カクター河を後にし、ヒラニャヴァティー河の彼岸にあるクシナーラーのマッラ族のウパヴァッタナに赴かれた釈尊は、「サーラの双樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」と言われます。
「かしこまりました」と、尊師に答えて、アーナンダはサーラの双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いた。そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた。
さて、そのとき沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それらの花は、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。また天のマンダーラヴァ華は虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。天の栴檀の粉末は虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。天の楽器は、修行完成者に供養するために、虚空に奏でられた。天の合唱は、修行完成者に供養するために、虚空に起った。
このような壮大な供養が自然界や天界で繰り広げられましたが、これについて釈尊は、――
しかし、アーナンダよ。修行完成者は、このようなことで敬われ、重んぜられ、尊ばれ、供養され、尊敬されるのではない。アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行っている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊び、尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。それ故に、ここで「われらは理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行なう者であることにしよう」と。お前たちはこのように学ばねばならぬ。アーナンダよ。
ここでは、儀礼中心であったバラモンの宗教を、暗に否定しているとみて良いでしょう。さらに言えば、昨今の過度な葬式儀礼も批判されてしかるべき、というところでしょうか。
さて、そのとき若き人ウパヴァーナは、釈尊の前に立って釈尊を煽いでいたのですが、釈尊はそこを去るように言われます。アーナンダはその意味が分からずたずねると、釈尊は――
アーナンダよ。十方の世界における神霊たちが修行完成者に会うために、大勢集まっている。アーナンダよ。クシナーラーのウバヴァッタナ、マッラ族の沙羅樹林には、周囲十二ヨージャナにわたって取り巻いて、大威力のある神霊たちが集まっていてそれに触れていて、兎の毛の尖端で突くほどの隙間も無いほどである。
と言われ、その神霊たちが釈尊の姿を見ることが出来ず、嘆いていることを告げます。ここで、「ヨージャナ」とありますが、これは距離の単位で、1ヨージャナは帝王が1日に行軍する距離といわれ多分十数km(大体12〜13kmか?)と考えられています。「十二ヨージャナ」ということですから、150〜160km位でしょうか。
また、虚空や地にある神霊たちは皆、釈尊の亡くなるのを大いに嘆き悲しんでいるのですが、「それらの神霊たちは情欲を滅び尽くしていて、こころに念い、よく気をつけているので堪え忍んでいた」ということも説かれます。
また、修行僧たちは雨期の定住生活の前と後に釈尊を訪ねてくる慣わしがあったのですが、釈尊亡き後のことを心配し、アーナンダが尋ねると、釈尊は――
アーナンダよ。信仰心のあるまじめな人が実際に訪れて見て感激する場所は、この四つである。その四つとはどれどれであるか?
「修行完成者はここでお生まれになった」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所(霊場)がある。
「修行完成者はここで無上の完全なさとりを開かれた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所がある。
「修行完成者はここで教えを説きはじめられた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所がある。
「修行完成者はここで煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所がある。
アーナンダよ。これら四つの場所が、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所である。アーナンダよ。信仰心のある修行僧・尼僧たち、在俗信者・在俗信女たちが、「修行完成者はここでお生まれになった」、「修行完成者はここで無上の完全なさとりを開かれた」、「修行完成者はここで教えを説きはじめられた」、「修行完成者はここで煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られた」といって(これらの場所に)集まって来るであろう。
アーナンダよ。誰でも、祠堂(チェーティヤ)の巡礼をして遍歴し、浄らかな心で死ぬならば、かれらはすべて、死後に、身体が壊[やぶ]れてのちに、善いところ、天の世界に生れるであろう。
と、このように答えます。ここで書かれてある場所は、実際には以下の通りです。
次にアーナンダは、出家者は「婦人に対してどうしたらよいのでしょうか」と、聞きますと、釈尊は「見ないことだ」「話しかけないことだ」「正しい思念を保っておれ」と慎むことを勧めます。
さらにアーナンダは、修行完成者の遺体の対して質問をしますと、釈尊は出家者には「遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな」と修行に専念すようさとし、如来に対して特に深い崇敬の念を懐いている賢者たちが王族やバラモン資産家などの中にいるので、彼らにまかすように指示します。またアーナンダが遺体の取り扱いについて質問すると、「世界を支配する帝王(転輪聖王)の葬法にならって扱うがよい」とし、具体的には、――
アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を新しい布で包む。新しい布で包んでから、次に打ってときほごした綿で包む。打ってときほごした綿で包んでから、次に新しい布でもって包む。このようなしかたで世界を支配する帝王の遺体五百重に包んで、それから鉄の油槽に入れ、他の鉄の油槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、世界を支配する帝王の遺体を火葬に付する。そうして四つ辻に、世界を支配する帝王のストゥーパをつくる。アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体に対しては、このように処理するのである。
アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を処理するのと同じように、修行完成者の遺体を処理すべきである。四つ辻に、修行完成者のストゥーパをつくるべきである。誰であろうと、そこに花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を清らかにして信ずる人々には、長いあいだ利益と幸せとが起るであろう。
こうした方法でストゥーパ(塔もしくは塚)をつくって拝むに値するのは四種の人々で、その四種とは『如来、尊敬されるべき人、正しいさとりを得た人』、『独りでさとりを得た人(独覚)』、『如来の弟子(声聞)』、『転輪聖王』であり、どういう理由でストゥーパの建立に値するかというと、――
「これは、かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いたひとのストゥーパである」と思って、多くの人は心が浄まる。かれらはそこで心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の世界に生れる。
また『独覚』『声聞』『転輪聖王』についても同様であることを述べられます。
◆ アーナンダの号泣
さて、アーナンダは、釈尊が間もなく入滅されることが悲しく、精舎の中に入って、戸の横木によりかかって泣いていました。その様子を知ると、釈尊は次のように教えます。
「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。わたくしはかつてこのように説いたではないか、――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。かかることわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。務めはげむことを行なえ。速やかに汚れのないものとなるだろう」
そして、修行僧たちに、「アーナンダは賢者である」とたたえ、また「四つの不思議な珍しい特徴がある」とし、――
修行僧たちよ。もしも修行僧の集いが…乃至…尼僧の集いが…乃至…在俗信者の集いが…乃至…在俗信女の集いが、アーナンダに会うために近づいて行くと、かれらは、会っただけで心が喜ばしくなる。そこで、もしもアーナンダが説法するならば、説法を聞いただけでもかれらは心が喜ばしくなる。またもしもアーナンダが沈黙しているならば、修行僧の集いは、かれを見ていても飽きることが無い。
修行僧たちよ。アーナンダには、この四つの不思議な珍しい特徴があるのである。
と、たたえます。
◆ 大善見王の物語
このように言われて、アーナンダは釈尊に「このような小さな町、竹薮の町、場末の町でお亡くなりになるのはお止め下さい」と、懇願しますが、釈尊は、このクシナーラーは、かつて『大善見王(マハースダッサナ)』という転輪聖王の治める帝国の首都『クサーヴァティー』で、 「長さは東西に十二ヨージャナあり、幅は南北に七ヨージャナあった(1ヨージャナ=十数km)」と、また「クサーヴァティーという首都は栄え、裕福で、人民が多く、人々に満ち、食物も豊かであった」と、その都市の規模の大きさを教えます。
ちなみに『法顕本』には、「この大善見王こそ我である」とし、――
「我れ、此の城市において転輪聖王となって、はかり数えることのできない程、無量の衆生を利益することを成就した。今や、諸々の天神が虚空に充満しているが、皆、これ、我れ昔王たりし時、諸々の善法で教化した者たちである。その天神たちが今日、またこの城市にあって、我が般涅槃を見んとしている。
と、その様子を語っています。
◆ マッラ族への呼びかけ
やがて釈尊の指示で、クシナーラーの住民のマッラ族の人々が集まったため、アーナンダは、「家族ぐるみ一団となってまとめて立たせて」、釈尊に敬礼せしめます。
◆ スバッダの帰依
そのとき、クシナーラーに住んでいるスバッダという遍歴者が面会を求めに来ました。アーナンダは三度断わりますが、釈尊は面会し、問いを受けます。
ゴータマさんよ。この諸々の修行者やバラモンたち、つどいをもち徒衆をもち徒衆の師で、知られ、名声あり、宗派の開祖として多くの人々に崇敬されている人々、例えば、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプッタ、ニガンタ・ナータプッタ――かれらはすべて自分の智をもって知ったのですか? あるいは、かれらはすべて知っていないのですか? そのうちの或る人々は知っていて、或る人々は知らないのですか?
実はスバッダについては、「年は百二十」、「聡明にして多智」で「一切の人にたっとばれ尊敬されていた」となっている本(法顕本)もありますが、上記の質問を読む限り、かなり失礼な言い方のようです。だいたい臨終を迎えていた釈尊に面会を求めるところからも、かなり強引な性格が伺えます。
これに対し、釈尊は、――
やめなさい。スバッダよ。「かれらはすべて自分の智をもって知ったのですか? あるいは、かれらはすべて知っていないのですか? そのうちの或る人々は知っていて、或る人々は知らないのですか?」ということは、ほっておけ。スバッダよ。わたしはあなたに理法を説くことにしよう。それを聞きなさい。よく注意なさいよ。わたしは説くことにしよう。
と質問を遮り、直接答えることなく、自分の立場で真理の要点を述べられます。
スバッダよ。いかなる教えと戒律においてでも、『尊い八支よりなる道』(八正道)が存在すると認められないところには、第一の『道の人』は認められないし、そこには第二の『道の人』も認められないし、そこには第三の『道の人』も認められないし、そこには第四の『道の人』も認められない。しかしいかなる教えと戒律においてでも、『尊い八支よりなる道』が認められるところには、第一の『道の人』が認められし、そこには第二の『道の人』も認められ、そこには第三の『道の人』も認められ、そこには第四の『道の人』も認められる。この(わが)教えと戒律とにおいては『尊い八支よりなる道』認められる、ここに第一の『道の人』がいるし、ここに第二の『道の人』がいるし、ここに第三の『道の人』がいるし、ここに第四の『道の人』がいる。他のもろもろの論議の道は空虚である。――『道の人』を欠いている。スバッダよ。修行僧はここに正しく住しなさい。そうすれば、世の中は真人たちを欠くことの無い(継続して出る・充満する)ものとなるであろう。
スバッダよ。わたくしは二十九才で、何かしら善を求めて出家した。
スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には『道の人』なるものも存在しない。
第二の『道の人』なるものも存在しない。第三の『道の人』なるものも存在しない。第四の『道の人』なるものも存在しない。他の論議の道は空虚である。――『道の人』を欠いている。スバッダよ。この修行僧たちは、正しく住すべきである。そうすれば、世の中は真人たちを欠くことの無いものとなるであろう。
こうして教えを受け、感激したスバッダは、釈尊最後の直弟子としてに帰依し、(他宗教を奉じていたため)四ヵ月の間比丘の集いの観察を受けて出家し、やがて尊敬される人(阿羅漢)の一人となったと伝えられます。
ところで、ここに出てくる「第一の道の人」から「第四の道の人」までが出てきますが、これは、小乗における修行段位で、下から順に、
となっています。また、それぞれの段階にまた「志向する者(向)」と「結果を得た者(果)」の二種類あるとされていますので、『預流向』、『預流果』、『一来向』、『一来果』、『不還向』、『不還果』、『阿羅漢向』、『阿羅漢果』これらの聖者たちをまとめて『四向四果』、『四双八輩』などと言います。
ちなみに『四向四果』について、辞典では
預流向は三界(欲界・色界・無色界)の見惑(八十八使)を断じつつある見道十五心の間をいい、見惑を断じ終って、第十六心である修道に入ると、これを預流果という。となっています。
一来向は欲界の修惑[しゅわく]の九品[ぼん]のうち、六品の修惑を断じつつある位をいい、それを断じ終った位を一来果という。
不還向はさきの修惑の残り三品を断じつつある位で、これを断じ終るとき、不還果という。ここでは再び欲界に還ることがないので不還の名がある。
阿羅漢向は阿羅漢果に至るまでの位で、阿羅漢の境地(阿羅漢果)に至ると、一切の見惑、修惑を断じ、迷いの世界に流転することなく、ニルヴァーナ(涅槃)に入ることができる。なおこの外に煩瑣[はんさ]な解釈がある。[仏教語大辞典/中村元著・東京書籍]
ヒラニヤヴァッティー河に関する第五章 終る