日本には老舗が多い≠ニ聞いてはいたが、この本を読むとその老舗のイメージががらりと変わる。失礼ながら私は老舗企業に対し、古びた機械が、古びた町の、古びた工場内で細々と稼動し、何世代も変わらず同じ製品を作り続けている≠ニいうイメージがあったのだが、豈図[あにはか]らんや、最先端の製品を世界に先駆けて開発し、他の追随を許さぬ成果を上げているというのだ。
「現存する世界最古の会社」にして「世界最長寿の企業」が日本にあるという。飛鳥時代から続いている建築会社「金剛組」だ。他にも創業千年を越える会社がいくつもあるし、創業百年以上なら十万を越える。
この数はアジアでは突出して多いのだが、ヨーロッパにもこれほど老舗が多い国はない。著者の野村進はこの理由として、アジアでは欧米の植民地主義の影響が色濃く残っているが日本はこれを免れたこと。日本人は職人を尊ぶ気質があるが他国では得てして労働を下級な仕事とみなしていること。国家政府への信頼度が日本では高いが他国では低い、等の点を挙げている。
さらにこの書では、携帯電話に関する最先端の技術を老舗企業が担っていることを例に挙げ話を展開していく。バイブレーション機能、水晶発信機回路の開発、折り曲げの技術、電磁波シールドなどは各老舗企業がそれぞれの得意分野を発展させて開発した技術だ。さらには、廃棄処分された携帯電話から金や銀を取り出す老舗企業まである。鉱山で培った製錬技術を汚染土壌の浄化に転用し、その応用として自動車や電化製品を解体再生。携帯電話もこの流れの中で宝が掘り出されているのだ。長年にわたる技術開発がなければこうした転用は不可能だろう。
さらには、醸造(発酵)技術を活かして羊の毛刈り≠不要にしアトピー改善の薬を生む。木ロウ製造技術を活かしてコピー機のトナーやFAXやCD製造に関わるなど、時代とともに応用範囲を広げる過程を追ってゆく。そして老舗企業の土台を築くのは三代目あたりの養子≠ニいう例をあげ、同じ一族経営でも儒教的家長制に固執しなかった日本的プラグマティズム≠フ許容力や柔軟性を長所として挙げている。
個人的な感想になるが、僧侶の私としては老舗の運営は他人事ではない。ある意味、宗教団体は老舗となることを強く求められる業界≠セからだ。事実、寺院は老舗≠フ頻度が非常に高い。「百年以上続く寺院」といっても、特別驚くほどの年数とはならない。そうした事情もあり私はこの本を興味深く読んだのだが、老舗会社と寺院は共通点が多々あることに気づいた。商売や製造業ではないので単純に転化はできないかも知れないが、心得としては互いに学ぶところが多いようだ。
この書で見出された老舗製造業五つの共通項≠ニしては―― 1) 血族に固執しない、 2) 時代の変化にしなやかに対応、 3) 核になる家業は守り抜く、4) 本業からかけ離れた投機はしない、5) 町人の正義(売り手よし、買い手よし、世間よし)を実践する、というものだ。これらは全て寺院運営にも当てはまる美徳ではないだろうか。特に2は教団としても常々論じられているが、宗教団体の社会的存在意義を問われる課題だろう。
では逆に、寺院の側から会社の方へアドバイスできる心得はないだろうか。こう考えた時、私は蓮如上人の言葉がいくつか浮んできた。特に『蓮如上人御一代記聞書』は、宗教書でありながら大組織の運営を背景とした内容だからだ。本願寺が五百年間に渡って繁栄を維持した礎がここにあると言えるだろう(参照:{蓮如上人が私たちに語りかけること})。
もう一度『千年、働いてきました』に話を戻すが、本書では老舗の文化的な機能≠煬ゥ逃していない。
よく人間は遺伝子の乗り物≠ノたとえられるが、人間は文化の乗り物≠ナもある。老舗企業を語る際にも「企業のDNA」といった表現がしばしば使われるけれど、この「DNA」とは「文化」と同義ではあるまいか。
とするなら、僕らも、文化というDNAを家族や社会から受け取り、それを未来の世代に引き継いでゆく、老舗企業と同じ働きをしていることになる。
そうなのだ。老舗とは、つまり僕ら自身にほかならなかったのである。[第7章]より
このように考えられるということは、老舗的な文化が特別な存在ではなく、ごく自然に社会と人間存続の土台となってくれているということでもあろう。日本では老舗は生まれるべくして生れたのだ。
手前味噌になるかも知れないが、この「文化」を「仏法」と言い換えれば、ひと昔前までの日本では、家族や社会からごく自然に仏法が伝えられ、それを未来の世代に引き継いでゆくことができた≠ニいう類似した過程の説明にもなっただろう。しかしこうした働きは老舗同様、人々の熱意があってはじめて伝承が可能となる。本書エピローグでも「老舗の看板が信用の代名詞だったのは過去の神話」とあり、老舗の倒産が最近は増加傾向にあるという。他山の石としたい。