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INNOCENCE
この魅力はオープニングから見せてくれるし、道行のお祭りのシーンは、しばらくこのシーンを超える映像は作れないのではないかと思われるほど素晴らしい。また全編に漂う濃密な臭いは、{アヴァロン} で培った手法もかいま見えて、前衛的古典美ともいうべき域に達している。さらに音楽も、脳幹に直接届くような響きである。
ちなみに、作品が設定されているのは西暦2032年で、人とサイボーグ(改造された人間)とアンドロイド(人型ロボット)が共存している社会。それは個々の肉体が感じたり記憶したりする世界と、肉体の欠点を補うために電脳によって作られた世界が複雑に交わる未来社会である。ここでは人々の多くは人工義体を取り込んで、肉体と電脳の両世界にまたがって暮している。
電脳に助けられれば、当然のことながら電脳によって傷つくこともある。特に、悪意あるハッカーによって個人のアイデンティティーを冒されたり、個人の精神(ゴースト)がまるごと乗っ取られたりすると、肉体も精神も他者に支配されることになる。内務省公案九課(攻殻機動隊)は、こうした犯罪を防ぐための部隊で、主役のバトーはここの刑事である。彼には以前(前作)では草薙素子という相棒がいたが、彼女は“人形使い”というプログラムと融合し、ネットの中に姿を消してしまっていた。これはバトーにとっては精神的に傷を負う出来事だったが、今は愛犬のバセットハウンドに癒されながら、あいかわらず刑事として暮している。そんな中、愛玩用の少女型アンドロイド(ガイノイド)の暴走事件が起り、相棒のドグサとともに捜査に乗り出すことになる。ちなみにバトーはほとんどサイボーグ化されているが、ドグサはほとんど生身のままである。。
この映画で描かれる未来社会の課題は、9年前に比べれば、いよいよ現実味を増してきていると言えよう。「人は何を寄る辺に生きるのか?」といった、個の存在意義を疑うことは、未来においては真剣に論議される課題となるかも知れない。またその謎を解く一つの鍵は、「人間は、何故こうまでして自分の似姿を作りたがるのか」といった「公案」ともいうべき問いなのかも知れない。このように、映像以外の先進性も注目されるところだろう。
ただ、作品全体からいうと、どうしても「語りすぎ」の観があるのは否めないだろう。押井氏がどのような世界観を持とうが、どういう思想に傾倒しようが、観客が1時間半の映画の中で味わうのは映像と音楽のみである。見ている私にとっては、付属物の多さは邪魔にしかならない。言いたいことがあっても、それを言葉で押し付けられたらこちらは興味を失う。哲学的な内容もすべて映像の中で消化しておいてもらいたかった。これは例えば{2001年宇宙の旅} などと比較してみればわかるだろう。
以上のように、『イノセンス』は圧倒的な音響と映像美が魅力の全てである。そしてその魅力を半減させるものがあるとすれば、そこに徹せられなかったことにあるのではないだろうか。