[index]    [top]

【映画・書籍等の紹介、評論】

地獄の黙示録 特別完全版

APOCALYPSE NOW REDUX

狂気と欺瞞を描いた反戦映画が再生の力となる


 1979年、オリジナルの映画公開当時、アメリカはベトナム戦争以来続く虚脱感から抜けきれずにいた。何しろ1960年初頭から恒常的に介入し続けた戦争に破れ(1975年)、1500億ドル(約20兆円)の負担もアメリカ経済に重くのしかかっていたのだ。
 そして<何のための戦争だったのか?>という問いかけも虚ろなまま、5万8千人以上のアメリカ兵と、200万人近い南北ベトナム人民の犠牲に意味を見出せなかったからだ。

◆ 何のために戦ったのか?

 この作品の原題“Apocalypse Now”は、直訳すれば「現代の黙示録」という意味になるだろう。“Apocalypse”とは実に宗教的な題だが、“Now”が付くことで意味が一変する。既存の「黙示録」が、弾圧に耐える力を基本に示されているのに対し、「現代」のそれは、モラルを失った狂気の世界と戦争の欺瞞を直視することを基本として語られる。

 監督のF.F.コッポラは、この完全版に以下のようなメッセージを寄せている――

たいていの戦争映画は、反戦映画なのだ。しかし、私のこの映画は、反戦映画以上のもの――「反“嘘”映画」だと信じている。戦争とは、人々が傷つけられ、拷問にかけられ、不具者にさせられ、そして殺される事だ――それを文明はウソで塗り固め、一つのモラルとして提示する。それが、私には恐い。そして、それが戦争の可能性を“永久”にしている事に震えを感じるのだ。

 実に「反戦」の運動は世界をかけめぐっていた。特にアメリカでは1970年以降国を分裂させる勢いで反戦の機運が高まったが、それは戦争の終結を早めたことともに、戦争に携わった兵士たちの悲惨さを倍加する方向にはたらいてしまった。ベトナム帰還兵は国に居場所が無い状態に追い込まれてしまったのだ。

 マーチン・シーン演じるウィラード大尉は――「離婚に「イエス」と言うまで、妻ともほとんど口を利かなかった。ベトナムにいるときは故郷に戻りたいと思い、故郷にいるときはただ密林に戻ることばかりを考えていた」と嘆く。

 映画で今さら「反戦」でもなかろう。反戦は既に結果を生みだしていた。しかし、どうしても当時必要だったこと、それは<何のためにアメリカ軍はベトナムに居続けたのか?>という空虚な問いに、誰かが答えを出すことだった。特に傷ついたベトナム人民とアメリカ軍兵士たちに解答は必須であり、沈黙は拷問でさえあった。そしてその拷問は4年間続いたのだった。

◆ 追加シーンで見えてきたこと

 この映画における戦争描写は、実に凄惨で狂気に満ち溢れている。特に「特別完全版」では、哲学的にさえ見えたオリジナル版と違い、戦争の偽善性をより鋭く突き、空虚さを増している。53分の追加は、まさに「完全版」としての役割を果たすのに充分であった。

 例えば、カンボジア領域で遭遇するフランス軍兵士たち。今から思えば、<こんな長いシーンをオリジナルではカットしたのか>と驚きだが、この地にフランス軍が入植し(インドシナ戦争)そして撤退した歴史を彼らは無念のうちに語る。もちろんこの時期、ここにフランス軍が居座っているはずはないが、いわば幻の語り手となって戦争の無意味さを示している。

 彼らは「ベトコンはアメリカが育てたのだ」と告発する。そして――「われわれがなぜここに留まるのか? それは持っているものを守るために戦っているからだ。しかし、君たちアメリカ人は、大いなる幻想と実体のないもののために戦っている」と付け加える。
 フランス軍の居座り以上に虚しいアメリカ軍の姿。この家に住む未亡人ロクサンヌとの交わりは、虚しさの共有として印象に残る。

 また、<掃き溜めに鶴>状態だった慰問団のプレイメートたちも、完全版では、燃料と引き替えに米兵たちに身を売る羽目に陥る。しかも部屋にはアルミ箱に入った死体が転がっている。彼女たちも戦争で傷つき、消費され、そして狂気を抱えているのだ。

 その他、抹殺指令の出ているカーツについて、彼のニクソン大統領に宛てた現状報告が実は適切なものであったことを示すシーンが追加されている。これによって、彼が戦争の嘘を告発する者であることを印象付け、そのカーツを殺める指令が欺瞞からであることも分かる。そしてその欺瞞を実行するウィラード。カルト教団的な異臭を放つカーツ王国も、実はアメリカのお偉方の嘘の上に築かれていたのだ。

◆ アジア人は地獄に残された

 この映画に描かれたアメリカの示す「正義」としての一側面は、ロバート・デュバル演じるビル・キルゴア中佐に象徴されている。
 攻撃を加えておきながら、終ると人命救助に勤しむ偽善性。陽気さと残虐さを兼ね備え、<敵の弾には当らない>という確信が彼を冷静な指揮官に仕上げていた。

 また、当初「ベトコン勢力下だから危険」としてナン川への進入を拒んでいた中佐だったが、「6フィート(翻訳では2メートル)の波が来る」と知るや攻撃を決定する。サーフィン好きの上、同行していたランスが有名なサーファーであったからだ。懸念する部下の進言には「ベトコンがサーフィンをするか!」と一喝し、「ワルキューレの騎行」をスピーカーで流しながら村を襲う。そして戦闘の最中にサーフィンを命じ、散発的な反撃に業を煮やした中佐は、密林をナパーム弾で焼き払う。

 傲慢でわがままで、それでいて皆に付け入る隙を与えない。この愛すべき、そして憎むべきアメリカの象徴は、時代が狂気に染まれば染まるほど存在感を増してくる。「ナパームの匂いが大好きだ」と語り、その香りに勝利の確信をいだいていたのは、当時の驕り高ぶったアメリカの姿そのものであろう。そしてその姿は現代にも受け継がれている。

 以上のように「地獄の黙示録」は、きわめて力強い反戦・反嘘映画に仕上がったが、これは同時にアメリカに新たな力を与える映画となった。
 見たくないモノであっても、こうして作品として直視することで、国策の過ちを再確認し、「やはり戦争は嘘の上塗りだし、ベトナム戦争は全く無意味だったのだ」と納得できたのだ。兵士たちに対しても、加害者としての側面だけでなく<被害者として受け入れていこう>と社会は見る。全く「お偉方」の欺瞞のせいで、若さを消耗させられた兵士たちだったのだ。

 しかし、この映画には決定的に欠けている視点がある。
 確かにアメリカの被害は甚大だったが、その何十倍、何百倍もの被害がベトナムに及んだ。主義主張や思想の狭間で、彼らの体験した地獄はどういったものであったのか、ここにはベトナム(アジア)側を象徴する語り部はひとりも登場しない。ただ、黙々と殺され、反撃し、そして「白く塗られて、首切られ、吊るされてー。でも私たちカーツに従い尽くします」という、グロテスクな姿を見せるだけである。

 おそらく「地獄の黙示録」 は、アメリカにとっての「現代の黙示録」であろう。だから、アメリカの再生にとっては重要な物語であったが、世界における「現代の黙示録」ではない。もっと言えば「黙示録」という秘策的な提示も一種の欺瞞ではないか。本当は、もっと奥にある「アジアへの無理解」までえぐり取るべきではなかったか。
 実際、湾岸戦争で勝利して以後のベトナム戦争の扱いは、フォレスト・ガンプ に見られるように反戦運動に否定的である。

 そうした意味では、他民族文化への無理解は新たな戦争を予感させている――、これはアメリカ中枢同時多発テロが起きたから言うのではなく、オリジナル公開当時から懸念されてしかるべき欠点であった。
 言葉は正確ではないが、「ウィラードは結局ベトナムを後にする。カーツの王国はエンディングで爆破され、狂気を焼き尽くしたように見えるが、私たちアジア人はこの地獄に残されていたのだ」という批判が、来日したコッポラに投げかけられたのを子ども心に覚えている。だからという訳ではあるまいが、完全版ではこのシーンはカットされている。

 せめてもの理解、にしては、やはり小さいか。ベトコンは残ったが、同じようにアメリカが支援し育てたタリバンはテロへの報復で攻撃された。オリジナル版エンディングの破壊シーンのように。

公開:
2001年(オリジナルは1979年)
監督・製作:
フランシス・フォード・コッポラ
共同製作:
フレッド・ルース、グレイ・フレデリクソン、トム・スタンバーグ
脚本:
ジョン・ミリアス、フランシス・フォード・コッポラ
撮影
ヴィットリオ・ストラーロa.i.c-a.s.c
音響:
ウォルター・マーチ
音楽:
カーマイン・コッポラ、フランシス・フォード・コッポラ
出演:
マーロン・ブランド、マーティン・シーン、ロバート・デュバル、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール、サム・ボトムズ、ローレンス・フィッシュバーン 他
[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)