「素人だね」と笑われそうだが、黒目のある人を描くのに白目のままで描き進めるのは、自分としてはどうしても不自然に感じ、絵のかなり早い段階から睛を点じていた。
目の方向が定まってないと、絵全体の方向性が定まらない。逆に言えば、絵を大きくいじる時は、瞳を描き直せばおのずと大きく変化を見せる。これは邪道かも知れないが、そうしか描けなかったのは私のサガなのだろう――
さて、こうして恥をさらけ出せたのは、多くの子ども達が、顔を描く時、真っ先に瞳を点じているのを発見したからだ。顔の輪郭を決めた後で次に描くのは目で、それも瞳を入れた目である。ああ、子ども達は俺と同じ感覚なんだ≠ニ喜んでしまう私。自分が成長していない証といえばそれまでだが。
◆ 鎌倉彫刻の精神
「瞳を入れる」といえば、仏像等も『開眼供養』という法要がある(本願寺では『入仏式』)くらいだから、やはり瞳は最後に入れるものなのだろう。そうすると私は宗教的にも邪道ということになてしまうが、私のことはさておき、鎌倉時代の仏像彫刻の話をしたい。
鎌倉時代を代表する仏師といえば、まっ先に『
平安時代の仏像は、貴族的でやや優しさが先走った瞑想的な作風が多かったのだが、やがて武士が覇権を握る時代になった。彼等『慶派』の仏師たちはその時流に乗り、筋骨隆々とした仁王像に象徴される躍動感溢れるたくましい写実的作風で、一躍頂点に登りつめる。
鎌倉時代というのは、かの親鸞聖人や法然上人をはじめ、栄西、道元、日蓮といった今も各宗旨の開祖になった宗教家が活躍し、宗教的に「最も偉大な時代」と位置づけることができるのだが、実は芸術・文化面、特に仏像彫刻の分野では、この時代に造られた作品は群を抜いている。
名作を生み出し得た理由・背景については色々考えられるが、鎌倉彫刻の特徴について、次の4点が挙げられている――
特に写実については、像の中に内臓まで入れる徹底ぶりで、また『玉眼』といって、目に水晶をはめる表現方法も用いられている。
◆ 阿弥陀如来像の特徴
運慶・快慶とも、そうした鎌倉時代の時流に乗り、写実を基本とした彫刻を次々生み出していくのだが、晩年には共に精神性豊かな作風になる。
運慶の場合、父の康慶が奈良仏師の頭であり、運慶はそれを受け継いで、なお地方の土着の文化まで吸収しつつ、写実と精神性を極めていったのだが、それは単なる彫刻師としてではなく、仏教理解者として、仏教徒としての奉仕の姿であった。
例えば先に挙げた『玉眼』は、まさに運慶の得意とするところだが、阿弥陀如来像に使用することは決してなかった。そこには、現実を見据えながらも、はるか浄土からの呼びかけに耳を傾ける運慶の真摯な宗教的態度を見出すことができる。
快慶は正当の奈良仏師ではなかったが、慶派の写実を元に、独自の円熟した作風を生み出し、天才の名を欲しいままにした仏師である。運慶が動的であるのに対し、快慶は静的な安らぎに満ち、晩年はひたすら阿弥陀如来像を刻んでいる。彼は若い頃から作品に「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏快慶」等の署名を積極的に入れているが、当時は名を刻む仏師は少なく、彼の個性は作品の静けさの奥に激しく燃えていたのであろう。
以上でも分かるように、当時の仏師らは自らも仏教の理解者であり、また行者でもあった。いわば宗教実践として像を制作した訳で、「仏像は鑑賞するのではなく拝むもの」という諭しを裏付ける制作態度であった。そのような態度で制作された仏像だからこそ、像に向かって拝んでも「偶像崇拝」とはならないのである。
◆ それにしてもひどい
現在、単に図像を模しただけで、何の宗教的実践も表れていない仏像・絵像がはびこっている。形そのものが宗教の本質ではないし、仏像にそうした上下を言うつもりはないが、「それにしてもひどい」と言わざるを得ない仏像・絵像が多すぎる。
形の軽視は結局「精神の堕落」を招くことは自明の理で、まして布教・伝道の一助にはならない。粗製濫造の仏像を造るくらいなら、原点に戻って「南無阿弥陀仏」等の名号に手を合わせる方が良いのだろうか。
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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)