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【Oの食卓に花束を】

法事の果物

体裁さえ整えば良い?

よそめにも尊かりけりみ仏のみ姿拝む人の姿は
(甲斐和里子)

「かつては」という言葉を最初に付けなければならないのは残念な話だが―― かつては、仏事の供物[くもつ](お供え物)は普段以上に心を込めて用意させていただくものだったと聞く。もちろん今でも、当事者や僧侶にとっては当たり前の事だが、周囲の人たちや業者など間接的に関わる人たちも格別な配慮を心がけていたという。美しくまた頭の下がる話だ。ぜひそうした風習は広く残しておきたい。
 ところが先日、全く逆の話を耳にした。
 果物屋に法事のお供え物を買いに行ったところ、「仏前に供えるための果物だったら売らない」と言われたそうだ。店に並んでいるのは高級な果物ばかりで、「法事に使うような安物の果物とは違う」と言うのだ。これは果物屋の主人の信念だそうだが、何とも寂しい信念ではないか。 イメージ

 おそらくその主人の価値観では、宗教行事は体裁さえ整えておけば内容はどうでもいい≠ニいう程度のものなのだろう。内容を問わないような行事であれば、お供え物も内容を問う必要はなくなる。内容を問わない供物に自慢の品を用いられる事が彼には我慢できないのだろう。邪推かも知れないが、もっとはっきりその心理を読めば死んだ先祖に果物を供えるなんて無駄だ。どうせ先祖は食えないのだから、生きてる我々が早く食べよう≠ニ言っているのではないだろうか。
 友人はそのまま納得して別の店で果物を買い直したそうだが、私だったらうちの先祖に何か恨みでもあるのか?≠ニ、果物屋の主人を問い正すところだ。自分が大切にしているものを蔑ろにされたら、黙って引くわけにはいくまい。喧嘩をする気は無いが、放置すれば邪見が蔓延してしまう。

 本来お供え物というのは、自分の身を低くして[へりくだ]り、如来や菩薩や相手を尊敬して物心を捧げるものである(参照:{供養如意の願})。ゆえに供物に選択されることは実に名誉なことであろう。目的が供物と聞けば、売り手も常以上に気を配るのが本来だ。
 先人たちはこのようにして尊い懇念を捧げ、真心を繋げてきた。私たちも真摯な態度で仏徳を尊み、先祖の遺徳に手を合わせてゆきたい。

[Tetsubuta]


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