この『メトロポリス』の紹介に、あえて(2001年 手塚治虫原作)と書いた理由は、他でもない同名の映画メトロポリス(1926年フリッツ・ラング 監督) に敬意を表したかったからである。
それにしても、なぜ同名の映画は同様の轍を踏むのだろう。以前フランツ・ラング版の紹介で、注目がビル群や特撮技術に偏ってしまってドラマ性が希薄だったことを指摘し、また手塚氏も「ブリギッテ・ヘルムの圧倒的な演技をのぞくと、これといった印象に残る役者がいないことも、ドラマの魅力の上でマイナスになっていることは否めない」と述べていることを書いたが、今回の作品もデジタル・アニメーション技術の粋を集めた映像が主役になっていて、シナリオの方は未成熟と言わざるを得ない。また、感情移入を阻む空虚さが、「原作:手塚治虫」としてのテイストを壊しかけている。
勿論、手塚治虫原作、りんたろう監督、大友克洋脚本という結びつきは話題にはなるし、映像的には大成功している。手塚作品に共通するキャラクターの継承、圧倒的スケールを誇る巨大都市と犯罪の多発するスラム街の描写、多彩な人物たちの大胆で華麗な動き。どれも一級の質を持ってはいる。
ただしその成功は映像博覧会的な分野に留まってしまって、新たな世界観の提示というSF映画の基本的価値は少なく、ある種時代遅れの感さえ漂う。いわばノスタルジー的未来で、大都市も「ビルヂングの立ち並ぶマテンロウ」といったステレオタイプ的な作りに終始している。
原作は手塚氏の同名の漫画であるが、映画版とのつながりは必ずしも密ではない。
「オリジナルのストーリーにとらわれることなく大胆に解体・再構成して、より手塚治虫的な世界を抽出・・・」というコンセプトは、気持ちは分かるが、成功するためには原作以上のストーリーを提示しなくてはならない。しかし、希望通りに仕上がったかどうかは疑問である。
思うに、この「より手塚治虫的な世界を抽出」というコンセプト自体に問題があったのではないだろうか。つまり原作者がもし製作に関わったとしても、「より自分自身的な」というコンセプトは創造性を失わせることになる。まして他人が「より手塚治虫的な世界」を目指せば、それは各人のイメージに縛られることになり、創造性と原作の良さの両面が失われる結果となるのだ。
やはり、どうせ時代遅れ(1949年)の作品ならば、なるべく原作に忠実にストーリーを組み立て、できることならミキマウス・ウォルトディズニーニも登場させて欲しかった、と思うのは私だけであろうか。はっきり言って私は主体性の無いあどけないティマより、自らの意思で破壊を扇動する原作のミッチーの方に圧倒的に感情移入でき、また魅力も感じるのである。