今の私たち、生きている実感が希薄なのはなぜなのだろう?
政治家や官僚の迷走、マスコミの偏向報道、格差放置問題、出生率の低下、教育の質の低下、反社会勢力の増大‥‥
ここ数十年、日本で起こった国家的問題を詳しく検証すると、たまたま事件が重なったというより、問題の根っこに大きな病巣があってそこから様々に形を変えて膿が吹き出している、と見た方がよいでしょう。特に目立つのは責任者の不誠実ぶりで、過ちを犯してももみ消そうとしたり居直ったりの繰り返しで、責任の重い人ほどその傾向が強くなるようにも思えます。
さらに個人個人としてみれば、労働は数値化され、人間が記号化され、組織に飼いならされてしまった。。存在そのものが軽々しく扱われ、人々は虚しい人生を虚飾で謳歌するのが精一杯になってしまったのです。
この病巣の正体は何なのでしょう。
個々の問題とは別に根本の問題で言えば、まず『宗教的空白』と『こころの軽視』が指摘できます。
現代人はあまりにも唯物論を奉じ、物や金の価値から逃れられなくなっています。現代教育の中心は物質や金銭であり、物質の付属物として精神が位置づけられているようです。道徳教育復活も喧伝されていますが、付刃で、申し訳程度にしか語られていません。
思えば、かつての文明は精神が中心であり、物質は精神の付属物としてしか扱われませんでした。インドにおいては、仏教はもちろん、宗教界では自然でさえ人間の精神の付属物扱いだったのです。
これに比べると
「現代の日本人は精神的・宗教的にほとんど空白状態である」と弾じざるを得ません。
もちろん反論も起こるでしょう。
日本人の多くは正月の初詣に始まって、豆まき、ひな祭り、花祭り、端午の節句、七夕祭り、お盆、月見、村祭り、クリスマス、除夜の鐘と様々な宗教的年中行事に参加し、また子供が生まれればお宮参り、七五三、受験のための絵馬、交通安全のお守り、恋をしたら相性占い、結婚式は神社や教会で、家を建てるときは地鎮祭、死んだら寺で葬式、年忌法要を勤めるという具合に雑多な宗教に関わっています。
しかしここで問題なのはまさにこの雑然とした関わり方で、現代の多くの日本人にとって、宗教はその場に応じて使い分けるものであり、行事があるからする程度のものでしかありません。もちろん例外はあるでしょうが、付き合いで手を合わす、やっとかないと怖いからやる、というのではおよそ宗教の本質から外れています。単に自己の甘えを助長しているだけなのです。
これら『要求型の信仰』や『恐怖型の信仰』は本物の宗教ではありません。そしてここで本当に恐ろしいのは、こうした宗教的空白状態の人ほど本人や家族に邪な思想や虚無的な感覚がはびこり、心の屋台骨が朽ちてしまいがちな点です。
「心を直さぬ学問して何の詮かある」この叡尊の言葉にもあるように、自己改革を目指してこそ本物の宗教なのであり、逆にそうした宗教心の欠如から先にあげた問題も起こってきます。
そして今や人々は、人工知能を「人間を超越する存在」として君臨させ、自ら生みだした道具の奴隷と成り果てようとしています。AIはあくまで道具であり参考に過ぎないのに、です。
こんな時代だからこそ、人間の本質を問い正してきた宗教を真剣に行じる必要があるのではないでしょうか。