「日本の常識は世界の非常識」と言われて久しい。「私は無宗教です」という表明も、重層信仰に対する寛容も、日本ならではのことだ。 たとえば早坂隆著『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)164頁には次のような笑い話が載っている。
これは重層信仰と無宗教についてのジョークで、日本人ならさほど疑問に思わないことも「外国」ではミステリーになってしまう一例だ。
こうした傾向は文化論にもおよぶが、まともに反論または説明する術を日本人は持ってこなかった。したがって文化的誤解は解消されず、むしろ積極的に「神秘的な国」という立場に甘んじ、「どうせ外国人には理解できん」と日本特殊論に引きこもっているのが現代日本の宗教事情だろう。口角泡を飛ばして押し付けてくる宗教的外圧は、日本人にとっては排他的・暴力的と映り、事実テロが頻発する有様を見ていると、説明はしにくいが、むしろ日本人の宗教観の方が優れているのではないか≠ニいう自惚れも頭をもたげてくる。
しかし、このような日本特殊論は無自覚な逃げ道に過ぎない。理解されないことを利用して逆に高みに立つ卑怯な態度である。そもそも、本当に解決しなければならない問題は、「日本人自身が日本の宗教の歴史を理解していない」という点にあるだろう。他国の理解を得るためには、まず自分たちが自分たちの宗教史を理解しなければならない。
阿満利麿著『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)では、特に<「無宗教」を標榜する人>がなぜ増えたのかを丁寧に読み解き、そうした「無宗教」が実は「自然宗教」と呼ぶべき範疇に入るものであること。また、時代とともにその「自然宗教」の宗教心も後退してきたことが指摘されている。
阿満氏はまず、日本人が「無宗教」と言う場合は大抵「特定の創唱宗教には属していない」という意味であることを前提にし、さらに、本人にはさしたる自覚がないまま「自然宗教」の影響は受けている具体例を示す。なお「創唱宗教」とは教祖・教典・教団がある宗教で、日本では仏教がその代表であり、「自然宗教」は教祖・教典・教団をもたない自然発生的宗教、特に神道が念頭に置かれている。
著者の言うこの「自然宗教」もかつては、創唱宗教とは異なるが宗教心豊かな文化として意識されるものであった。また「創唱宗教」も、日本全国に根を張った民衆の深い信心の発露を生む土壌となっていた。つまり歴史的に日本は宗教の盛んな国であったのである。
ところが強硬な権力者との相克、特に明治時代の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、「神道は宗教にあらず」とする詭弁を経て国家神道が強制され、創唱宗教はもちろん、神道の宗教心さえ失われていったのである。
結果、現代では創唱宗教の代表であった仏教も「葬式仏教」と成り果て、「自然宗教」を代表する神道も、他人まかせで個人的欲望の充足を祈るような、極めて矮小化された習俗と成り果ててしまったようだ。
果たして今からでも、先人たちの築いた豊かな宗教心を取り戻し、さらには<師の求めた跡を追わず、師の求めんとしたものを求めよ>と道元の言うような道心を盛んにすることは可能なのだろうか。
阿満氏はその可能性として、妙好人と呼ばれた因幡の源左の回心や、篤信者を生み出し続ける創唱宗教の土徳。また沖縄の大神島などに生き続けている純粋な自然宗教。さらには、深刻な回心を必要としない「健全な心」が日本人の多数に残っているかも知れない、という一抹の希望に見出そうとしている。
確かに多くの伝統仏教教団でも現状打破は叫ばれ続けている。著者が運用を問題とした「真俗二諦」についても、浄土真宗本願寺派「教学シリーズbQ」で――
『真俗二諦』梯實圓 著/本願寺出版社 52頁より
しかし、あえて私的感想を言えば、現実は極めて悲観的な展開にならざるを得ないだろう。
まず「葬式仏教」と揶揄されている仏教だが、今ではそうした極めて習俗化された儀式さえまともに勤まっていない例を見出すことが容易だ。そのため多くの人々には、最低限の儀礼さえまともにできず、金儲けに奔走する仏教界≠ニいうイメージが染み込んでしまった。こうした最低の段階からどこまで失地回復が期待できるだろうか、という問題が横たわっている。
また、旧来の純粋な自然宗教についても現実には復活は期待できまい。日本の自然や社会環境が宗教心を喚起させるまでの霊性を取り戻すことはほとんど不可能だからだ。その上、既に世は情報化社会である。神秘性は情報化の対極にあると言っても過言ではない。唯一そうした宗教心が残っているとすれば、それはもはや現実ではなく、アニメや漫画などの世界に見出すしかないだろう。これは確かに文化的な発信と経済的な成功を叶えてくれている。しかし、所詮は作り物。ファンタジーである。本気で信じてしまえば、人生の足元がおぼつかない根無し草の人間が出来上がるだけだ。
さらには深刻な回心を必要としない健全な心≠ナあるが、これも危うくなってきた。いじめが横行する教育環境。雇用状況も格差の拡大が問題となってきている。その上役人の腐敗が進み、阿満氏の言う「平衡化」が破られてきている。ゆえに「なにごとにつけても一つにまとまる」というムラ意識も崩壊寸前だ。結局、全体のバランスを取ろうと汗を流す人がいなくなり、「自己責任」という孤独の押し付けと弱肉強食を正当化するスローガンばかりが人々の胸に焼き付いている。
おそらく古くは、こうした混乱した時代にこそ新たな宗教者が名告りを上げ、人々を連帯させて教団が拡大し、やがて混乱前より進化とした組織が出来上がっていったのであろう。しかし近年、破壊的カルト教団の暴走を目の当たりにした日本人は、宗教教団、特に新興創唱宗教に対しては懐疑的になっている。もしそうしたものが今現れたとしても、何か高度なことを言っていそうだし、心情的には賛同できるけど、やっぱり宗教だからな……≠ニ二の足を踏む人がほとんどだろう。世界的に見ても、平和より戦争を拡大させる宗教組織が目につく。
では、もう宗教には何も期待できないのだろうか。
おそらく、従来型の宗教団体には期待できないだろう。排他的な体質を持ち、組織拡大に奔走してきた宗教教団である。特定の個人を特別に崇め、信徒に対して支配的な態度が横行する中では、宗教が信頼を取り戻すことなどできまい。
唯一打開策があるとすれば、もう一度先人たちの真摯な態度を見習い、じっくりと人間を熟成させる方法を時間をかけて開発することだ。すべてを数字に置き換えるような情報化社会とは一定の距離を置きつつ、互いの本音は認め合う環境。業の暴走には注意しながらも、人間そのものは信じていける、そうした環境を整えていくしかないだろう。それは大海の水を一滴づつくみ上げるような地道な作業だが、急がず焦らず、宗教的土壌を整えてゆくところから始めるしかないようだ。