著者の五木寛之氏は以前「北陸に住んでいたためか蓮如上人を身近に感じる」と述べていたことは私も知っていたが、例えば『蓮如−われ深き淵より−』や『大河の一滴』を読むと、その理解の深さが偲ばれ、単に「影響を受けた」程度の出会いでなかったことがわかる。
そしてこの『他力』では、完全に宗教の世界に踏み込んで、そこから「現代の救い」という難問を正面から見つめていく。語り口は優しいし、本当の希望が湧いてくる書ではあるが、その指し示す未来像は、決して生易しいものではない。
◆ 影響を受けた三人の言葉
著者は法然上人、親鸞聖人、蓮如上人について、
「難しいことをやさしく」、「やさしいことをふかく」、「ふかいことをひろく」という、三つのおおきな働きによって日本仏教は、日本人の心に長く定着することとなります [「やさしく」「ふかく」「ひろく」]という表現で、『他力』という「とらえにくいが大きなはたらき」を、人々に知らしめた業績をたたえている。また自分自身への影響も、
難儀な人生を、なんとか投げ出さずに生きていく力を、その三人からあたえられているように思うのです [私を支えてくれた三人の言葉]と受け取っている。
法然の教えの中で、私がもっとも感動するのは〈易行往生〉ということです。そして親鸞の場合は〈自然法爾〉という言葉です。有名な〈悪人正機〉説よりも、はるかに深いものを感じるのです。そして蓮如については〈他力本願〉というところに惹きつけられるのです [私を支えてくれた三人の言葉]と述べられている。
「南無阿弥陀仏」と、念仏する。それは仏の前にぬかずいて、あなたを信じます、と誓うことではない。これまでの自分を捨てようとがんばることでもない。そうせずにはいられない、というところへ人はおのずと引き寄せられるのだ、と考えるのです [向こうからやってくるもの]
死にもの狂いで人事をつくそうと決意し、それをやりとげる。それこそ〈他力〉の後押しがなければできないことです。そう考えれば、自分が〈自力〉にこだわるのが滑稽にさえ思えてきたのでした [人事をつくすは、これ天命なり]と述べられ、大きな事業を成した人には、必ず他力の後押しの感覚を受けた事がある事を多数引用している。
高光大船という真摯な念仏者でみんなから尊敬されていた人物が北陸にいましたが、彼の言葉で印象的なのは、自分は人のお手本にはなれない、だけど見本ぐらいにはなれるだろう、という言い方でした [人のお手本にはなれないが見本にはなれる]
これまで言われてきたプラス思考と呼ばれているものは、じつは安易な楽観主義であり、漠然とした希望であって、本当に生きる力になるようなものとは思えません。 [本物のプラス思考は、究極のマイナス思考から]と、現実の悲惨な状態を直視する勇気を持つ事をすすめ、むしろマイナス思考から出発するべきではないかと提唱している。
帰ってきた人間は、帰れなかった人たちの死の上に、生き残って日本の地を踏むことができたと言えるでしょう。そして非常にエゴが強く、他人を押しのけてでも生きていこうとする生命力と業の強い人間だけが、辛うじて生きて帰ってきた。善良な心優しい人間は、黙って倒れていったのです [「わがはからいにあらず」というつぶやき]
「旧都荒れ果て、新都いまだならず」という状態がかなり続くと思われます [二十一世紀は大乱世、人心荒廃の大転換期]
蓮如は、惰眠をむさぼっている既成の教団と戦い、一方で新しく起こっているカルト教団と正面から対決したわけですが、それは大変な戦いでした [危機の時代に噴火するエネルギー]
いまの日本の宗教界に蓮如のような人物がいないことがさびしく思えるのは、私だけでしょうか。いま、ひとりの蓮如がいれば、「既成教団はいったい何をやっているのだ」と批判するだろうし、また、上九一色村に行って、先頭に立ち、全勢力を挙げてオウム真理教と戦ったはずです [先見性のある宗教家]
しかしである。こうした究極のマイナスの思考も、徹底して覚悟を決めてしまえば、そこから何かしら軽やかな心地が生れる。読後の不思議な開放感は、内容の重さに反比例してさわやかでさえあった。