平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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1959年に日本に留学し、台湾独立運動に参加。パスポートを破り捨てて厳しい生活を選んだ金美齢女史が、「甘えの抜けない日本」を憂い、苦言が呈されているのが本書である。内容にややまとまりを欠いているが、直言は切れ味が鋭い。
◆ 国に手あつく保護されていながら感謝しない人々
以前紹介した『希望の国のエクソダス』(村上龍 著/文藝春秋)が、報道で大きく取り上げられ、ベストセラーになっている現状に呆然となったところから話は始まる。
特に「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」というくだりには、
・・・何でも国から与えられることに慣れてしまった日本人は、希望さえも与えられるものだと思っているのだろうか。と、猛反論をみせる。
<中略>
私に言わせれば、何でもあるということは、客観的に見て希望を持ちやすい環境にあるということである。
何でもあるという環境に感謝して、それを前提にして、どう活用して、自分の人生を築き上げていくかという問題を解決するのは、他人ではない、ほかならぬ自分なのである。そのことをよく認識してほしいと私は思う。
そうでなければ、次の世代が苦しまないようにと、営々と「何でもある国」を目指して努力してきた先人たちにも失礼である。[はじめに 11頁]
著者が先の本をどこまで読んだのかは不明だが、確かにこの一文だけを大きく取り上げると、そういう甘えの体質が浮き彫りにされてしまうだろう。また国という問題には大きく頁を割いてその大切なことを力説している。
たとえば、戦後教育を受けた最先端の世代である団塊の世代が言うことが多いのだが、彼らは国なんかなくてもいいと言う。地球全部が、世界が自分の国だと思えばいいと言うのである。彼らが好んで使う「地球市民」である。それは長年国を持たずに独立運動を支えた経験から導き出された言葉であろう。[第3章 103-104頁]無責任な一部の日本人は、やってみたこともないくせに、口先ばかりそんなことを言う。もし、やってみる勇気がないのなら、せめて想像力を働かせて考えてみてほしい。ちょっと想像すればわかるはずのことである。そもそも「地球市民」と名乗って外国が受け入れてくれるのなら、私もぜひあやかりたい。
<中略>
国に保護されて生きているのに、そのことにまったく気づいていない。保護を拒否して外国へ行くことは、生存の危機に瀕することもあるということがわかっていない。こうした人々は、親に保護されていることがわかっていない子どものようなものである。[第3章 105-106頁]
私にはかつて国がなかった。国がないということを体験しているから、国というものがどれほど大切かということが切実にわかる。日本人は、そうした体験をしていない。おそらく、日本人にとって、国とは空気のようなものなのではないだろうか。
空気がなければ、私たちは生きていけないのに、その存在に気づくことは稀である。[第5章 251頁]
さて、ここでは戦前、大きく国を誤らせた責任にマスコミの存在を挙げ、日の丸・君が代に対する姿勢を批判している。
・・・その責任が、日の丸、君が代にあるのだろうか。それを悪用した人間にこそ責任があるのだということを忘れてはいけない。<中略>戦争は勝っていると報道し、敗走しても、" 名誉ある撤退 " などという美辞麗句で飾ってしまったのはマスコミである。また戦後は、学生運動を煽っておいて、破綻すると途端に引いてしまう姿勢にも注視し、その影響が今も自虐思想として日本人の心に影を落としていることを指摘する。
<中略>
戦時中内務省と連絡をとりあっていた新聞社各社の記録を見ても、新聞社側が検閲に困っていたという様子は見当たらないという。むしろ、進んで自主規制を徹底させていたのである。
日本の間違った方向を率先して支持した責任には言及せず責任逃れをしておいて、それで、日の丸、君が代は怪しからんというのは、どう考えても理屈に合わない話である。むしろ、過去に忌まわしい記録があったとしたら、それを忘れないために国旗があるという考え方のほうが自然だと思う。[第1章 28-29頁]戦前のファシズムを批判しつつ、やっていることは、それと何ら変わりがない。要するに、反対意見に耳を傾ける姿勢がない。[第1章 30頁]
結局のところ、若人たちは、もり立てておいて、梯子を外してしまうマスコミに操縦されていたにすぎない。かなり多くの、文化人と言われる人々は無責任なものである。煽られた学生たちの中には、後遺症を引きずった人間もいるのに、自分たちは、決して傷つかないからだ。[第1章 36頁]学生時代にはバリバリの共産主義者だったはずなのに、卒業後コロッと自己批判もなく変節してしまった人間がどれほどいたことだろう。<中略>彼らにとって、左翼思想はただのファッションにすぎなかった。これでは、敗戦後豹変して、民主主義、民主主義と言いだした戦後の大人たちを笑えまい。<中略>こうした類の日本人が、日本人に自虐思想を植えつけたのではないか。[第4章 188‐189頁]
かつて日本は台湾を植民地としていた。その事実に対して、単に善悪で片付けられる問題ではないことも述べている。特に台湾語で言う「日本精神」は、軍国主義とは意味が違う。
本来、日本人が持っていた、いかにも日本人らしい清潔さ、公正さ、勤勉さ、責任感、規律遵守、といった素晴らしいものの総称として、「日本精神」という言葉を特別な思い入れで使い始めたのは、じつは台湾人だったのである。
したがって台湾語で「リップンチェンシン」と言う「日本精神」は、日本の軍部などが国粋的な意味で使った「日本精神」とも大きく違う。
<中略>
・・・私は一般的に「日本精神」の名で呼ばれている意識形態は嫌いである。
しかし、その嫌いという感覚は、これが軍国主義や対外侵略に結びついたからという、普通言われている理由からではない。
もしそれを言うなら、世界で罪を犯していない「民族精神」など皆無だろう。中世北欧伝説(サガ)の英雄たちは、海上からヨーロッパ各地に侵入し、略奪・征服をほしいままにするバイキングだった。
<中略>
「オウム」を引き合いに出すまでもなく、自国の歴史を忌まわしい色で塗りたくることに快感を覚えている人たちも、じつはその体質の上でこの「日本精神」の流れを汲んでいる。戦後のまなじりを決した「反日」は、形を変えた「日本精神」の発露にほかならない。[第2章 52-56頁]
また台湾問題については、戦前・戦中よりも戦後の対応にこそ問題があると述べている。
「台湾に日本時代五十年がなかったら、依然として海南島のレベルだったろう」と言ったのは作家の邱永漢氏だそうだが、これは台湾人の共通認識と言っていいだろう。「だけど植民地はやっぱり悪いのだ!」とまだ叫びたい人がいたら、「それはよく存じ上げています」とだけ言っておこう。
問題は戦後にある。戦後日本は、一度も台湾人とまともに対応しようとしたことがない。台湾人が苦しんでいたとき、日本は蒋介石政権に懸命に肩入れしていた。そんな中で、独立運動者の強制送還もあった。そして一九七二年、手のひらを返したように蒋政権から北京へ乗り換えた日本は、台湾人の同意もなしに、「台湾は中国の一部」と勝手に決めてしまった。
そして私たち在日台湾人に勝手に中国国籍を押しつけた。さらには北京が台湾沖にミサイルをぶち込んでも、まともに抗議一つするわけでもなく、知らぬ顔を決め込んでいる。
<中略>
台湾の「日本精神(リップンチェンシン)」は、やがて死語と化してしまうだろう。それはそれでいい。しかし、今これがほんとうに必要なのは、ほかならぬこの日本なのだ。[第2章 67-68頁]
こうした中で特に「愛国心」の問題を大きく取り上げている。これは故司馬遼太郎氏も述べていることだが、愛国心と国家主義・国粋主義は峻別しなければならないだろう。
人間の社会というのは、常識を大切にしないで、何を大切にするのだろうか。常識を大切にしないから、現代の子どもたちの暴走もあるのだ。そういう意味で言えば、国を愛する心だって、常識以外の何物でもない。愛国心を云々すると、すぐに、戦前の軍国主義に戻るのかとか、天皇制復活かなどという人がいるが、そうした議論のほうがよほど非常識なのである。[第3章 121-122頁]
さらに、日本の近代史は複雑な世界の歴史の流れの中でどのような位置にあるのか、といった評価も、極論を避けなければならない、という「常識」を提示する。
日本が悪いという人は、徹底的に日本の悪口を言う。日清、日露の戦争にまでさかのぼって、日本の歩んだ道は、最初から間違っていたと断言してしまう。
そして一方では、日本は間違っていなかったという人がいて、そういう人は、すべての日本の行為を正しかった、あるいは仕方がない選択だった、あれしかなかったと言って、全肯定してしまう。
それが起きた背景、それまで日本が置かれていた状況などなど、複雑な要素が絡まっていて、一概に、善とも悪とも決められるものではないはずである。[第5章 205頁]
このように、厳しい現実の中で頑張る著者の「甘えた日本に対する歯軋り」は確かに聞こえた。しかし日本に「希望が見えない」と言う原因は、単に甘えだけで片付けられる話であろうか。
人々が「この国には何でもある」「しかし希望だけがない」といった言葉に同感するのは、「何でもある」の中に、先の見えない財政再建問題、破綻寸前の年金制度、やがて背負わなくてはいけなくなる超高齢化社会、核廃棄物処理問題、ダイオキシン汚染問題、「こんなんだったら私が総理大臣やったほうがまし」な頼りない首相に汚職体質の与党、批判ばかりで実行力のない野党、改革を阻み続ける既得権者、という社会構造も与えられている、ということに関しては採点が甘い。
人間で言えば、体格は立派だが生活習慣病を患ったような状態で、おまけに生き方があやふやな国を「与えられている」若者が、「風邪で高熱の状態の国や、子どものように脆弱な国よりもましなのだから感謝しなさい」と言われているようなものだろう。何しろ獅子身中の虫が味方のような顔で存在していて、ある日突然に人々を裏切る。これでは闘うべき対象が明確に見えてこないのだ。
国策に詰まると、かつての権力者は、他国を植民地にしたり、戦争に導いて自国を団結させる、という方策で乗り切ってきたが、その手はもう使えないし使ってはいけない。社会主義はあえなく自滅。新たな世界の体勢を見出すことが希望につながるのだが、そのために脱出して独立する、という『希望の国のエクソダス』が単に空想として片付けられないことが問題なのだ。
解決には痛みが伴い、若者にしわ寄せがいくだろう。希望は確かに自らが確立していくものだ。しかしその地盤が瓦解することが予想される限り、その地盤上では動きは取れない。景気が回復すれば将来は働き口が増えるだろうが、「今」就職活動をしている若者は取り残される。高度成長やバブル経済の恩恵を被った先輩たちから「希望を持て」と言われても説得力はない。また「国など関係ない」と言って獰猛な利己主義者になるのもいいが、それでは大切なはずの「愛国心」と矛盾することになる。
もちろん、未来に向けて着々と手を打ってきている企業も多々あることは確かだ。日本というブランドもまだ枯れているわけではないから、大いに利用できる。おそらく希望はどこにでも見出せるものだろう。しかしそれは常識に縛られていては見出せない。逆境をプラスに転じて生かす発想の切り替えや、かなりのリスクを覚悟せねばならない場面もあるだろう。逆境の時ほど底力を発揮してきた日本の歴史は、ある種の非常識から生まれた歴史でもある。
本書でもう一つ気になる点がある。それは森首相の「神の国」発言をめぐっての説で、これは論点がずれているとしか言いようがない。おそらくこれは稚拙な、つまり教科書的な宗教観に終始しているせいであろう。これは著者が独立運動ほどに宗教にいのちをかけて取り組んでいないから仕方無いかも知れないが、日本の宗教史から見ても先の首相の発言は妥当性を欠いていると言わざるを得ないだろう。
そうした姿勢からか、「なぜ人を殺してはいけないの?」という質問を、「発すること自体非常識きわまりないのである」と馬鹿にし、「神様が決めたことなのである」と遵守を当然としているが、このあたりは問題の掘り下げが浅い。
殺人を抑えるために神を語ることは、逆に言うと戦争を起こすために神を利用する人間がいることも懸念しなければならないだろう。実際、「神の許し」を得ての大量殺人は、西洋や中近東では繰り返し行なわれてきた歴史的事実で、現在も宗教戦争の嵐は収まる気配が無い。殺人を無条件で避けようとする教えは、「神」を言い訳にしない教え、つまり「仏教」以外にはほとんど見当たらないのだ。ここでは「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」と語られている(なぜ人を殺してはいけないの? 参照)。相手の身を気遣うことを第一としない限り、殺人は収まらないのだ。
以上のように、本書は全体を通すと矛盾点が見つかるが、一つ一つの文章は納得して読める。直言も身に染む言葉が多い。また、今後は日本が台湾問題で選択を迫られることが多々あるだろうから、まずは一読をお勧めする。