「今はどう思ってるの?」と聞かれると困るが、子どもの頃は寺の住職をしている父親を「尊敬していた」――というと大げさだが、少なくとも「立派な仕事をしているんだな」と思っていた。
いや何、そう思った理由は、別段父の言動が立派だった訳ではない。ただ、お経勤めから帰った父親が、袂から「ほいっ」と出す饅頭を見て、“こんなに美味しいお菓子を行く度にもらって来るんだから、さぞ門徒の人たちから慕われているんだろうな”と、漠然と感じていただけのことである。
本当は、行く先々で出されるお茶菓子を全部食べていたら胸焼けするし、かといって先方がわざわざ用意して下さったものを無視して帰る訳にもいかず、包んでもらってきただけのことだったのだが……
◆ 地に落ちた信頼
子どもでもそう感じるのだから、犬にとってみれば、一番信頼しているのは遊んでくれて餌を与えてくれる人であろう。事実、我が家のペスも、普段餌を作ってくれる母親にはなつくが、勉強(?)で忙しく、接する機会が少なくなった私を見ても、だんだん尻尾さえ振らなくなってしまった。
やがて大学を出て就職する頃になると、毎日午前様で全く顔を合わせない日も多くなり、たまに会っても無反応になってきてしまった。
「こんなことではいかん!」と思い直し、真夜中に散歩に連れ出したのがまた悲劇の始まり。久々なので張り切って走る私に引きずられるようにして後をついてきたペスだったが、突然、道路標識の支柱に鼻っ柱をいやという程ぶつけてしまったのである。驚いた私が、月明かりをたよりにペスの眼を見ると、白内障が進んで既に黒目が消えていたのだった。
「ごめんねーー」と何度も謝ったが、もう遅い。これで私への信頼は地に落ちてしまったであろう。
思えば私のやる事はいつも自分勝手で、相手の気持ちに添って行動することは少ない。「白内障だったことも知らなかったの?」と詰問されても肯くしかない私なのだった。
◆ 最期まで立ち上がろうとする姿
その後はさすがに反省し、なるべく触れ合う時間を持つようにしていたが、犬の寿命は短い。だんだん耳も聞こえなくなってきて、猫が来ても、泥棒が来ても全く吠えなくなってしまった。
ある年、ひときわ暑い夏が訪れ、ペスは食が細りげっそりと痩せてしまった。やがて秋風が吹き始めた頃、著しく体調を崩したのだが、それでも決して寝そべったまま死を迎えるようなことはしなかった。動物というのは凄いもので、息を引き取る前夜も、ほとんど機能しなくなった足を震わせて、必死に身体を支えていたのだ。どうして無理に立ち上がろうとするのか私には分からなかったが、それが生命の指し示す方向なのだろう。
月明かりに照らされたペスの震えて立つ姿は、今も私の目に焼き付いて離れない。それは犬の姿であっても人間のいのちとも深くつながる光景だった。
やつの一生は極めて地味なものだったかも知れない。しかし、地味だからといって周りに影響を与えない訳ではない。現に今の私の身体には、ペスと過ごした時間が確実に染み込んでいるのだ。
[Shinsui]