映画『フォレスト・ガンプ』はベトナム戦争をはさんで物語が展開するが、この状況は明らかに湾岸戦争で"大勝利"を収め『強く正しいアメリカ』を自負した立場で描かれている。と同時に、ここには2つの視点が存在する。
IQが75しかなく、身障者だったガンプ。そのせいで常にいじめられていた彼も、ベトナム戦争に参加し、持ち前のがんばりで軍隊生活に見事に順応してゆく。上官の命令をひたすら守り、迷いなく任務を果たしていくのだ。時にはベトナム兵に銃弾を浴びせ、塹壕にとどめの手榴弾を投げ込む。そして仲間を助けた功績が評価され、大統領から勲章までもらう。
帰還後、戦死した黒人の仲間との約束を守り、無謀と思われた仕事を始め、やがて大成功を収める。収益は仲間の家族にも与えられ、豊かな生活を保証する。ハンディがあっても常に前向きに生きる、まさに素朴な理想を視点とした架空の(原作では完全なほらふきの)アメリカだ。
彼女は常にガンプの良き理解者であるのだが、やがてヒッピーとなり反戦運動に身を投じてゆく。しかしその生活は自堕落を極め、様々な裏切り、絶望が彼女の心身をむしばんで、やがて死を迎える。(原作では平凡な幸せをつかむ)
当時、国策に堂々と異議を唱え、世界の若者に影響を与えた彼らの姿は、今にして思えば裏側はこんな生活だったのかと想像(もしくは誤解)してしまう。観客の心情は既に彼らの側には無いのだろうか。
しかし当時の若者の現実はこちらであった事を忘れてはなるまい。そしてそこには、アメリカ以上に傷ついたベトナムがあったはずだ。
1つは反戦集会の最中におきる。集会に紛れ込んだガンプは、主催者から「君も何か言いたい事があるんだろう」と、促されマイクの前に立ちスピーチをする。だが妨害者によりマイクのコードが抜かれてしまう。一体この時、彼は何を訴えたかったのだろう。映画では音声の途切れた事に頓着せず、スピーチを続けるガンプが写る。
本来このスピーチこそ製作者サイドの本音であり、過去と現代のアメリカが交わる場面であったはずだ。ここで音声が消されたということは、観客一人一人に台詞を委ねるということでもあろうが、この時代この場所では言えない台詞、言っても通じない言葉だ、という示唆でもある。それは戦争賛美という単純なものではないだろう。だが当時の反戦活動家やヒッピー達の反社会的な行動に対して、何らかの反論であることは確かであろう。
やがてジェニーはガンプの子を産み、そして死んでゆく。かつて自ら引き裂いた二人の、そしてアメリカの切ない愛の結晶。人々はこの残された子供に何を託してゆくのだろうか。