「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と自称したアリ。この映画はヘビー級ボクシングの迫力を満喫できるが、作品の主題はあくまでモハメド・アリという生き方そのものである。彼は何を背負い、何と闘い、そして何と戦わなかったのか。決して単なる英雄伝説では終らない映画がこの『ALI』である。
「ボクシングは奇妙なスポーツだ。同じことを街中でやってみろ。たちまち逮捕される」(映画『チャンピオン』より)というように、ボクシングは日常とは全く隔絶した空間においてのみ存在する晴れ舞台である。
グローブをはめているとは言え、他人を殴るのだから、それ相応の理由がなければこれは単なる暴力行為であろう。もしボクシングが、金銭欲と名誉欲と闘争本能だけでなされているならば、観客は血に餓えた野次馬に過ぎない。実際、多くの試合はこうした痛々しい現場であり、敗者の凄惨さは、あらゆるスポーツの中でもボクシングが筆頭であろう。
しかし時として、金や名誉や闘争本能だけでは語れない、もっと大きな理由を背負って拳をぶつけあう試合が現出する。1974年10月30日、ザイール(コンゴ)のキンシャサで行われたモハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの試合がまさにそれで、ボクシング史上に名高いこの対戦は、同時に、自由を圧殺してきたアメリカの歴史との闘いであり、組織における個人の意思が試される試合でもあった。つまりアリが背負っていたのは、単なる個人の欲望ではなく、見捨てられていた貧しい人々の希望だったのだ。
それは「アリ、ボンバイエ(奴をぶっ殺せ)!」の声となってキンシャサの街にあふれた。当時、対戦相手のフォアマンは、アフリカの民衆のことなど眼中にはなく、それを言動にも表していた。これはアリとは対照的でさえあったのだ。アリの背負っていた期待がどれほど重いものであるか、この時まで彼自身さえ気付かないでいたのかも知れない。
どう見ても勝てない試合。しかし、勝たなくてはならない試合だった。こうした試合が図らずも演出されてしまうところに、ボクシングの魅力も恐ろしさもある。
通算成績61戦56勝(37KO)5敗という圧倒的な強さを誇ったモハメド・アリだが、彼をボクシングの成績以上に特別な存在たらしめたのがベトナム戦争の徴兵拒否(1967年)である。まだ米国内で反戦運動も高まってはいず、世論も反共を旗印にしていた頃、「俺はベトコンに恨みはないぜ」と宣言するアリ。
俺を刑務所に送りたいのならやってみろ。望むところだ、400年でも監獄に入ってやる。だが、遥か彼方の土地でお国のためだと言って貧しい人たちの殺人に手を貸すのはごめんだ。敵はお前らだ。ベトコンでも中国人でも日本人でもない。俺を妨害しているのはお前らだ。俺は自由や正義や平等を求めているのに。
このため連邦大陪審に起訴され、徴兵拒否としては最も重い5年の禁固刑と1万ドルの罰金刑を宣告される。そして不当にも、有罪を理由にタイトルは剥奪され、ボクシング界を追放されてしまう。
25歳のアリにとって、上訴を待つ間の3年半はボクサーとしては本来最盛期であるが、国内で試合できない上、パスポートが無いため国外で試合を組むことさえできない。裁判にかかる費用も膨大で破産寸前まで追い込まれてゆく。
1971年にようやく最高裁がアリの罪を覆し、再びリングに立ったが、ジョー・フレイザー戦で判定負けを喫し、タイトルを奪われる。これがアリにとって初めての敗北である。
以後アリは1973年3月にもケン・ノートンに破れ、破壊的強打を誇るジョージ・フォアマンの登場(ジョー・フレイザーを2RでKO)により、誰の目にも もはやアリの時代は過ぎたと思われていた。1974年10月30日のキンシャサでの試合も、下馬票では圧倒的にフォアマン(25歳・40連勝中)が有利であった。ボクシングの実力であるパワー・スピード・体力、どこから見ても32歳のアリに勝機はなかった。さすがに“元祖ラッパー”と言われる饒舌ぶりも、この時は切れ味がない。
ところが・・・、この試合の結果は皆さんもうご存知の通りである。7回までロープに追いつめられて防戦一方だったアリが、8回、突如フォアマンに連打を浴びせ、KOで勝利を収めたのだ。
モハメド・アリは元の名をカシアス・クレイという。先に「この作品の主題はあくまでモハメド・アリという生き方そのものである」と書いたが、その生き方を授けた人物が作品の冒頭に登場する。それはマルコムXである。『ALI』を見る前に スパイク・リー監督作品『マルコムX』 という映画を観ると、より理解が深まるだろう。
マルコムXは、黒人イスラム教団体「ネイション・オブ・イスラム」でスポークスマンとしての立場を得てマスコミから注目を集める若き聖職者だった。彼は人種隔離政策に対して断固とした意義を称え、白人に対し融和ではなく分離独立を宣言する。――「アンクル・トムと変らぬ指導者は“敵のために祈れ”と言う。“敵を愛し 敵に溶け込め”と。我々をリンチにかけ、我々を撃ち、女子供を犯す敵を? 許せるか。考える頭があれば許せないはずだ」
こうした導きにより、カシアス・クレイが世界チャンピオンになった翌日、同教団に入信し、モハメド・アリ(賞賛に値する人)を名乗る。彼はカシアス・クレイの名を以前から「白人がつけた奴隷名」として嫌っていたのだ。そして「俺はみんなのチャンピオンになるつもりだ。でも君たちの望む人間になる必要はない。なりたい自分になるんだ。俺が何をどう考えようと自由だ」と宣言する。
しかしマルコムXはその純粋さと行動力ゆえに指導者イライジャ・モハメドと意見を違え、聖職停止命令を受けた。これによってアリもマルコムから離れ、アフリカで再会した時も、メッカ巡礼の成果を話すマルコムを冷たくあしらうのだった。その後マルコムはキング牧師らと歩調を合わせる行動に出るが、アリは無関心だった。それから間もなくマルコムXは演説中に凶弾に倒れる。
訃報を聞いてアリは「あなたはいつも先を歩いていた。俺は後ろをついて歩いた。あなたの後ろを…」とつぶやいたという。そしてこの時からアリは単なる黒人対白人の図式を超えた闘いを引き受けたのだろう。教団との関係も、時として組織の意向を裏切る行為に及ぶ。徴兵拒否もその一貫といえよう。
このように、組織を利用しながらも隷属はしない、という生き方を示したのはモハメド・アリである。彼は拳でその生き方と地位を世間に認めさせた。しかし、それは同時にマルコムXのような純粋性からは外れることになる。またアリの女性遍歴は宗教的道義的には目に余るだろう。もちろんこの矛盾を孕んだ茶目っ気たっぷりの生き方が人気の理由のひとつでもあるのだが・・・
モハメド・アリは、その後タイトルを10回防衛。途中1976年6月アントニオ猪木との異種格闘技戦(引き分け)も経験したが、1978年2月にレオン・スピンクスに敗れてタイトルを奪われる。しかし同年9月、スピンクスに再戦し3度目の王座に返り咲くが、1980年10月にラリー・ホームズにKO負けし初防衛に失敗。続く試合も敗れ、1981年に引退(39歳)。1984年にパーキンソン症候群と診断され、現在も闘病生活を続けているが、様々な社会活動に参加し、人々を勇気づけている。1987年9月には、ボクシングの殿堂入りを果たしている。
一方、ジョージ・フォアマンは、74年キンシャサでの惨敗後2年間鬱状態に陥ってしまう。76年には4試合すべてKO勝ちしたが、77年3月のジミー・ヤング戦で敗れ、引退し牧師として教会を興す。ところが10年後、資金難(もしくは心の隙間を埋めるため)から再びリングに戻り24連勝する。91年4月、WBAチャンピオン、イベンダー・ホリフィールド戦に挑んだが惜敗。93年6月にもタイトル戦に破れたが、94年11月にマイケル・モーラーに勝ち、史上最年長(45歳9ヶ月)のチャンピオンとなる。その後、指名試合拒否があいつぎ、95年にWBA王座・IBF王座ともにタイトルを剥奪された。プロ通算成績は79戦75勝68KO4敗。なお、KO負けは1974年ザイールでの対アリ戦のみ。ちなみに、今は「ジョージ・フォアマン『Champ』グリル」(卓上電気グリル)を大ヒットさせ、料理番組にも出演しているそうである。
蛇足だが、モハメド・アリの娘ライラ・アリ、ジョージ・フォアマンの娘フリーダ・フォアマン、ジョーフレイジャーの娘ジャクリーヌ・フレイジャー、ともに娘がボクサーになったのは単なる偶然だろうか?