寺も椅子の生活が定着して久しいが、得度習礼はそんな事情で正座を加減してくれるような甘いところではない。反発したくても、「僧侶になろうという気構えなのだから、一日中正座ができないはずはない!」という正論を聞かされると、返す言葉も無くなる。
ふかふかソファーに座ってテープでお経を覚え、「楽勝楽勝」などとほざいて得度に臨んだ私のような不届き者は、10日間の習礼は激痛との戦いに明け暮れることになるのだ。
「正信偈ってこんなに長かったっけ?」
おそらく皆、最初の読経で違和感を覚えるのだ。普段家庭や一般寺院で称えている正信偈はテンポが速い。これは慣れのせいもあるが、正式なテンポで読むと30分以上かかる。
「これからずっとこのテンポで読むのか?」
事情を知らずに来た不届き者は、この後「原則として講義中も正座」という最終通告に、これからの10日間を暗澹たる気持ちで思いやることになる。つまり一日に数時間は正座をしなくてはならないのだ。もちろん座布団なんてどこにも見当たらない。
今さら「聞いてないよー」という死語を発する元気もなく、ひたすら忍耐の生活が始まるのだ。
◆ 正座の攻略法
「突然うわ言を言いだす人もいました」
「みんな日々顔が青ざめていきました」
「途中で帰った人もいた」
「無理に立って足をくじいた人もいた」
「足を骨折した人までいた」という伝説がある程だから、得度の話題はまずそんなところから始まる。その上、体重が重い者にとっては、足のしびれには慣れても、その先にある物理的な痛み、足の甲の内出血に早くから見舞われるからたまらない。
実は正座に早く慣れるには、常に同じ姿勢で同じ座り方をするのが原則なのだ。少しくらいしびれたからといって、足を組みなおしていたら、いつまでたっても正座には慣れない。足自体に危機感を与え、毛細血管を広げてもらうのが手っ取り早い攻略法となる。
「こんなの西洋では拷問になる」とか、「室町時代まで正座は仕置きの時の座り方」という、もっともらしい意見もあるが、「正座は腰に負担をかけないから健康にいい」という報告もあり、どうせしなければならないのなら、僧侶は慣れるしかあるまい。
とはいえ、一般の人に正座を押し付ける時代は過ぎたかな、と思う。法事の時私は、「しびれたら足をくずして下さい」と言うことにしている。「何よりその言葉が一番ありがたかった」と参詣者に喜ばれて、ちょっと複雑な気持ちにもなったが、正座が嫌で仏縁が浅くなってしまっては主客逆転であろう。
◆ 出家はもっと大変?
得度習礼も最後の方になると正座にも慣れ、多少の余裕も出てくるものだ。そんな折「他はもっと厳しいんだゾ!」とばかり、出家を標榜している○○宗の修行の様子を、ビデオで見せられたことがあった。
食事も粗末で、寒さ暑さにも堪え、数年も続く厳しい修行の数々を見せ付けられると、「確かに浄土真宗は在家仏教だからそんなに厳しくないのかも」と、自分と似たような似ていないような修行僧の境遇を思いやり、「得度式までもう少しだから頑張ろう」という気持ちになってくる。
ところがである。
映像も修行の仕上げの場面になって、問答を受ける高僧が現れると、その風貌に笑いが起った。というのも、命がけの修行を数々こなしたはずの高僧の体型が、とても粗食に耐えている今の修行僧の延長線上にはなかったからである。
後で聞いた話によると、法事等に出かけて食事をふるまわれると、その場で残さず食べなければならず、それも修行のうちなのだそうだ。そうした「修行」を数々こなせば、おのずと体型は風船状に膨らむ。高僧になればなるほどその傾向が強まってしまうのだ。
計らずも飽食の時代の修行の意味を問い直すビデオとなってしまったが、笑いながらも正座は続く。そして「教師教習の時は得度ほど厳しくないそうだ」という言葉を力に「これが最後のふんばり」と頑張るのだが、思えば甘い夢を見たものだ。
教師教習は得度習礼より、正座の時間はさらに長くなることを、この時私は知る由もなかったのである。
[Shinsui]