平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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世の中には、誰からも反発を招かない代わりに毒にも薬にもならない論と、一部では反発を買うが確実に内容がある論とがある。前者の本はあえて読む必要は無く時間の無駄、後者こそ読むべき本だが、読むには相応の批判力が必要となる。
藤原正彦著『国家の品格』はまさに後者の本と言えよう。実に多くの示唆があるかわりに毒もあるので、批判精神を維持しながら読むことをお勧めする。
著者はまず、自分はかつてアメリカかぶれの数学者であり論理だけで物事を片付けようとしていたことを告白する。そして次第にその限界を見極め情緒や形を重んじるようになった経緯を語る。その過程で、<現在進行中のグローバル化とは、世界を均質にするもの>と批判し、<日本人はこの世界の趨勢に敢然と闘いを挑むべき>とし、普通の国への移行を指弾している。特に近代的合理精神については既に破綻しているものであることを、その証拠とともに示してゆく。
パリ講和会議の時に、日本が本気で提案した「人種平等法案」が否決されています。<中略> 今から考えると、植民地主義や帝国主義というのは、たんなる傲慢な論理にすぎない。しかし当時は、きちんとした論理が通っていたので、みながそれに靡[なび]いたのです。帝国主義が「本当にいけないこと」として認知されたのは、第二次世界大戦が終わってからに過ぎません。[国際連盟規約の「美しい言葉」]すべての生産手段をすべての人が共有する。それによって生まれた生産物もみなで共有する。そうして貧富の差のない平等な、公平な、幸せな社会が出来る。美し過ぎて目眩[めま]いをおこしそうな論理です。
しかし現実には、ソ連が七十四年間の実験で証明してくれたように、大失敗に帰しました。<中略>共産主義という美しく立派な論理それ自身が、人類という種に適していないのです。[共産主義も実力主義も論理の産物]
その上、現在の徹底した実力主義も間違いであり、「資本主義の勝利」は幻想であること。また現在の金融状況についても苦言を呈し、デリバティブが破綻した時の恐怖を<いまや時限核爆弾>になっていると警告している。(註:この初版本発行後、サブプライムローン破綻による所謂リーマンショクという金融大破綻が起こる.まさに予見は正しかった!)
論理の積み重ねである数学、その数学を生業にしている著者が論理そのものに限界があることを説くところも本書の魅力だろう。一例として、「国際人をつくる」ということを題に上げている。
今の七十歳以上の日本人で、英語をうまく話せる人はあまり多くない。海外へ行った彼らの多くは仕方なく、にこやかに微笑んでいました。だから欧米の人たちは、「日本人は何か胸の底に深い物を持っているらしい」と思ってくれました。
ところが最近の若い人たちは、内容は何もないのに英語はペラペラしゃべるから、日本人の中身が空っぽであることがすっかりバレてしまいました。[英語よりも、中身を]
ゆえに国際人をつくるための最もよい方法としては、英語よりも日本の歴史や伝統文化への理解を深めること、そしてそのための肝要として読書を勧める。また、オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが発表した「不完全性定理」(1931年)を引き、<論理に頼っていては永久に判定出来ない>ことを挙げる。そして人生にとって重要なことは「押しつけるべきだ」という。なぜなら、重要なことの多くが、論理では説明出来ないから、と。
戦後の我が国の学校では、論理的に説明できることだけを教えるようになりました。戦前、「天皇は現人神」とか「鬼畜米英」とか、非論理的なことを教えすぎた反省からです。しかし反省しすぎた結果、もっとも大切なことがすっぽり欠落してしまったのです。[重要なことは押しつけよ]
そして一番重要な指摘は、「論理には出発点が必要」ということだろう。その出発点を決めるのは<論理以前のその人の総合力>だという。総合力は<情緒や形>であり<宗教や慣習からくる形や伝統>を含めている。それに比べて最悪なのは、出発点を決める総合力がないのに頭が良くて論理的な人、いわば屁理屈人間で、その論は<ほとんど常に自己正当化>であると弾じている。
こうした出発点についてだが、著者は欧米の論理の出発点である近代化合理主義の過信については厳しい批判を加える。
例えば「自由」という概念についても、<欧米が作り上げた「フィクション」>であるとし、あってよいのは<権力を批判する自由だけ>という。そしてプロテスタンティズムのカルヴァン主義にある「予定説」を批判し、その説を元とした近代資本主義の祖ロック、そしてアダム・スミスやその後継者たちの欺瞞を暴いてゆく。
また民主主義・主権在民という政治の大前提となっている体制についても、国民が成熟した判断ができるならば最高の政治形態だが、「国民は永久に成熟しない」と断言し、二度の世界大戦も民主主義国家の中で生まれた戦争であり、国民の総意が当てにならないことを示す。さらに現在では行政がポピュリズムに流れ、マスコミが第一権力になり、国を破滅に導きかねないことを指摘している。そしてこうした状況を変えるためには、豊富な文化的教養と圧倒的な大局観や総合判断力を持っている「真のエリート」が必要、と説く。
もちろん民主主義、自由、平等には、それぞれ一冊の本になるほどの美しい論理が通っています。だから世界は酔ってしまったのです。論理とか合理に頼りすぎてきたことが、現代世界の当面する苦境の真の原因と思うのです。[自由と平等は両立しない]
こうして後半は――「情緒」と「形」の国に住む日本人よ、もっと自分たちの文化に自信を持って世界に出てゆけ という論になるのだが、著者の指摘には賛同できる部分と批判せざるを得ない内容が含まれている。かつて鳩摩羅什は「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ」と注意を促している。本書は玉石混交であるから玉は拾い石は据え置かねばならない。
始めに、問題点から指摘しよう。
まずは著者の言う「日本の歴史や文化の大切さ」だが、御自身がこれを体得しているのかどうか、という点に懸念が残る。結論として言えば、全体的には偏りが激しいし表層に留まっている。日本文化を武士道的にまとめ、自然に対する感受性や「もののあわれ」に集約しているのはありきたりでステレオタイプ。もう少し日本に深く根ざした文化論を展開していただきたい。
たとえば宗教観などは、教科書的な記述をなぞっているに過ぎない。特に中世以降、日本人に圧倒的な影響力を与えた浄土や念仏の歴史観を挙げないのは本筋を無視した日本論だろう。後で指摘する「美の存在」においても、日本人の多くが極楽浄土の圧倒的な美を胸のうちに秘めていた点に触れないのは何故だろう。勉強不足としか思えない。
また「国民は永久に成熟しない」との断言は頂けない。「永久に完成しない」という向上心の本質で言うならまだしも、「永久に成熟しない」は人類の社会的進化を否定するものであり、成就の希望を持ち続けて「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」と連続無窮に願いを託して生きる菩薩道に反している。それは結果として教育や日本文化そのものの否定にさえつながってしまうのではないだろうか。
さらには、インドの天才的数学者ラマヌジャンについて、カーストの存在を無批判にやり過ごしているが、この制度が頑迷な差別に根ざしていることは明らかである。先に「もちろん差別ほど醜悪で恥ずべきものはありません」と述べていたことと論理的に矛盾するのではないか。もちろん論理は万能ではないことは承知だが……
批判はここまでにして、最後に長所を羅列し、仏教との関連において内容を検証したい。
まず、<論理以前のその人の総合力>を重視することは人生の要点を得ている。浄土真宗でいう「信心」とはこの総合力のことで、人類の真心の歴史に根ざした総合力を「真実信心」とも「他力の行」とも呼び、これが回向されることを尊ぶ。そして最悪の<情緒力がなくて論理的な人>を、仏教では「自力の行者」と批判するのだ。「自力」とは合理精神や理性のことを言う。(参照:{三大宗教の存在に矛盾は無いのでしょうか?})
また「天才の出る風土」として、「美の存在」、「何かに跪[ひざまず]く心」、「精神性を尊ぶ風土」を挙げているが、これは仏教では浄土の存在の有無を問う内容だ。美の極致でもある浄土を見出したところに国宝級の人が出現する。「一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり」。論理を組み立てる以前にそうした宗教的な課題を挙げることは尊い。
最後に「四つの愛」として小さな愛から次第に大きな愛にしてゆく順序は重要だ。
まず「家族愛」です。それから「郷土愛」、それから「祖国愛」です。この三つがしっかり固まった後で、最後に「人類愛」です。
順番を間違えてはいけません。家族愛の延長が郷土愛、それら二つの延長が祖国愛だからです。日本ではよく、最初に人類愛を教えようとしますが、そんなことがうまく行くはずがありません。<中略>根無し草と付き合っても、何一つ学ぶものがないからです。[四つの愛]
これは経典には、<あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす>(『仏説無量寿経』巻上・正宗分・弥陀果徳・光明無量)という部分と相応している。私論として書いた{家柄に込められた先祖の真心} も似た意味で述べた。そのため個人的にはここは大いに賛同するところである。