平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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本地垂迹説は中国や奈良・平安時代の日本において盛んに説かれた説ですが、浄土真宗においても取り入れられた結果、様々な問題を背負ってしまいました。果たして本地垂迹説は如来の真実義そのものなのかどうか、という点を軸に、できるだけ課題を明らかにする方向で論を進めようと思います。
まずは本地垂迹説について、聖典や辞典等であらましをおさえておきたいと思います。
『真宗新辞典』法蔵館 より
『佛教語大辞典』東京書籍 より
『浄土真宗聖典』巻末註 より
証誠殿の本地すなはちいまの教主(阿弥陀仏)なり。かるがゆゑに、とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、和光の垂迹を留めたまふ。垂迹を留むる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば本地の誓願を信じて一向に念仏をこととせん輩、公務にもしたがひ、領主にも駈仕して、その霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、さらに自心の発起するところにあらず。しかれば垂迹において内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。ただ本地の誓約にまかすべし、あなかしこ、あなかしこ。神威をかろしむるにあらず、ゆめゆめ冥眦をめぐらしたまふべからず
『御伝鈔』 下 5 熊野霊告 13 より
垂迹の本意は、しかしながら衆生に縁を結びてつひに仏道に入らしめんがためなれば、真実念仏の行者になりてこのたび生死をはなれば、神明ことによろこびをいだき、権現さだめて笑みを含みたまふべし。一切の神祇・冥道、念仏のひとを擁護すといへるはこのゆゑなり。
『持名鈔』末8 より
あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
『御文章』二帖1 より
意訳▼(蓮如の手紙/国書刊行会 より)
さきほど述べたように信心の旨を心得たならば、これを自身のうちに深くしまっておいて、他の宗派、他の人びとに対してそのような信心を心得たという振る舞いを見せず、また信心のありようも語ってはならないということです。また、あらゆる神々なども、自分が信じないばかりのことですから、なおざりにしてはいけません。
また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。これまことに弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり。
『御文章』二帖2 より
意訳▼(蓮如の手紙/国書刊行会 より)
また、ほかのあらゆる仏・菩薩、ならびに神々なども、自分が信じないばかりのことですから、決してこれを軽んじてはいけません。これについては、まことに、阿弥陀さまおひとりのおはたらきのうちにすべての神々がみなこもっている――と思って下さい
これらによって読み取れるお心は、弥陀一仏のみ、ということを強調し過ぎて、その内容をよく問わず、他宗や諸神を蔑んで攻撃するようなことが度々起こったので、それを嗜める文章に「神を大切にするように」という意を書かれたのでしょう。ただし、神を「これをかろしむべからず」とは書かれていますが、「神を拝みなさい」とは書かれていません。
浄土真宗では神をどう理解しているのかというと、先の、「弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり」という言葉によく顕れていると思います。これは、他宗教の文化や思想を破壊していった原理主義的一神教とは姿勢を異にする、ということを表わしています。自分の考えだけに固執し、伝統ある仏像や先祖の仏壇を破壊する行為を見ると、どこか心寒いものを感じます。
浄土真宗の信心は、一心ではあっても、自説に固執して古来の伝統を否定し破壊してしまうのではなく、“他宗教や伝統の中にも、阿弥陀仏のいのちは奥底に流れているのではないか。ただ大経に顕わされたような深みと広がりは獲得できていないだけなのではないか”と思いやり、“他宗の本意は阿弥陀仏の願海にあり”と諸師は見抜かれたのでしょう。
さらに言えば、弥陀一仏の功徳のうちには、一切の諸神のみならず、一切諸仏がこもっている、と言うことができます。 親鸞聖人は「無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり」(『唯信鈔文意』2)と顕わされ、蓮如上人は「すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり(『御文章』二帖9)と示してみえます。
ただし、本地垂迹説を生かすためには、阿弥陀仏とはどういう内容の存在に名が具わったものか、ということを明かにしなくてはなりません。これが問われないで、ただ関係の主従を云うならば、おのずと法執に陥ることになります。法執に陥った人間は危険極まりない頑固者になってしまいますが、これは「自力」と言われる理性の暴走であり、よくよく避けなければなりません。
もう少し 親鸞聖人の導きを見てみましょう。
南無阿弥陀仏をとなふれば
梵王・帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく
よるひるつねにまもるなり
『浄土和讃』100 現世利益讃 より
先にも申しましたように、聖人はじめ諸師は神々をあえて否定はしませんが、仏と諸神の関係は、仏が本地で神は垂迹であります。ただし、「よるひるつねにまもるなり」といっても、災難除けに守るのではありません。たとえば、仏道を踏み外しがちの私達が、災難にあって諸行無常の道理を学びなおし、肉身の命は有量であるからこそ執着を離れ真実無量の寿を求める。衆生に及んで無量無辺たる真実報身を依りどころとする、というように護るのです。
このことは、たとえば『大集経』には十二辰等が登場するのですが、これは、仏が十方の仏菩薩や天などを集めて大乗の法を説いたもので、道綽禅師はこのお経の五五百年の説によって、浄土教が末世相応の法であるとし、親鸞聖人も多数引用され、諸天諸神が念仏者を護持する証文としてみえます(なお聖人は『大経』を「時機純熟の真教」、つまり「あらゆる時代と人々に応じた真実の教え」と見てみえる)。
仏ののたまはく、〈かくのごとし、大梵、なんぢが所説のごとし〉と。そのときに世尊、重ねてこの義を明かさんと欲しめして、偈を説きてのたまはく、〈世間に示現するがゆゑに、導師、梵王に問はまく、《この四天下において、たれか護持し養育せん》と。かくのごとき天師梵、《諸天王を首として、兜率・他化天・化楽・須夜摩、よくかくのごとき四天下を、護持し養育せしむ。四王および眷属、またまたよく護持せしむ。二十八宿等、および十二辰・十二天童女、四天下を護持せしむ》と。その所生の処に随ひて、竜・鬼・羅刹等、他の教を受けずは、かしこにおいて還つて護をなさしむ。天神等差別して、願はくは仏分布せしめたまへ。衆生を憐愍せんがゆゑに、正法の灯を熾然ならしむ〉と。
『大集経』巻第六月蔵分「諸天王護持品」第九 より
(『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(末)外教釈・引文90 に引用)
意訳▼(現代語版 より)
釈尊は、<その通りである。大梵天よ、そながいう通りである>と仰せになり、 そして、重ねてこのことを明かにしようとお思いになり、次のような偈をお説き になった。
<世の人々に明かにするために、導師である仏が大梵天に問う。
≪この四方の世界は、だれが護り育てているのか≫と。
天の師である大梵天はこのように答えた。
≪兜率天、他化自在天、化楽天、夜摩天にいる神々は、それぞれの天王のもとでこの四方の世界を護り育てています。四天王およびそれにしたがうものたちも同じく護っています。さらに二十八の小さな星々や十二の方角やそれをつかさどる天童女などが配置され、四方の世界を護っています≫と。
またその生れた場所にしたがって、竜や鬼や羅刹など、だれからも教えを受けていないものにもその場所を護らせる。それは天の神々がとくに仏に願って、そのものたちを配置させたのである。すなわち衆生を哀れむ心から正しい法の灯火を明るく輝かせるのである>
『大集経』では、釈尊の前身であるカルシッタ仙人が、神々や月や星々に役割を持たせ、時節や星々の配置や法則を説きます。つまり、仏は、神々や龍・夜叉・阿修羅等に供養される立場であることを明確にし、仏教徒は、仏・法・僧の三宝に帰依して敬い、その他の神々を信じないようにする。仏教徒は、神々や龍・夜叉・阿修羅等に尊敬される立場であって、逆ではない、ということを明確にしたのでしょう。「仏は十二辰に命じて仏法を護らせている」という理解です。
またこの経典では、どんな悪魔も仏法帰依者に危害を加えることはできないので、五百人の魔女が仏に帰依し菩提心を起こしたとあります。
さらに――
もろもろの仁者、かの邪見を遠離する因縁において、十種の功徳を獲ん。なんらをか十とする。一つには心性柔善にして伴侶賢良ならん。 二つには業報乃至奪命あることを信じて、もろもろの悪を起さず。三つには三宝を帰敬して天神を信ぜず。四つには正見を得て歳次日月の吉凶を択ばず。五つにはつねに人・天に生じてもろもろの悪道を離る。六つには賢善の心あきらかなることを得、人讃誉せしむ。七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。 八つには断・常見を離れて因縁の法を信ず。九つにはつねに正信・正行・正発心の人とともにあひ会まり遇はん。十には善道に生ずることを得しむ。この邪見を遠離する善根をもつて、阿耨多羅三藐三菩提に回向せん、この人すみやかに六波羅蜜を満ぜん、善浄仏土にして正覚を成らん。菩提を得をはりて、かの仏土にして、功徳・智慧・一切善根、衆生を荘厳せん。その国に来生して天神を信ぜず、悪道の畏れを離れて、かしこにして命終して還りて善道に生ぜん。
『月蔵経』巻第五「諸悪鬼神得敬信品」第八 より
(『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(末)外教釈・引文88 に引用)
意訳▼(現代語版 より)
そなたたちは、よこしまな考えを離れることによって十種の功徳を得るであろ う。その十種とは何であろうか。
一つには、おだやかな善い心となり、賢く善良な仲間がまわりにいるようになる。
二つには、因果の道理により命を落すこともあると信じて、さまざまな悪をつく らないようになる。
三つには、仏・法・僧の三宝に帰依して敬い、その他の神々を信じないようになる。
四つには、正しい考えを身につけて、年や日や月の善し悪しを見ないようになる。
五つには、いつも人間や神として生れ、地獄や餓鬼や畜生といった悪い世界には生 れないようになる。
六つには、賢く善良な心を持っていて、人々にほめられるようになる。
七つには、世俗のことにとらわれることなく、いつもさとりを求めるようになる。
八つには、断見や常見というかたよった考えを離れて、正しい因果の道理を信じる ようになる。
九つには、いつも正しい信、正しい行、正しい菩提心の人とともに集まって会うよ うになる。
十には、善い世界に生れるようになる。
よこしまな考えを離れることによって得られたこれらの功徳によってこの上ないさとりを得ようとするなら、そのものは速やかに六波羅蜜の行を成就し、浄土に往生してさとりを得るであろう。さとりを得た後には、浄土で功徳と智慧とすべての善により衆生を導き、その国に生れさせるのである。衆生は、他の神々を信じることなく、迷いの世界に落ちる恐れもなく、その世界で命を終えてまた善い世界に生れるであろう
とありますように、三宝に帰依し神々を信じないようになることが功徳なのです。これは日柄や方角で吉凶を占う迷信的な愚を誡めているのでしょう。では、仏と神の違いは何かと言いますと、これは、違いというより、諸神の内容が仏教の中では何を意味するか、ということに目をつければ良いのです。仏教では、宗教的内容を固定的実体化することを法執としましたが、他宗教では、まさに固定的実体として神を語ってしまいました。
つまり『大集経』に顕わされた内容は何も神秘的なことではなく、月や星々や時節のめぐりを知ることによって、知らしめた天体や時節の尊さを知る。そして何より、尊さを知る智慧そのものが尊いことを知るのです。前者は信仰であり、後者は信心。神々や月や星々を神として拝むのは信仰であり、覚りの主体が立ち上がって尊さが自らに満ちていることを発見するのが信心で、仏教は後者を勧めるのです。これは西洋でも、有名なツァトゥストラの序説にも類似が見られ、ツァトゥストラが太陽に向かって「偉大なる天体よ! もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、あなたははたして幸福といえるだろうか! 」と語りかけています。(参照:▼{資料3})
真実信心・道心不退の行者であれば、天体のみならず山や川もみな仏。様々な鳥でさえ、「阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり」(『仏説阿弥陀経』3 正宗分 依正段)と領解できるのですが、天体そのものが仏なのでも、鳥そのものが仏なのでもありません。天体を見るだけで仏の覚りが見える、その覚りを見る眼が尊いのです。鳥の声を聞いただけで仏の声が聞こえてくる、その覚りの声を聞く耳が尊いのです。天体も鳥も尊いが、尊さを知る智慧こそが最も尊いのであり、これがわが身に回向された菩提心であり、南無となった真実信心なのです。
なお、日本やインドの神々と、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの云う神とは切り離して考えるべきでしょう。
日本やインドの神々は共通性があります。これは大自然や生命や歴史に宿る力を善悪を越えて擬人化し、目に見えるものから見えないもの、思考の過程で表出されたもの等、宗教者の内面との関係で実体化したものを神と言ったのですが、これを固定し執着してしまうことが問題なのです。仏教では、ひとつの概念に過ぎないものは方便として理解したのですが、一度現われた概念に固執して、理性で理解しようとすると迷信が生まれるのです。仏教も、宗旨によっては迷信がはびこる性質が抜けないのは、こうしたことに原因があるのです。
キリスト教系の神は、いわば真如に近い概念の実体化ではないでしょうか。ただし、「神」と言い切ってしまったところは仏教との違いでしょう。仏教の見方ではここに迷信性が含まれているように思われます。
つまり、自己は罪深い存在であり信仰対象としての神は偉大である、と言い聞かせたため、この今生きている自分そのものの尊さが自覚しにくい。有限のこの世を見て絶望し、有限に垂直に交わる永遠の存在として「天にまします神」の救済を説く教えになってしまいました(参照:{仏教とキリスト教の違い})。このような神は死んだ、とニーチェは言っているのです。しかし本当は神は死んだのではない。人類の歴史的自覚となっていたものを神として世界に投影していただけなのです。
仏教では、有限の自己の背後に無限を宿す、罪深き自己を自覚したその背景に清浄たる自分を感得する。“だから、本地の自覚主体たる仏に戻すべきだ”と本地垂迹説はいうのです。
浄土真宗では、救済が救済で留まらず主体的自覚となったものを信心といい、これを南無で表わし、その内容を三心(至心・信楽・欲生)に開きました({至心信楽の願}参照)。私を包み一切衆生を包む阿弥陀の仏が、仏の方から私の自覚に成り切っていただいた。南無の仏が阿弥陀の仏を飲み込み、この私の中で信心となったものが南無阿弥陀仏です。「才市が仏になるじゃない。阿弥陀の方からわしになる」と浅原才市同行が仰るのも、このことでしょう。
阿弥陀仏は、宇宙全体を体とし、歴史をいのちとしている存在で、この尊い存在が南無と私に成り切り、身に満ちてはたらいてみえるのです。
以上のように、本地垂迹説はおおすじにおいては肯定できるのですが、どうしても問題点や疑問点も残ります。それは、阿弥陀仏を本地垂迹説で理解し、本門の弥陀(久遠の弥陀)・迹門の弥陀(十劫の弥陀)ということを説いた点です。諸仏はいざ知らず、これでは本当の阿弥陀仏は領解できないのではないでしょうか。つまり、『仏説無量寿経』を『法華経』の説に随って説いても、阿弥陀仏を見間違ってしまうのです。
これは{法身と報身の違い}にも書きましたが、阿弥陀仏はあくまで真実報身であり、真如法身でも方便法身でもありません。旧来の本地垂迹説では、久遠の弥陀は真如法身であり、十劫の弥陀は方便法身としてとらえているようですが、本当は真実報身が尊いのです。ここには先人たちの血と汗と涙などが叫びとなってこもり、名のりとなって現われているのです。永遠が尊いのではありません、大願を建て成就の努力をした無量寿が尊いのです。
また東京書籍の辞典では、「超歴史的な本体が歴史世界にすがた(迹)となって現われる(垂)こと」と書かれていますが、超歴史的本体と歴史世界との二つだけではなく、歴史世界の中にはまた、業のつながりとしての歴史と、仏性の真実の願が報いた歴史がある。つまり真に歴史を貫くいのちと成った第三の身としての阿弥陀仏が真実報身であり、これこそ衆生が依りどころとしている無量寿としてのいのちなのです。これ以外の仏は、阿弥陀仏を発見するまでの一時的・仮定的存在であり、真実報身たる無量寿仏(阿弥陀仏)と、真実報土たる安楽国(極楽浄土)によって、一切諸仏とも出遇うことができ、正定聚・不退転の菩薩を限りなく生み出すことができるのです。
さらに明治以後は、政府の方針と廃仏毀釈の影響で、神社側は本地垂迹説を捨てているところが多く、そうした神社の姿勢をどう見るのか。また怨親平等の特徴を持つ日本の宗教としての基本を無視し、政府の御用宗教になってしまった神社の姿勢はどう見るのか。批判精神を捨てて、「神仏はなんでもかまわず尊い」ということにはならないのではないでしょうか。
第五段 聖人(親鸞)故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の棲も跡をとどむるに懶しとて、扶風馮翊ところどころに移住したまひき。五条西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ。このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり。そのころ常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓を信じて、もつぱらふたごころなかりき。しかるにあるとき、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、仰せられてのたまはく、「それ聖教万差なり。いづれも機に相応すれば巨益あり。ただし末法の今の時、聖道門の修行においては成ずべからず。すなはち〈我末法時中億々衆生 起行修道未有一人得者〉(安楽集・上)といひ、〈唯有浄土一門可通入路〉(同・上)と云々。これみな経・釈の明文、如来の金言なり。しかるにいま唯有浄土の真説について、かたじけなくかの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私なし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなはち三経に隠顕ありといへども、文といひ義といひ、ともにもつてあきらかなるをや。『大経』の三輩にも一向とすすめて、流通にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品にもしばらく三心と説きて、 これまた阿難に付属す、『小経』の一心つひに諸仏これを証誠す。これによりて論主(天親)一心と判じ、和尚(善導)一向と釈す。しかればすなはち、いづれの文によるとも一向専念の義を立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなはちいまの教主(阿弥陀仏)なり。かるがゆゑに、とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、和光の垂迹を留めたまふ。垂迹を留むる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば本地の誓願を信じて一向に念仏をこととせん輩、公務にもしたがひ、領主にも駈仕して、その霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、さらに自心の発起するところにあらず。しかれば垂迹において内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。ただ本地の誓約にまかすべし、あなかしこ、あなかしこ。神威をかろしむるにあらず、ゆめゆめ冥眦をめぐらしたまふべからず」と云々。これによりて平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし。ただ常没の凡情にしたがひて、さらに不浄をも刷ふことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顛沛に師教をまもるに、はたして無為に参着の夜、件の男夢に告げていはく、証誠殿の扉を排きて、衣冠ただしき俗人仰せられていはく、「なんぢ、なんぞわれを忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」と。そのときかの俗人に対座して、聖人笏爾としてまみえたまふ。その詞にのたまはく、「かれは善信(親鸞)が訓によりて念仏するものなり」と云々。ここに俗人笏をただしくして、ことに敬屈の礼を著しつつ、かさねて述ぶるところなしとみるほどに、夢さめをはりぬ。おほよそ奇異のおもひをなすこと、いふべからず。下向ののち、貴坊にまゐりて、くはしくこの旨を申すに、聖人「そのことなり」とのたまふ。これまた不思議のことなりかし。
『御伝鈔』 下 5 熊野霊告【13】 より
問うていはく、念仏の行者、神明に仕うまつらんこと、いかがはんべるべき。 答へていはく、余流の所談はしらず、親鸞聖人の勧化のごときは、これをいましめられたり。いはゆる『教行証の文類』の六(化身土巻)に諸経の文を引きて、仏法に帰せんものは、その余の天神・地祇に仕うまつるべからざる旨を判ぜられたり。この義のごときは、念仏の行者にかぎらず、総じて仏法を行じ仏弟子につらならんともがらは、これに仕ふべからずとみえたり。しかれども、ひとみなしからず、さだめて存ずるところあるか。それを是非するにはあらず。聖人(親鸞)の一流におきては、もつともその所判をまもるべきものをや。おほよそ神明につきて権社・実社の不同ありといへども、内証はしらず、まづ示同のおもてはみなこれ輪廻の果報、なほまた九十五種の外道のうちなり。仏道を行ぜんものこれを事とすべからず。ただしこれに仕へずとも、もつぱらかの神慮にはかなふべきなり。これすなはち和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはりなるゆゑに、垂迹の本意は、しかしながら衆生に縁を結びてつひに仏道に入らしめんがためなれば、真実念仏の行者になりてこのたび生死をはなれば、神明ことによろこびをいだき、権現さだめて笑みを含みたまふべし。一切の神祇・冥道、念仏のひとを擁護すといへるはこのゆゑなり。
『持名鈔』末8 より
ツァトゥストラは、三十歳になったとき、そのふるさとを去り、ふるさとの湖を捨てて、山奥にはいった。そこでみずからの知恵を愛し、孤独を楽しんで、十年ののちも倦むことを知らなかった。しかしついにかれの心の変わるときが来た。――ある朝、ツァトゥストラはあかつきとともに起き、太陽を迎えて立ち、つぎのように太陽に語りかけた。
「偉大なる天体よ! もしあなたの光を浴びる者たちがいなかったら、あなたははたして幸福といえるだろうか!
この十年というもの、あなたはわたしの洞穴をさしてのぼって来てくれた。もしわたしと、わたしの鷲と蛇とがそこにいなかったら、あなたは自分の光にも、この道すじにも飽きてしまったことだろう。
しかし、わたしたちがいて、毎朝あなたを待ち、あなたから溢れこぼれるものを受けとり、感謝して、あなたを祝福してきた。
見てください。あまりにもたくさんの蜜を集めた蜂蜜のように、このわたしもまた自分の貯えた知恵がわずらわしくなってきた。いまは、知恵を求めてさしのべられる手が、わたしには必要となってきた。
わたしは分配し、贈りたい。人間のなかの賢者たちにふたたびその愚かさを、貧者たちにふたたびおのれの富を悟らせてよろこばせたい。
そのためにわたしは下におりて行かねばならない。あなたが、夕がた、海のかなたに沈み、さらにその下の世界に光明をもたらすように、あまりにも豊かなる天体よ!
わたしも、あなたのように没落しなければならない。わたしがいまからそこへ下りて行こうとする人間たちが言う没落を、果さなければならぬ。
では、わたしを祝福してください。どんな大きな幸福でも妬まずに見ることのできる静かな眼であるあなたよ!
満ち溢れようとするこの杯を祝福してください。その水が金色にかがやいてそこから流れだし、いたるところにあなたのよろこびの反映を運んで行くように!
ごらんなさい! この杯はふたたび空になろうとしている。ツァトゥストラはふたたび人間になろうと欲している。」
――こうしてツァトゥストラの没落ははじまった。
ニーチェ著『ツァトゥストラはこう言った』ツァトゥストラの序説 より