五木寛之氏の訳で鳥の物語というと『かもめのジョナサン』が思い起こされる。これについては以前、個人的な経験も含め「宗教を考える100の質問:12」の中でその<ひたすら高みをめざす姿>の危険性を書いてみたが、今回はジョナサンとは正反対、<飛べなくなった鳥>の物語である。
「Tern(ターン)」とはアジサシのことで、普通のアジサシは「アクロバト的な飛行技術において特にすぐれており、その生涯の大半を空中ですごす」。しかしそうした「空の住人」であるはずのリトル ターンが、ある日、突然、飛ぶことができなくなってしまった。
はじめは「何か外側が壊れているのだろうか」と考えた彼だが、やがて「内面に問題があるんかもしれない」と気づく。そして仲間には「独創的」な言いわけをして、自分だけの旅をはじめるのだった。
ぼくは気づいた。それまでぼくが生きてきたモノトーンのなかで、自分は本当のものを何ひとつ見ていなかったのだと。
<中略>
モノトーンに見えるものすべてのなかには、色が欠けているということだけではなく、それ以上の何か大事なものがあるのだと。そして今そのことを、自分が認識できるかできないかの大事な瀬戸際にいることを。
リトル ターンは、海岸に捨てられた様々なものを集めたり、水際にいたゴースト・クラブと友情を育んでいったが、やがてその友達とも会うことができなくなった。そしてある朝、自分の影がすぐそばにあることに気づく。
きっと失われていたのではなく、ただ、置き忘れられていたのだ。この影はこれまで、見えず、色もなく、目的も、本当の個性もなかったけれど、いまは見事なまでにしっかりと存在しているではないか。
僕は影のことを考えた。飛んでいる鳥のそばに影がないことを考えた。着地した時にだけ、鳥は自分の長く伸びた黒い存在を思い起こすことができる。影は、そこにはなくても存在するものを思い起こさせるのだ。<中略>高い空を飛ぶために、鳥は翼の下にあるすべての本質を見る必要がある。そうでないと、惑星の上をただ無目的に飛んでいるだけにすぎない。
見えなくても「何かが存在するんだ」と考えた彼は、ゴースト・クラブが遠くで見守る中、ごく自然に翼をひろげ空に戻っていく。
自分の影を見いだし、孤独を共有できた喜びを胸に。
この『リトル ターン』は近代文明の個人における破綻、もしくは、つまずきが背景にあると言えるだろう。そしてその原因に、<影の存在を忘れていた>ことを指摘する。
これは仏教でいえば「照顧脚下(脚下照顧)」・「足元を見よ」ということや、仏願でいえば第五願の「令識宿命の願」につながる問題だろう。作者のブルック・ニューマン氏がどのような経験や思想を経て「自分の影」という問題に行き当ったのか知れないが、リサ・ダークス氏の絵もからんで、内面世界を見事な筆致で描ききっている。
ところで、先ほど『かもめのジョナサン』と『リトル ターン』は正反対の物語、ということを書いたが、ひとつだけ共通項がある。それはどちらも<大衆社会と距離を置いたところで成立する物語>ということである。
もちろん両者の違いは明らかで、ジョナサンは英雄的であり、リトル ターンは脱落者。ジョナサンは上を向いて飛び、リトル ターンは下を見て過す。ジョナサンは他の鳥には滅多にできない経験をし、リトル ターンは多くの鳥がすでに体験したことを経験する。そしてジョナサンは普通の連中を侮蔑し、リトル ターンはいわば普通の鳥に戻る物語である。
しかし<大衆社会との距離>は、実は大きな共通点で、こうした体験のできる人は、まずは幸せな境遇である、と考えた方がよい。つまりジョナサン的に高みに達する経験も、リトル ターン的に自分をどん底の中で見直す経験も、多くの大衆は体験できそうで、できていないのだ。
そして、上を見て過したり、下を見て過したりしながら、地面に着地することも許されず、ずるずると低空飛行に甘んじ、自分の影を見ることもなく、そのまま一生を過す。そしてようやく自分の影を見る時にはすでに臨終が近く、既に飛び立つ力は残っていない・・・
そういう意味で、はるか高みにも登れず、自分の影と向き合う時間もなく、日々の忙しさにかまけている人たちや、会社や組織の圧力の中で様々なミッションをこなすために身をやつしている人たちが、そのまま、そのポストに就いている中で自分の影を取り戻す、という、言わば平生業成の寓話を今度は読みたいと思っている。