紅葉真っ盛りの季節である。今年は冷え込みが急だったため、「紅葉が綺麗」なのだそうだ。都会にいても街路樹の色づきに感嘆するくらいだから、見所として名を連ねている渓谷などではさぞかし、と想像する。
森が紅や黄に染まる景色は確かに独特の美しさがあり、普段は都市の便利さを満喫している人も、この時ばかりは自然を満喫しにツアーに参加したり、友との道連れで山へ出かけていく。
実際に行ってみると、観光客の捨てたゴミが散乱してる有様も目にするが、とにかく「紅葉が綺麗」ということを期待して山深くまで入る。そして、期待通りに森が染まっていると「来た甲斐があった」と満足し、お土産を買って帰ってゆく。しかし、期待通りの色に染まっていない場合は、「まだ早かったなー、来週にすればよかった」と残念がるが、それでもお土産だけは買ってゆく。これはごくごく一般的な観光風景であろう。
しかし、こうした一般的な「自然の満喫方法」に、どこか不自然なものを感じるのは私だけだろうか。
人の美意識にケチを付けるつもりはないが、森が綺麗なのは紅葉の季節だけではない。四季折々のたたずまい全てが美しい、と私は感じる。紅葉にしても、鮮やかに染まるばかりが美しい訳ではなく、染まり切らない葉が
だが、ツアーが組まれ人が押し寄せるのは、「紅葉が美しい」などと色づいた森をアピールできる時期に限られる。つまり、紅葉が紅葉らしい景色を見せると「綺麗だ」と思い、期待した通りでないと「まだ綺麗ではない」と思い込んでしまうのだ。いわば、森を見世物のようにとらえているわけで、そこには人間の驕りと感覚の貧困さがありはしないだろうか。
森のあるがままを受け入れるつもりならば、人があまり行かない時期にものんびり出かけてみればいい。他の人がまだ知らないような美しさを発見すれば、それはとても贅沢な時間を過ごしたことになる。
そうすれば―― 朝5時に起きて、車内でコンビニのおにぎりを頬張りながら渋滞の道をひた走り、森に着いたのは午後で、少し紅葉を眺めた後、すぐに帰宅の途についたが、家に戻ったのは深夜だった・・・などという疲労困ぱいの一日にはならずにすむ。
本当に「自然を満喫」するというのは、人間の都合に適った特別な自然を見ることではなく、変りゆく自然全てを受け入れることではないだろうか。
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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)