[index]    [top]
【本・映画等の紹介、評論】

他力

五木寛之/講談社


 著者の五木寛之氏は以前「北陸に住んでいたためか蓮如上人を身近に感じる」と述べていたことは私も知っていたが、例えば『蓮如−われ深き淵より−』や『大河の一滴』を読むと、その理解の深さが偲ばれ、単に「影響を受けた」程度の出会いでなかったことがわかる。
 そしてこの『他力』では、完全に宗教の世界に踏み込んで、そこから「現代の救い」という難問を正面から見つめていく。語り口は優しいし、本当の希望が湧いてくる書ではあるが、その指し示す未来像は、決して生易しいものではない。

 影響を受けた三人の言葉

 著者は法然上人、親鸞聖人、蓮如上人について、
「難しいことをやさしく」、「やさしいことをふかく」、「ふかいことをひろく」という、三つのおおきな働きによって日本仏教は、日本人の心に長く定着することとなります  [「やさしく」「ふかく」「ひろく」]
という表現で、『他力』という「とらえにくいが大きなはたらき」を、人々に知らしめた業績をたたえている。また自分自身への影響も、
 難儀な人生を、なんとか投げ出さずに生きていく力を、その三人からあたえられているように思うのです  [私を支えてくれた三人の言葉]
と受け取っている。
 そして三人の教えの特徴については、
 法然の教えの中で、私がもっとも感動するのは〈易行往生〉ということです。そして親鸞の場合は〈自然法爾〉という言葉です。有名な〈悪人正機〉説よりも、はるかに深いものを感じるのです。そして蓮如については〈他力本願〉というところに惹きつけられるのです  [私を支えてくれた三人の言葉]
と述べられている。
 特に親鸞聖人について〈自然法爾〉の方が〈悪人正機〉説より深い、との指摘は重要で、私も「悪人正機説は親鸞の思想深化の一過程に過ぎない」と見ている関係上、個人的に多いに拍手を送りたいと思う。
 このようなことが、前半に述べられてはいるが、全体を通して感じられる「他力」の理解が蓮如上人寄りなのは、いかにも五木氏らしい。その理由は本人が述べているように、仏法を『耳学問』として学び、『お話』として聞いたことによるためであろう。

 『他力』の理解

 五木氏の仏法理解の特徴は『他力』を常に活動体としてとらえていることである。
「南無阿弥陀仏」と、念仏する。それは仏の前にぬかずいて、あなたを信じます、と誓うことではない。これまでの自分を捨てようとがんばることでもない。そうせずにはいられない、というところへ人はおのずと引き寄せられるのだ、と考えるのです  [向こうからやってくるもの]

 また、常なる努力のうちにも他力のはたらきがあるという事実について、
 死にもの狂いで人事をつくそうと決意し、それをやりとげる。それこそ〈他力〉の後押しがなければできないことです。そう考えれば、自分が〈自力〉にこだわるのが滑稽にさえ思えてきたのでした  [人事をつくすは、これ天命なり]
と述べられ、大きな事業を成した人には、必ず他力の後押しの感覚を受けた事がある事を多数引用している。
 そして他力の視点から、現代の「画一的な標準」という思想の批判にも及ぶ。
 高光大船という真摯な念仏者でみんなから尊敬されていた人物が北陸にいましたが、彼の言葉で印象的なのは、自分は人のお手本にはなれない、だけど見本ぐらいにはなれるだろう、という言い方でした  [人のお手本にはなれないが見本にはなれる]

 手本は「習わせる標準」となり、押し付けになってしまうが、見本であれば、見る人に任せられる。また手本になろうとすると無理が生じるが、見本であれば互いに変に取り繕う必要も無くなってくる。ただしこれは『他力』という視点があってはじめて気付く事であろう。

 魂の焦土が展開

 過去の話を聞くのはある種心地よい。ただ、現に今を見つめると、その論調は厳しさをみせざるを得ない。例えば今盛んに叫ばれている「プラス思考」という思考転換について、
 これまで言われてきたプラス思考と呼ばれているものは、じつは安易な楽観主義であり、漠然とした希望であって、本当に生きる力になるようなものとは思えません。  [本物のプラス思考は、究極のマイナス思考から]
と、現実の悲惨な状態を直視する勇気を持つ事をすすめ、むしろマイナス思考から出発するべきではないかと提唱している。
 五木氏がここまで「マイナス思考からの出発」にこだわるのは、単に仏教がそういう思想である、という解釈によるものではなく、自身の体験――朝鮮半島で終戦を迎え、全財産を失いパスポートも持たずに難民暮らしをした――からおのずと身についたものであった。
 帰ってきた人間は、帰れなかった人たちの死の上に、生き残って日本の地を踏むことができたと言えるでしょう。そして非常にエゴが強く、他人を押しのけてでも生きていこうとする生命力と業の強い人間だけが、辛うじて生きて帰ってきた。善良な心優しい人間は、黙って倒れていったのです  [「わがはからいにあらず」というつぶやき]

 そうした、ぎりぎりの体験から得られた直感は、今後の日本の動向について、かなり悲観的な見方をしている。
「旧都荒れ果て、新都いまだならず」という状態がかなり続くと思われます  [二十一世紀は大乱世、人心荒廃の大転換期]

 こうした脅かしのような言動によって、最近は「オオカミ爺さん」の異名をとる五木氏だが、最近のインタビュー記事(AERA)では「俺は同じ歌をずうっと歌ってきただけ。こんな『暗い』本(大河の一滴)、十年前なら十分の一も売れなかったのに・・・」と淡々と言ってのける。

 蓮如のいない宗教界

 こうした視点は、当然、現在の宗教界の体たらくについても、鋭く迫る。
 蓮如は、惰眠をむさぼっている既成の教団と戦い、一方で新しく起こっているカルト教団と正面から対決したわけですが、それは大変な戦いでした  [危機の時代に噴火するエネルギー]
 いまの日本の宗教界に蓮如のような人物がいないことがさびしく思えるのは、私だけでしょうか。いま、ひとりの蓮如がいれば、「既成教団はいったい何をやっているのだ」と批判するだろうし、また、上九一色村に行って、先頭に立ち、全勢力を挙げてオウム真理教と戦ったはずです  [先見性のある宗教家]

 この「既成教団はいったい何をやっているのだ」との批判は、蓮如上人の流れを汲む私たちこそ、重く受け止めなければならない言葉であろう。
 今後の日本が、世界が、この「オオカミ爺さん」の直感どおり大混乱期を迎えるのか、それとも単なる危惧で終わるのか。どちらにしても大衆は今「もう誰も信じられない」という混沌とした心理状態になっている事は確かで、既成宗教の惰眠とカルト宗教の横暴がそれに拍車をかけていることも事実だ。

 しかしである。こうした究極のマイナスの思考も、徹底して覚悟を決めてしまえば、そこから何かしら軽やかな心地が生れる。読後の不思議な開放感は、内容の重さに反比例してさわやかでさえあった。

[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)