二千五百年前、インドで起こった仏教は、現在に至るまでアジア全地域にわたって広まり、人々の心の支えになってきました。しかし排他的な性格を持たない仏教は、すべての地域を一括するような組織や形式を持たず、その地域の風習や宗教と融合しながら、特徴のある仏教を形成してきました。
そこで簡単な仏教布教史(主に大乗仏教)と、各地域の布教形成過程について少し紹介していきましょう。
釈尊在世中、布教はガンジス川流域の限られた地域に集中して行われていました。しかし仏陀の入滅後、弟子たちは、仏陀の死によって、師の偉大さを改めて認識し、彼らを積極的な伝道へと駆り立てます。
まず釈尊入滅後間もなく、ラージャグリハ(王舎城)において『第一回仏典結集』が行われました。そしてまとめられた法を中心に、広く辺国にまで伝道がなされます。その結果、仏入滅後百年頃には、西方の勢力が東方の旧勢力に対抗できるほど発展しました。
旧勢力の教団の中心はヴァッジー族出身の多数比丘たちでしたが、戒律上の問題で西方のパーティヤおよびアヴァンティ・ダッキナーパタ地方の新勢力の教団と対立し、ついに上座部と大衆部に分裂します。これを根本分裂といいますが、この混乱の中で『第二回仏典結集』が開催されます。ちなみに、ここでいう大衆部が大乗仏教につながった、という説には確たる証拠はありません。
伝道に積極的だったのは僧侶だけではありませんでした。マウルヤ王朝第三代アショーカ王は、インド史上最大の帝国を建設しますが、その際、カリンガ国との戦争(B.C.263年頃)の惨禍を目の当たりにして、仏教帰依の念を深くします。その後、彼は侵略戦争を止め仏教布教に専心したため、インド国内はもとより南は東南アジア(スリランカには王の息子マヒンダを送る)北はネパールをはじめとして中央アジア(当時はギリシャの支配下にいた)にまで仏教が伝わっていきます。
こうして仏教はかなり広い地域に伝道されましたが、皮肉なことにこれが戒律や教義上の対立を引き起こし、アショーカ王自身でさえ収集が付かなくなってしまいます。やがて教団は分裂に分裂を重ね、戒律は些細な事にこだわり、教えはより難解になっていきました。
こうした中でおこなわれた『第三回仏典結集』(B.C.244年)も、一般民衆の救いとは縁遠いものでした。人々は難解になった部派仏教の教えより、遠く釈尊そのものに憧その偉大な姿を懐かしみました。そこで彼らは釈尊の遺骨を敬い、舎利塔に集まりましたが、次第に法を求めるようになります。しかし当時の民衆に難解な教えは理解できず、厳しい戒律も守れるはずはありません。
そこで、彼らに理解しやすく、戒律も緩やかな教えが集められ、それを聞く集会も開かれました。そして次第に在家の教団として勢力をのばしていきます。この流れがやがて大乗仏教運動に影響を与えるのですが、この運動が花を開くのは西暦1〜3世紀、『般若経』『法華経』『華厳経』『無量寿経』『維摩経』などの初期大乗経典が制作され、ナーガールジュナ(竜樹A.C.150〜250頃)らによる空思想の理論的研究を待たねばなりませんでした。
このようにインドで起こった仏教は西域を経て中国に伝わるのですが、西域とは中国の西の関門である玉門、陽関以西の広大な地域を指します。この地方は交通の困難、風土の辛苦のため、西北インドから伝わった仏教(主に大乗仏教)も徐々に変化を受け、インド仏教とは異なる独特な仏教を誕生させました。
西域仏教の特徴は、まず美術様式の多様性にあります。周りを中国、インド、イラン、ローマといった大国に囲まれ当然その影響を受けざるを得なかったのです。また弥勒信仰も盛んで、これは『大仏思想』と深い結び付きがあり、インドでは単に修行中の菩薩であった弥勒が、中央アジアでは聖俗両面にわたる救世主といった性格を表します。ここにも苛酷な自然と豊かなオアシスという環境が影響しているようで、特に、自己犠牲を強調した本生図などは、インドの生命尊重の思想とは著しく趣が異なっています。
西暦1〜3世紀当時、政治的にはクシャーナ王朝がインドと中央アジアにまたがる大帝国を建設していたため、仏教はいよいよ中国に伝わっていきます。この時伝わった仏教はまさに西域独特の仏教でした。
もちろんインドから南方海路をへて伝わる仏教もありましたが、北方陸路から伝わる西域仏教に及ぶことはできません。中国がインドの仏教を直接知るようになったのは東晋の時代ですが、ともかく中国に於いて300年間一方的に伝わった西域の仏教は、後に中国から仏教を受容する朝鮮や日本にも多大な影響を与えたことは確かなようです。
なお、ここ西域において仏教は、10世紀以後徐々に回教文化に征服されるまで、千年にわたって政治や文化の指導的な役割を果たしていきました。
中国仏教については大きな流れのみを追ってみたいと思います。
中国に仏教が伝わったのは文献上、西暦67年、後漢明帝の求めに応じてとされています。もちろんそれ以前から信奉者はあったようですが、ともかく前述のように西域からの一方的な仏教伝播でした。これより三百年以上にわたって、仏典の漢訳は主にインド人など外国の僧侶に任されました。また、老荘思想をもって仏教を理解しようとしたため『涅槃』を『無為』としてとらえた人もいました。
西暦413年、長安において鳩摩羅什(西域のクチャ出身)が『摩訶般若波羅蜜経』『妙法蓮華経』『阿弥陀経』『大智度論』『中論』などの大乗経論を訳し終えます。鳩摩羅什以後の中国仏教は独自の価値判断が示される時代に入ります。その際、個人が自分の立場を明確にした上、一つの「経」もしくは「論」を根拠に、他の経論をそれに従属させて考える教相判釈という方法をとります。曇鸞大師が仙経を焼き捨てて浄土教に帰した、というのもこの頃(526年)の有名な逸話です。
なぜこのような教相判釈が行われたかというと、歴史的に発達、もしくは変化して制作された数多くの経論が、雑然と漢訳されたためと思われます。そして、これら全体を釈尊一人が説いたのだ、と考えた中国の思想家にとって、当然起こってくる矛盾をいかに解消するか、頭の痛い問題だったに違いありません。
西暦552年中国仏教では仏入滅千年を過ぎ、時代は末法に入った(五百年ごとで数える)と、判断しました。そのせいもあり、各自が教相判釈を推し進め、自分たちの教えの優位を主張するようになります。これが『宗派』を生む結果となり、代表的なものを総括して『南三北七の十師の教判』といわれました。
この頃(隋、唐)は中国仏教が全盛の時代で、その特色は後に日本にも影響を与え、仏の真意を明らかにしようとすればするほど、よりどころとなる経典を明確にする必要に迫られたのでした。
このように独自性をもった各宗派は、それぞれの経論を深く掘り下げ、教えの実行と継承に力を注ぐことになります。しかし近代に至るまで禅宗とチベット系以外の、教学中心の仏教は全体として固定化、衰微の傾向が続いていきました。
そして今世紀半ば、社会主義体制下においての仏教は衰退の一途をたどり、一時は壊滅的な状態でした。それでも文革終了後は徐に活動が再開されて、若い僧尼も着実に増えているようです。
吐蕃(チベット)において仏教が受け入れられるのは、チベット民族を統一したソンツェン王の時代(A.D.7世紀)からです。王には多くの妃がいましたが、ネパールからブルークティー妃を迎えた時、彼女が熱心な仏教徒だったためチベットに仏教が広まっていきます。また軍事的に吐蕃は強大で、侵略を恐れた唐からも、文成公主の入嫁をみますが、彼女もまた熱心な仏教徒でした。
このようにして仏教を受け入れたチベットでしたが、当時この国には文字がありませんでした。そのためトンミ・サンボーターら一行をインドに留学させ、サンスクリット語の文字を音で当てはめて仏典を訳しました。これが初の文字であり、チベット文字はここに誕生したのでした。
西暦8世紀に入って、チソン王の時代にチベットは全盛を迎えます。763年には中国の長安を占領し、東西交通路も掌握した王は、仏教を全チベットに広めようとしました。しかし当地域に定着していたのたのは『ボン』という魔術がかった宗教です。そこで、これになじみやすい当時インドで流行していたタンドラ(密教)を採用し、布教しました。このためチベット仏教は独特の変化を遂げ、やがて『ラマ教』(近世ヨーロッパ人の呼称)と呼ばれる教えが生み出されていくわけです。
さて時は移り、西暦13世紀、チンギス・ハーン率いる蒙古軍が世界征服の野望を実行に移し、史上最大の帝国を築き始めます。この過程において、さすがの吐蕃軍も力及ばず、チベットは征服されてしまいます。この時の大ハーンはフビライでしたが、彼自身ラマ教の教えに帰依し、蒙古の国教にまでします。またラマ僧のチョエゲル・パクパにチベットの統治権を与え、以来300年、法王による政教一致政権のサキャ王朝が、チベットに君臨したのでした。
その後、ゲルク派がサキャ派に代わって主流になってもラマ僧は強い権限を持ち続けます。ちなみにゲルク派の僧はサキャ派と違い、結婚を許されていません。しかし最高権力者のダライ・ラマは不滅であると信じられているため、前のダライ・ラマが死ぬと、さっそく生まれ変わりを探しに出掛ける事になります。
現在のチベットは政治的に中国に組み込まれていて、独立を求める運動が根強く行われています。その中心であるダライ・ラマ14世は、1959年3月、インドに亡命しましたが、今もチベットの人々に敬愛され、また仏教のスポークスマンとして世界中に影響を与え続けています。
仏教が半島にもたらされたのは三国時代で、中国と隣接していた高句麗に西暦372年、百済には384年、新羅に教えが公伝されたのは、やや遅れて536年でした。三国とも多くの学僧を中国に留学させ、仏教の興隆に尽くしていきます。
三国の中でも高句麗、百済は日本と親交が深く、仏教の公伝は538年、百済からとなっている程です。しかし二国とも唐と新羅の挟み撃ちにあって亡んでしまい、百済の王族は大挙して日本に亡命し、近畿地方に住み着きました。かれら一族の子孫からは、多くの高僧が輩出したと伝えられています。
さて、統一新羅では首都慶州の皇竜寺を中心に、仏教教学が飛躍的に発展していき、その著述は質、量とも唐のそれに負けない程でした。特に元暁(617〜686)の業績は大きく、今でも元暁大師として崇拝されています。大師は、半僧半俗の姿で歌い踊り、人々に念仏を称えさせ、教化する傍ら、『華厳経』の注釈など大著述も手掛けています。
西暦936年、約250年間続いた新羅統一時代も高麗王朝にその政権を譲ります。この頃の仏教は禅宗(臨済禅)が中心でしたが、高麗時代は仏教が国教として扱われ優遇されたため、ますます大発展を遂げます。しかし400年間続くこの王朝を財政的に圧迫したのも仏教でした。
このため民衆の反発も大きく、李成桂が朝鮮を興してからは儒学が奨励され、以後500年にわたって廃仏政策がとり続けられます。この間、ハングル語によって仏典が訳されたり、復興に心血を注ぐ高僧も多く出現しましたが、大勢は変わらず、社会的にも僧侶は奴隷以下とされ、貴族に首を切られても文句が言えない身分にされてしまいます。
近代に入り、朝鮮仏教会に復興の気運が高まったのは、日本の仏教各宗各派の活動によるものでした。1910年日韓併合が成ると翌年、朝鮮総督府は寺刹令七条、続いて寺刹令施行規則を発布、全国に三十の本山と千三百の末寺を分属させていきました。これにより僧侶の身分は保証され、独立自営の住持制から布教活動も活発になるのですが、逆にその弊害も深刻で、戒律を守る僧侶に肉食妻帯を強要したり、寺の私物化、行政官庁の統制などの問題がおこってきます。特に妻帯の問題は多くの悲劇を生むことになり、民衆の憎悪と反感日本の仏教会に向けられていくのでした。
第二次世界大戦が終結すると、朝鮮半島は南北に分断されてしまいます。そこで韓国の僧侶は全国僧侶大会を開き、本末寺制に代わって教区制をとるなどの改革を行います。
1955年、クリスチャンの李承晩大統領が、妻帯僧の是非について問う談話文を発表しますが、これにより比丘僧と妻帯僧の対立が表面化、やがて比丘僧は太古寺中心の『大韓仏教曹渓宗』、妻帯僧は法輪寺中心の『韓国仏教太古宗』を成立させます。妻帯は日本の影響ということもあり、複雑な問題が絡んでいるようです。
現在の韓国はこの二大勢力を含め18派あり、寺院数約2300カ寺、僧侶9200名余り、信徒数も700万人を越え、教育機関も充実し拡大の傾向をみせているようです。
日本への仏教伝来は538年、百済の聖明王が日本の欽明天皇に仏像や仏具、経典を贈ったことに始まります。これは当然政治的な思惑もありますので、仏教が日本に受容されるまでには、多くの紆余曲折があり、教え本来のはたらきより、「除災招福」や「慰霊鎮魂」といった要求を背負わされてしまいました。
やがて仏教を受容した蘇我氏が廃仏派の物部氏を押え、日本の政治倫理の基盤に仏教が据えられます。この時の中心人物が「聖徳太子」で、太子は単に仏教を政治に利用したというだけでなく、自らも深く教えを学び、その精神を政治に生かそうとしています。そのため現在でも「和国の教主」として日本のほとんどの宗門で讃えられています。
太子亡き後、仏教は律令体勢の中に埋没し「鎮護国家仏教」として勢力を拡大します。しかし仏教を学べば学ぶ程現実とのギャップは大きく、国禁を破って一般民衆に布教伝導を試みる「私度僧」も多数出現します。有名な「道昭」「行基」の活躍も、東大寺の大仏造立の協力を仰ぐため国家が弾圧を諦めるほどの信仰集団を結成します。
平安時代に入ると、仏教は政治に影響を与えたり、独立した集団を形成していきます。また最澄、空海といった改革者も現れ、次第に一般民衆にも仏法の種が蒔かれ始めます。そうした折り、破滅と暗黒の時代が来ると予言した「末法思想」がささやかれ始め、末法を背負う教え、特に浄土教信仰が流行します。中でも「源信」「空也」「良忍」といった僧は後世まで影響を与え、鎌倉時代にはその教えを深めた信仰運動が一大改革を起こします。
やがて「法然」「親鸞」「一遍」のとなえた「念仏ひとつで救われる」とする教えは、ついに王法より仏法を優先させ、政治権力からの完全な独立を果たします。しかし当然、国家からの弾圧を受け、以後数百年にわたりこの緊張関係が続くことになります。また「栄西」「道元」は仏教の原点を求め、釈尊の悟りを追体験する座禅の道を発展させます。ここでは仏教理論や言葉の限界を打ち破る試みがなされ、後世に多くの高僧を輩出しました。また「日蓮」は度重なる弾圧を信仰の糧とし、法華経の功徳を強調し、政治にも他宗教にも容赦ない批判を加えていきます。
室町時代に入ると、鎌倉時代に独立したそれらの宗派が教勢を拡大させ、また旧宗派も民衆に教えを広めたため、芸能や美術の文化的成果も顕著になります。このうち特に勢力が拡大したのは親鸞の教えを受けた浄土真宗で、加賀の国などはついに守護大名を追い出し、以後一世紀にわたって門徒の合議制による政治を実現させていきます。
戦国時代に入ると、勢力を拡大した諸宗派は、霸権をもくろむ諸大名と対立し戦いが始まります。特に織田信長の情け容赦ない弾圧は悲惨を極め、双方に大きな傷痕を残しました。このため最後は和睦を結ぶこととなり、以後多くの教団は牙を抜かれた状態になります。
その後、豊臣秀吉や徳川家康は、仏教を保護はするが、封建体勢維持に役立てる政策を取り、完全に仏教を骨抜きの状態に飼い馴らしてしまいます。これは現在にまで影響を及ぼし、多くの宗派がこの「伝統教学」からの脱皮を果たせずにいるのです。
明治時代に入ると、国家神道の影響で仏教は廃仏毀釈の憂き目をみます。これは維新政府の政策から起こったのですが、社会不安を煽るまでの盛り上がりと、各地で仏教を守る護法一揆が真宗門徒で起こされ、廃仏の方針が緩められます。
以後、内面的改革を目指す方向と、社会的改革を念頭にした運動が起こりますが、昭和に入り国粋主義の嵐が襲うと、一部の人を除いて全ての宗派が戦争に加担するようになります。戦後この事が大きな問題となりますが、一部に教団の戦争犯罪を公にする活動も見られ、日本仏教再生の礎としての重い第一歩を踏み出すことになります。
さて、インドは仏教の発祥地として約千年間、その中心地であり続けました。しかしその間にも、ヴァルナという身分階級制度が復活の兆しを見せ始めます。そし次第にヒンドゥー教が仏教を取り込む形でその教えを骨抜きにしてしまいました。その顕著な例はパーラ王朝(8〜12世紀)の頃に表れ、当時密教として変貌を遂げていた仏教は、いよいよヒンドゥー教シャークタ派のタントラの思想に同化してしまいます。
ヒンドゥー教の中には何と仏陀も登場しますが、それはヴィシュヌ神の化身として扱われるのです。そこでも仏陀はバラモン文化を批判し人類の平等を説くのですが、その立場は逆説的で、魔族を混乱させ力を失わせるため、わざと偽の教えを説いている、とされてしまいます。
13世紀初頭、イスラム教徒の迫害によって、インドの仏教はほぼ滅亡してしまうのですが、それ以前に仏教がインド社会の諸問題(特に差別問題)に対する批判を失い、大勢に流されてしまった時、既にその存在意義の大半を失っていたと言えるかもしれません。
仏教を生んだ国でありながらインドはいまだにカースト制度によって成り立ち、そして悩み続ける国です。不可触民、カーストにも入らない階級の人々は今日でも屈辱的な差別の中で生活しています。
そんな中、1956年10月14日ナグプール市においてアウト・カーストのマハール約20万人が、ヒンドゥー教から仏教への集団改宗を行いました。指導者のアンベドカルは不可触民のマハールとして育ち、様々な差別を乗り越えての改宗宣言でした。彼の不可触民制廃絶運動はヒンドゥー教批判に始まりますが、アンベドカルが仏教を受け入れた理由として、虐げられた人々の力となり差別と闘ってきた宗教である、という理解が強くあります。また在家信者の組織化を図り、国内外に連帯を呼びかけるなど、今日の私たちにも共通する課題に取り組んでいました。
このような努力もあって、1951年には18万人程度だった仏教徒も1981年には470万人を越える信者がインドに存在することとなり、紆余曲折を経て今にいたります。