忌に語った記念講演の様子も収められている。
瑞劔師の功績は多岐に渡るが、特に「ヨーロッパの仏教徒にとって分かりにくい比較宗教や宗教相互の関係を明確に示すことになる」論文が数多く発行され、日本においても「法雷の教えを真摯な気持ちで受け継ぎ、後世に伝える努力」が継続されている。師の言葉は「いつも簡明で単刀直入で」あったため、教えが直接、相手の心に衝撃的に伝わるのだと述べられている。
瑞劔師は「阿弥陀仏は本願力である」という事実を強調されました。弥陀は天地創造の神でもなければ裁きの神でもありません。このような神は多くの人道主義者が拒んでいる考えです。<中略>慈悲の働きであり、本願力そのものであります。
<中略>
[親鸞聖人や蓮如上人や]瑞劔師は、私共の生活の中で六波羅蜜を努めて行うようにする必要を強調しておられますが、これはその報酬を求めるものではありません。
<中略>
人生のあらゆる瞬間の底に弥陀の智慧と慈悲の自然法爾があり、それは私共の心の底より呼んでいる無限・無礙の光明と生命そのものであります。私共の聞くこの呼び声が念仏です。
人を通して、善知識を通して伝わってゆく尊いみ教えを仰ぐこと、これこそが信心の喜びであると再認識される。
◆ 浄土真宗とキリスト教
仏教理解のため、一見プラスに見えて、実は大きなマイナスを招く考え方に、「浄土真宗とプロテスタントには類似性が多く見られる」とする見解がある。これは日本人にとって、宗教の相互理解に結びつきそうな、ある種希望を含んで語られるの場合が多いのだが、根本的な相違を忘れてこの論を推し進めてしまうと、双方に誤解を招くことになり、結局自らの拠って立つ場さえ見失ってしまう危険を孕んでいる。
ペール博士のように、キリスト教文明に絶望して仏教に生きる道を求める者にとっては特に深刻で、博士も一旦は浄土真宗の教えを拒否した過去がある。
そうした経緯をふまえ、最後の項では、浄土真宗とキリスト教の相違点について詳説している。例えば――
等、特にプロテスタントとの相違については踏み込んで語られている。
そして浄土真宗の重要な教義である『環相回向』については、弥陀の慈悲が個人を超えた普遍的絶対的であることの顕れであるとして、印象的な言葉を述べている。
キリスト教の天国は非常に個人的なものです。それは静的な永遠の幸福の状態と言われ、そこでは至福に浸った魂がこの世の苦しみから完全に切り放されています。
これは仏教徒が浄土の安楽な状態を考えるのとは違っています。事実、他の衆生が迷いの世界でまだ苦しんでいるのに、どうして自分だけが幸せでありえましょうか。
浄土は、苦しみと迷いの世界からの逃避ではありません。阿弥陀仏の救済活動に参加することを意味します。
親鸞聖人は、西洋人である私の心を打つ重要な考えを私共に示されました。それは娑婆世界に戻ってくるという環相回向の考えです。
これは信心の人に課せられた重大な使命です。自分で不動・不死の快楽を楽しむのではなく、自分が救われた後に、総ての衆生を救うために弥陀の願力の救済活動に実際に参入することであります。
キリスト教では、神の愛をよく語りますが、真宗で言う普遍的で差別のない全衆生のための、また全衆生に通じた救済はありません。
さて、先に「ヨーロッパと日本は仏教をとりまく環境が全く違う」とペール博士が力説していることを書いたが、確かに日本には千年以上の仏教の歴史があり、欧米の環境とは全く異なる場に居ることを感じる。だが今後の日本を考えると、そう楽観的ではいられないはずだ。家庭や教育環境の崩壊、地域社会の連帯感の希薄化等、仏教を伝えてきた土壌が変質している以上、教学や組織の再編成も必要となってくる。
しかし、危機感が希薄な日本の寺院からでは、中々改革案も浮かんでこない気がする。そうした際、宗教的に厳しい環境のヨーロッパに目を向けるのは時期尚早であろうか。本書を読むと、日本の浄土真宗を改革する新たな風がヨーロッパから吹いてくる日も近いと期待されるのだが・・・