これが非科学的な教訓であるのは分かっているし、現実には、全く逆のケースも見受けられる。しかしこの考えを一概に『迷信』と片づける訳にもいくまい。特に人類≠ニいう視点で見ると、背負っている資源の量に対し、現実の使用量がはるかにかさんでいることに気が付く。
もしかしたら人類は、他の生物の背負い水まで奪い取って繁栄しているのかも知れない。そしてその分も、もはや限界が見えてきたため、ようやく『環境問題』として取り上げられ、様々な会議が開かれるようになった。
しかしこれも、言わば背負っている水をいかに減らさないかの議論である。各国とも自分達の実状に合わせ、たとえば”二酸化炭素排出量削減幅”を云々するだけで、そこはいまだに “奪い合いの場” であり、その幅を “あえて狭めてやる” という、思い上がった意識しか持ち合わせていないようだ。
背負っている水、といっても自分で作り出した水ではない。使える資源、といっても頂いている資源である。根本的に「自分達の資源だから」とか、「ちゃんと金は払った」という意識が反省されない限り、この問題は解決されないのではないか。
感謝の心なくして成り立たないのは、信心の問題ばかりではないだろう。足りないことを嘆く前に、まず与えられていたことに感謝したいと思う。そして無反省な欲望追求の、当然の結果が今の現状であり、現状を改善するには、野放しの欲望追求の姿勢を、自ら改革するしかないのである。
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