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アジアの仏教

タイ・東南アジア

【アジアの仏教】

 タイの稲作と王政

 タイは王政の国です。そのタイに王国ができたのは稲作にとても深い関係があるといいます。
 稲作の変遷を四期に分類すると──
[第一期] B.C.6000年くらいに山の尾根や斜面で、品種としてはジャワ型のお米であるジャポニカの栽培が行われていました。
これを陸稲(おかぼ)といいます。
[第二期] 陸稲は連作が不可能なため、人々は山の栽培地から谷間の方へとおりてきました。谷間の水田ではジャポニカ(もち米)が栽培され、連作が可能になりました。栽培に必要な水は天気任せであったので、この時の水田は特に天水田と言われます。
[第三期] 人々はより栽培しやすい地を求め、平野部での栽培を始めます。アッサム・雲南地方からインドを経由したルートによって、A.D.500年代にインディカ種(うるち米)が入ってきて、10C.〜18C.に定着しました。平野部での栽培は、潅漑設備のある水田で行われました。この “潅漑” とは、水の管理をする、ということをあらわします。つまり、水の管理者=権力者が出現し、そして、王国ができるようになった、と考えられるのです。
[第四期] 18世紀以降、稲はデルタ地帯で栽培されるようになりました。デルタ地帯(河口近くの三角形の砂地)ですから、水田に植えるのではなく『浮き稲』という方法をもちいました。皆さんはこの時からジャワニカ、ジャポニカ、インディカの三種のうち、どの品種が作られていったと思いますか? 答えは、インディカです。どうしてかというと、ジャポニカを栽培するよりも、より多くの収穫量があるからなのです。しかし、今ではそんなにも量は作らずに換金作物を作る、という形態になっています。
 このようにタイにおける稲作の変遷があるのですが、王国成立期となる第三期初期の様子を、もう少し詳しく見てみましょう。

 仏法に基づく統治

 タイ族と呼ばれている民族は、元来中国の華南方面に住んでいて、漢民族の勢力拡大により南下移動をし、インドシナ半島の方に部族国家を形成するようになったと考えられています。

 タイ族が、本格的に国家を統一した初めての国王朝は、1238年にクン・バン・クラン・ダオによって創始されたスコータイ王朝です。スコータイの王たちは、仏法に基づいて統治をおこない、仏法僧の三宝を擁護する正法王となることにより、支配を正当化し民衆の支持を得ようとしました。彼らの王権思想は後のタイ国の社会、政治組織に大きな影響を及ぼすことになります。また、平日は王宮内の砂糖ヤシの林の中の王座で政務を執り、安息日には高僧を招き説法をさせた、という碑文の内容から祭政一致体制のもとに臣下に対しては家父長的権威を持っていたのであろう、ということがうかがえます。

 外来文化を積極的に取り入れるとともに、民族の独自性を保ち続ける、といったことは、建築様式や仏像彫刻などにおいて、このスコータイ期から見られているのです。

 例えば、寺院建築では周辺各国の建築様式を取り入れたり、仏像においては独自の彫刻様式を発達させたりしています。

 王室主導型の仏教

 古来からタイ国王は『仏教至高の擁護者』とされ、サンガの王を任命します。このようにすることで政治権力と宗教権力とを切り離します。これは、1932年にクーデターが起き立憲君主国になっても変わりなく続いています。

 タイだけではなく、スリランカ、ミャンマーについても共通の現象といえるのは、南方仏教が歴史的に王室主導型の仏教とし発展、定着してきた、という点です。現代では、信仰の自由という考えと相まって、国家が仏教サンガや信仰を支配することは許されていませんが、社会全体に仏教的価値観が根強く認められているため、個人の宗教に対する意識がどうであれ、また多くの問題点を抱えながらも、タイなどにおける仏教は一つの文化として守られていくであろう、と考えられています。


 東南アジアの仏教

 インドと東南アジア諸地域との海上交通路による接触はとても古く、A.D.2C.〜1C.にさかのぼります。この時期からインドの政治や行政の形態、美術や言語など数多くの文化が伝播し、東南アジアはインド文化を受け入れていきました。

 この中には宗教的思想、信仰も入っていて、現在でもヒンドゥー教の神々や神話、世界観、儀礼は各地にさまざまな影響を与え続けています。

 ヒンドゥー教だけでなく仏教もインド文化の一つとして受容されました。最初期はセイロンの上座部系仏教でしたが、後にインドで大乗仏教や密教が成立すると、同じように東南アジアへと教えが入ってきました。

 タイ、カンボジア、ミャンマーでは宗教的、社会的、政治的理由から上座部仏教を国教として定めましたが、最初からその教えがスムーズに広まっていたから選ばれた、というわけではなく、混沌とした動きの中から選び取られ、国教として発展してきたのです。教えの規範としては、インドの律がよりどころとなって、東南アジアの南方仏教に大きな存在意義を持っています。

 仏教徒の日常生活において旧来の民間信仰は、というとそのまま保存、受容されました。例えば、稲作農耕民の持つ稲魂の考え(米粒一つ一つには稲魂が入っている)や稲にまつわる神話や儀礼などが当てはまります。

 仏教の発展にともなって、民間信仰の中の祈祷の文句や呪文に仏教の観念や述語が取り入れられていったり、民間信仰の儀礼を比丘が司るようになったりと、お互いに影響を与えあっている面もあるのです。

[E.Hon]

◎資料

ボロブドゥール寺院  ボロブドゥールは、大乗仏教を奉じて中部ジャワに君臨したシャイレンドラ王朝が、その最盛期、すなわち8世紀後半に建立したといわれている。しかしこの巨大な遺跡、はたして何であったのか、ストゥーパなのか曼陀羅なのかも特定されていない。日本では752年に奈良東大寺の大仏開眼が行われているし、韓国慶州の仏国寺釈迦如来像も752年建立である。つまり当時、仏教はアジア全土に広がりをみせており、それぞれの地域で高度の技術と芸術性を持っていたことが分かる。

[ボドブドール・よみがえる遺跡群]より


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