平成9年7月

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【特集・コラム・資料】

現場の改革に学ぶ

蓮如上人が私たちに語りかけること

信心の現場に大改革をもたらした上人の偉業に学ぶ

 昔から、法の流れを水のそれに譬えることがあります。念仏は差し詰め、民を潤す大河といったところでしょう。ただし大河は、治水を施し、水路を整えてやらねば、民を潤すどころか、洪水の元となります。法も水も、どれ程多くの人の手を煩わせて、私に届けられたことでしょう。

 念仏流布の大恩人

 さて、蓮如上人の問題で、一時期「親鸞教学」と「蓮如教学」を別々に見る研究がはやりました。個性の違いをことさら強調する、という視点で思想を分析した訳です。

 当然、親鸞聖人と蓮如上人の個性は違います。育った環境も、引き受けた歴史にも違いはあるでしょう。しかし『仏教の大本流である本願念仏の流れを、正しく引き受け、人々に説かれた』という本質的なところでは、全く違いはありません。言わば、大河を発見し皆に伝えた人と、そこから水路を整えて私たちの家まで届けた人、に譬えられるのではないでしょうか。

 実に蓮如上人ほど全身で念仏を喜ばれ、すべてをなげうって法を伝えた方は他に見当たりません。上人がみえなければ、現実この私に念仏が届けられたでしょうか。

 近代の思想に重大な欠陥があったとすれば、こうした『蓮如を評価しない姿勢』が象徴する「人々の実生活を無視し、理論上の思索に明け暮れた」結果に因るのではないでしょうか。

 時代を引き受ける

 蓮如上人の生きた時代は五百年以上の時を隔てていながら、現在の日本の状況に、ある部分よく似ていたと思われます。

 時は室町時代後期。為政者や宗教者に権力はあるが権威は無く、人々は互いに信頼関係を結べず、各地で小競り合いが繰り返される――こうした中、人々はその日その日を生きるため、目先の利益に血眼になり、骨肉の争いも辞さず、仏法を聞く時間も心の余裕も無い状況にありました。

 そんな時代にあって上人は、自身の信心の喜びを何とか人々に伝えたい、という思いから、教えを簡潔に絞り込んで伝える努力をされました。

 言葉を削り伝える

『御文』等をも近年は御ことばすくなにあそばされ候ふ。いまはものを聞くうちにも退屈し、物を聞きおとすあひだ、肝要のことをやがてしり候ふように
【意訳】
 御文章なども、最近は、言葉少なくお書きになっています。「今はわたしも年老いて、ものを聞いているうちに嫌気がさし、うっかり聞きもらすようになったので、読むものにも肝心かなめのところをすぐに理解できるように・・・」

と『蓮如上人御一代記聞書』(第七〇章)にありますように、相手の聞く気の無さを受け止め「十のものを一つに」削り込んで伝えられます。猛勉強家の上人だけに不本意だったかも知れませんが、忙しさを言い訳にはしませんでした。

聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり、『御文』は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきわまりなり。(聞書五三)
【意訳】
 「・・・お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。御慈悲のきわまりです。
 こうした努力の甲斐あって、念仏は全国津々浦々にまで浸透してゆきます。そして、
ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし(聞書六二)
【意訳】
 いつも絶えることなく念仏を称えていたので、ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。
と、微笑ましく伝えられるように、念仏三昧の日暮らしが、民衆の生活に実現されたのでした。

蓮如上人御一代記聞書から

 伝道者たるものかくあるべしと

「布教の天才」というと、テクニックをイメージされてしまいますが、上人の布教方法は、人間を知りぬき、惚れぬいた末に編み出された、ある種「普遍的な成功論」とも言うべきものでしょう。

 『蓮如上人御一代記聞書』は、そうしたエッセンスが凝縮された書であり、門徒、寺族はもちろん、どんな立場の人にでも参考になるものです。

 ここで、その一端をひもといてみましょう。

 まず発言をしよう

 『聞書』を読んでまず気づくことは、とにかく「活発な発言」を奨励していることです。例えば

仏法談合のとき物を申さぬは、信のなきゆゑなり(二〇三)
【意訳】
 仏法について話し合うとき、ものをいわないのは信心がないからである。

人はかろがろとしたるがよきと仰せられ候ふ。黙したるものを御きらひ候ふ(三一一)
【意訳】
 「・・・わが身を軽くして努めるのがよい」と仰せになりました。黙りこんでいるものをおきらいになりました

と、あります。これはちゃんと意味があって、
物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり(八六)
【意訳】
 ものを言えば、心の奥で思っていることもよくわかるし、また、間違って受けとめたことも人に直してもらえる。

わが心中をば同行のなかに打ちいだしておくべし(一〇七)
【意訳】
 心に思っていることを同じみ教えを信じる仲間に話しておくべきである。

 このように、発言した事によって、人から自分の心得違いを直してもらえるわけです。しかし、大抵の人は(特に日本人は)シャイで、会議の時など、多くの人が黙ってうつむいているだけ、という光景を目にします。

まきたてわろきなり、人に直されまじきと思ふ心なり(一〇六)
【意訳】
 まきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。
 上人はこのように見抜かれて、何度も注意されたのでしょう。その上で、自身の問題については、
わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。聞きて心中をなほすべきよし(一二六)
【意訳】
 面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである。
と、常に気をつけてみえた訳です。

 まるで親のように

「人の信なきことを思ふことは、身をきりさくやうにかなしきよ」(一一一)
【意訳】
 人々に信心のないことを思うと、この身を切り裂かれるように悲しい。

ことばにては安心のとほりおなじやうに申され候ひし。しかれば信治定の人に紛れて、往生をしそんずべきことをかなしく思し召し候ふ(一八三)
【意訳】
 ただいま、どなたも口では、安心について受けとめているところを同じように申された。そのように言葉の上だけで同じようにしているから、信心が定まった人とまぎれてしまい、往生することができない。わたしはそのことを悲しく思うのである。

 ここまで他人の心配をする人が果たしているでしょうか。これはほとんど親の立場です。ドライな感覚からすれば「余計なお世話」とも取れますが、無責任な為政者や宗教者がはびこる現代には、逆に今一番ほしい感情でもあります。

 また、参詣者や同行を大切に思うこと人一倍で、

同行をかたがたと申すは平懐なり。御方々と申してよき(二五八)
【意訳】
 念仏の仲間を<方々>というのは無作法である。<御方々>というのがよい。

信をえたらば、同行にあらく物を申すまじきなり(二九一)
【意訳】
 信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものをいうこともなくなるはずである。

御門徒衆をあしく申すことゆめゆめあるまじきなり(二九三)
【意訳】
 ご門徒の方々を悪くいうことは、決してあってはならない。

等、口を酸っぱくして注意された様子がうかがえます。

 信心の問題には厳しく臨まれる

 同行を大切にされる上人ですが、だからこそ信心の問題には厳しく臨まれます。

聖教は句面のごとくこころうべし、そのうえにて師伝・口業はあるべきなり(八九)
【意訳】
 お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。
 これはどんな道にも当てはまる言葉でしょう。まず私心なく伝えることが肝要で、自分勝手な解釈を警戒しています。そして、
わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬはあさましきことなり。宿善なくはちからなし。わが身をひとつ勧化せぬものがあるべきか(六五)
【意訳】
 わが妻わが子ほど愛しいものはない。この愛しい妻子を教え導かないのは、まことに情けないことである。ただそれも過去からのよい縁がなければ、力の及ぶところではない。しかし、わが身一つを教え導かないでいてよいものであろうか。
と、自らの勧化をおろそかにしては、家族や他人への勧化はおぼつかないと『自信教人信』の大切なことを示されています。そして、
信のうへは仏恩の称名退転あるまじきことなり(一七八)
【意訳】
 信心をいただいた上は、仏恩報謝の称名をおこたることがあってはならない。

信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり(一七九)
【意訳】
 信心をいただいた上は、尊く思って称える念仏も、また、ふと称える念仏も、ともに仏恩報謝になるのである。

 このように、他力の念仏は、自分の感情や条件で左右されることなく、ただ申すことに尽きる、と示されています。

 現在と課題は同じ

一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおおきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ(一二一)
【意訳】
 一宗の繁昌というのは、人が多く集まり、勢いが盛んなことではない。たとえ一人であっても、まことの信心を得ることが、一宗の繁昌なのである。

さて一生をかけた布教伝道によって、「仏国のようだ」と、言われるほど栄えた教団ですが、参拝者が多ければ良い、という考えではなく、あくまで信心の有無を問いかけます。そして、

わかきとき仏法はたしなめ(六三)
【意訳】
 仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。

悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよ(三〇二)
【意訳】
 悪い人のまねをするより、信心がたしかに定まった人のまねをしなさい。

等、当時の人々への呼びかけは、今の私たちにも、同じ重さの課題として、届けられています。

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