今や、<余命幾ばくもない頑固爺>を演じさせたら、日本、いや世界でも三國連太郎の右に出る者はいないだろう。彼の演じる小椋伸一郎の生きざまを核に、五木寛之原作のエッセイ集「大河の一滴」が映画化された。また、このHPでも紹介した『他力』の英語版(TARIKI)の出版も成り、日本人を縁の下から支えてきた精神文化について、世界に発信する機会が整ってきたといえる。
しかし問題は、自分たちが自分たちの足元に根付いていたものを見失っていることだろう。この映画は、そうした市井に生きる人々の<平凡な強さ>に目を向けさせる内容となっている。
小椋雪子(安田成美)は輸入雑貨店で働く29歳のOL。商品の買い付けに世界中を飛び回っていた。そうした折、ロシアで出会ったガイドの青年ニコライ・アルテミコフ(セルゲイ・ナカリャコフ)から電話が入る。トランペットのオーディションを受けに東京に来ているというのだ。雪子は彼の奏でる音色に惹かれたが、オーディションには落ち、結局オーケストラに入れなかった。
そんな折り、父の伸一郎(三國連太郎)が倒れた、という知らせが届く。急いで金沢へ帰省した雪子と母の麻梨江(倍賞美津子)は、幼なじみの榎本昌治(渡部篤郎)の助けを借りて伸一郎を病院に連れて行く。検査の結果は肝臓ガン。「このままでは長くて半年」との宣告を受けるが、伸一郎は手術を拒否する。
東京に戻った雪子は、店の倒産を目の当たりにする。経営者の川村亜美(南野陽子)が恋人に店の運転資金をつぎ込んだ挙句裏切られたのだ。雪子は東京での仕事をあきらめ、金沢に戻ることにした。
死の宣告を受けても伸一郎は平然と快気祝いを催し、皆にガンを告白。そんなある日、亜美が金沢まで訪ねてくる。飲みながら雪子に気持ちを打ち明けると、その夜彼女は自殺してしまった。
雪子は金沢フィルでトランペットのオーディションがあると聞いてニコライを呼び寄せる。そして加賀友禅の工房をしている昌治の家に居候させる。昌治は雪子に振り回されつつ暖かく見守っているが、母のチヨ(馬渕晴子)は憤りを隠せない。
ある日、伸一郎は雪子とニコライを誘って温泉旅行に行くことにした。風呂から上がった伸一郎は、終戦時にソ連の収容所で過ごした体験を語り始める。二人は狂気と不思議に満ちた話に心動かされる。
年が明け、ニコライがオーディションを受けているちょうどその時、伸一郎は最期の時を迎えた。ニコライは合格したが、ビザが期限切れのため本国に送還されてしまう。伸一郎の葬儀を終えた雪子は、昌治に「ニコライを愛している」と打ち明ける。その上「一緒にロシアに行ってほしい」と頼むのだ。
チヨに「金沢中の笑い者じゃ」と言われながら、昌治は雪子の頼みを聞いて共にロシアに旅立つ。密かに雪子を想う気持ちを抱いて・・・。
不思議に思うのだが、私は五木寛之氏の作品にふれるといつも、大いに賛同するとともに、必ずある種の反発も感じる。氏の発する極端にネガティブな視線からは、それゆえ光明が見出されたり、逆にどうしてもその場を立ち去りたい気分も味わうのだ。
この映画も、やはり二つの感想が私の中で入り乱れている。
つまり、<最初は期待していなかったが、どんどんのめり込んでいってしまった>という部分と、<どこか素直に感情移入できなかった>という部分がある。ただこれは、どちらが大きいか、という問題ではななく、こうした中途半端な気持ちだからこそ、ひとつひとつのシーンが深く心に刻み付けられている、ということが重要なのだ。そしてその中で、登場人物たちの表情が今も私を激しく揺さぶっている。
小椋伸一郎(三國連太郎)に見る古い人間像は、おそらく五木氏の気持ちの多くを投影しているだろう。人間の<生臭さ>が頑固な生きざまに漂っている。
伸一郎は平凡であることを誇りにして、周りの人々に迷惑をかけながらも「自分の信念で生きるんだよ」というメッセージを残す。孤独に自殺した亜美の遺骨も、家の墓に納めるように勧める優しさを持ち、金沢ならではの大きい仏壇(真宗大谷派仕様)に手を合わせる。ちなみに欧米で関心を引いたのはこの大きな仏壇で、「家庭に礼拝所があるのか!」と驚かれたそうだ。考えてみれば、家庭に仏壇があることは凄いことで、日本の伝統の中で最も誇りにしていい文化のひとつと言えるだろう。
また臨終の場面は圧巻だったが、それは三國氏がごく平凡な死を見せてくれたからだ。映画史に残る臨終シーンとなった。
榎本昌治(渡部篤郎)は、伸一郎と同じ、平凡な人間がもつ強さと包容力を持っているが、それは傍目には随分じれったく見える。私が同じ状況だったら、とてもロシアには行かない。こうした優柔不断とも取れる行動は、おそらく、もし雪子と結ばれることになっても変わらないだろう。元気よく飛び跳ねる女性に平凡で落ちついた男性、という関係は、古い家庭では、ひんしゅくを買うことになるかも知れない。しかし男の本当の芯の強さはこんなところにあるのかも知れない。
川村亜美(南野陽子)の役どころは、いわゆる「純粋で善い人間」である。これは原作のエッセイ集『大河の一滴』(幻冬舎)に――
私には心のなかに深く押し隠しているものがある。そうではない、という声がいつもどこからかきこえてくるのだ。悪いやつが生き残ったのさ、善い人間はみんな途中で脱落していったじゃないか。そのことを忘れたのかね、と。と書かれているところの「善キ者」であろう。
<中略>
「善キ者ハ逝ク」
この世にしぶとく生き残ってきた者は、すべて「善キ者」たちの死によって生きながらえている罪深き者なのだ、という気がしてならない。[滄浪の水が濁るとき・「善キ者ハ逝ク」という短い言葉]より
それに対して、主役である小椋雪子(安田成美)の天真爛漫な行動は、逆に様々な矛盾を含んでいる。一人では行動できないくせに、平凡を嫌い、人の心を踏みにじる<ど厚かましさ>も持っている。
こうした女性に心惹かれたら、男としては散々振り回されるだろう。彼女の迷走度はそのまま他人への依存度となり、挙句に人を軽々と傷つける。しかしそうした行動が雪子の魅力になっていることも事実で、いずれチヨとの全面対決が待っていると想像されるが、案外<怒涛のがぶり寄り>で軽々と乗り切っていくかも知れない。彼女こそ極限状態でも「人よりつよいエゴ、他人をおしのけてでも生きようという利己的な生のエネルギー」によって生き残るタイプといえよう。
ロシア人のニコライ・アルテミコフ(セルゲイ・ナカリャコフ)がなぜこのドラマに絡んでくるのか、という疑問は、やはり原作を読むと分る。
ソ連軍の占領下の数ヶ月、そこで起こったさまざまのドラマティックな出来事は、いまだ思い返すたびに腹のなかから熱いものがこみあげてくる感じがします。
ソ連軍の兵士というのは、なんと野蛮な、なんと無教養な、なんと残酷な連中だろう、という恐れと、そして憎しみを心の底で抱くのは当然でしょう。
ところが、不思議なことに、ロシア人は妙に人なつこくて、のんきで、おもしろいところがある。
<中略>
・・・ロシア人とはいったいなんだろう、あんなに残酷で非人道的なことを平気でやりながら、彼らがうたうあの歌はいったいなんだ、どうして彼らにあんな美しい歌がうたえるのか、音楽というものは必ずしも、美しい魂やすばらしい人間性だけに宿るものではないのだろうか、という不思議な疑問です。[ラジオ深夜一夜物語・黄金時代を遠く離れて]より
この一節がドラマと重なり、ニコライも「アフガニスタンでの戦争で父を亡くした」と語る。「戦争は誰も幸せにしません」――ぽつりと言う台詞が泣かせるが、セルゲイは本当は日本語は全くできず、単に日本語を「音」として暗記していただけなのだそうだ。まあ、別の意味ですごいですな。
また、彼の吹くトランペットは、そのままこの映画のテーマ曲となって響き渡る。何せ天才美青年トランペッターが日本海の荒波をバックに奏でれば、それだけで絵になる。雪子が心惹かれるのも無理はないのだ。