「良薬は口に苦し」ということわざがある。これは新明解辞典によると「忠言は耳に痛い意にも用いられる」ということで、近年まではよく用いられた人生訓であった。
ところが今は、組織でも家庭でも苦言を◆ 苦さ自体に効果がある
ところで、この言葉の元となった「苦い薬」について、世間ではちょっとした誤解がある。一言で言うと「良い薬」と「苦いこと」の因果関係が逆なのだ。
一般的に思われているのは――「よく効く良い薬は劇薬でもあり、苦いのはそのよく効く成分のせいだ。だから苦いのは我慢して薬効を期待しよう」という理解である。それなら「オブラートに包んで飲もう」とか、「糖衣錠なら飲みやすいし、手にくっつかないから一石二鳥だ」ということになる。
また中には「だから薬は毒なんだ」と言って、苦いのを「不自然な証拠」「飲んではいけない警告」と決め付け、飲むのを拒否する人まで出てくる。
薬害もあるから完全に否定はできないが、薬が苦いのはたまたまではない。「苦い」と感じることが実は重要なので、それを糖衣錠にしてしまっては一石二鳥どころか手羽先唐揚にもならないのだ。
人間は試験管ではない。身体中に神経が張り巡らされ、口はその最たるところである。薬を飲んで「苦い」と感じたその味覚は身体中に伝達され、それだけで胃腸の調子が整のってくる。また、腸で吸収されやすい成分は水に溶けにくく、それが苦く感じるもととなる。そのように薬を受け入れる体勢ができた上に薬の成分が発揮されれば「良い薬」ということになる。
それなのに今はカプセルに包んで飲み、いきなり薬が姿を現すのだから胃腸はたまったものではない。現場は「寝耳に水」で、当然混乱してしまうのだ。そうした消化器官の負担を軽減するため、また胃腸薬を飲むと言うのだが、何か変ではないか?
◆ 甘い現実認識
さて、そうした誤解を解いた上で、もう一度「良薬は口に苦し」を教訓として味わってみると、どういうことになるだろう。
例えば「四苦八苦」とか「無常」という事実がある。「無明煩悩をかかえた私」「五濁悪世」という現実がある。それなのに「自分や世の中を清らかで明るいイメージでとらえることが希望に溢れた未来をつくり出す」という論をよく聞く。昔から「笑う門には福来る」という諺もあり、自分たちを「清く明るい民族」と思い込んでいる多くの日本人の心情ともよく合致する。
また、「子どもにはこういう大人の汚い部分は見せたくないですね」という教育的なコメントも聞く。「子どもには大人の事情を見せるな聞かせるな」、「幼いうちから本当のことを聞いたら希望を無くすじゃないか」というわけだ。
これは一見理屈に合っているようでいて、実は糖衣錠のように結果として心身を疲弊させはしないだろうか。夢や希望も現実や絶望を味わったところから始まることを考えると、日本の現実、俗世の汚さ、というものを正直に見て味わい、子どもたちにも話をしておいた方が、備えも整うような気がする。
「日本は特別の国だ」などと教えた戦前の教育や、「日本人はよく働くから経済は絶対に大丈夫」と太鼓判を押した言葉が、後にどれほど副作用をもたらしたか、という歴史を学ぶと、情報公開も含め、何か身をよじるような現実の苦い味の方が魅力的にも感じるのだが、あいかわらず政治家は明るい将来を約束している。
そんな嘘を塗り固めるために、税金を一体いくら使うのだろう。むしろ現実をしっかり聞いた方が庶民の底力が沸いてくる。
◆ 陰口でもいいから
政治経済や教育の話はさておき、人間の問題、自分自身のこととなると話は少々怪しくなる。苦言も
こんな話題に上人の例を持ち出すのは心苦しいが、『蓮如上人御一代記聞書』に以下のよううな一節がある。
わがまへにて申しにくくは、かげにてなりともわがわろきことを申されよ。聞きて心中をなほすべきよし。(一二六)
本願寺を日本一の巨大教団に育てあげた蓮如上人に対して、面と向かって悪口を言う人などいない。しかし苦言を呈されることの無い危うさを熟知してみえた上人は「面と向かって言えなければ陰口でもいいから申してくれ。それを伝え聞いて心中を直すから」と言われたわけである。
こんな人が組織の責任者なら、組織は勿論、縁のある人たちはどんなに幸せだろう。
よし、私も今日から心を入れ替えて苦言を喜べる人間になるゾ!
・・・え、 何だって? 「もっとしっかり仕事をしろ」「もっと身を入れて働け」だって?
そんなこと言うけどなあ、こんなつまらん仕事入れたのは誰だ! 俺はもっと効率よくだなー・・・・・・っと言ってる今の私。苦いものが欲しいと言っても、たかがカンパリ入りの食前酒くらいの苦味が望みなのだろうか。
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