平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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浄土宗と浄土真宗の違いは何ですか。親鸞聖人の教えは法然上人の教えとどのように違うのでしょうか。
教義的な事だけでなく、日常生活における信仰上の行動の違いなどもあれば是非教えて下さい。
よろしくお願いします。
ご存知の通り、親鸞聖人は法然上人の教えを引き継いでいますので、相違点より共通点の方が多い、ということはまず確認しなければなりません。そうした後に、お二人の教学上の違いについて述べ、「日常生活における信仰上の行動の違い」についても触れてみたいと思います。
浄土宗・浄土真宗ともに「称名念仏、つまり南無阿弥陀仏こそが往生の要である」という点については一致しています。仏道におけるあらゆる行の中で、念仏こそを「正しい行」と選択されたことは、当時としては画期的な指導であったことは心にとどめておいていただきたいと思います。
【六七】『選択本願念仏集』 源空集 にいはく、
「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」と。
【六八】またいはく(同)、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。以上
『顕浄土真実教行証文類』行文類二 大行釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
【六七】 源空上人の『選択集』にいわれている。
「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」
【六八】 また次のようにいわれている(選択集)。
「そもそも、速[すみ]やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰[き]せ。正行を修めようと思うなら、正定業[しょうじょうごう]と助業[じょごう]の中で、助業を傍[かたわら]らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである」
このように、親鸞聖人は法然上人著『選択本願念仏集』を引用し、称名念仏こそ正定業、つまり南無阿弥陀仏と称えることが浄土往生のための正しい行であることを述べてみえます。
こうした論釈文を受け、次に聖人は自らの領解を顕されてみえますが、ここで称名念仏の真の意を明らかにされてみえます。
【六九】あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二 大行釈 より
意訳▼(現代語版 より)
明らかに知ることができた。本願の念仏は、凡夫や聖者が自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏のはたらきかけによるものであるから、行者の側からすれば不回向の行というのである。大乗の聖者も小乗の聖者も、また重い罪の悪人軽い罪の悪人も、みな同じく、この大いなる宝の海とたとえられる選択本願に帰し、念仏して成仏すべきである。
微妙ですが、法然上人と親鸞聖人の教学の展開方法の違いが分かりますでしょうか。結論上の違いではありませんが、目のつけどころには違いがあります。同じ「不回向の行」についても法然上人は「別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」というように、功徳の大きさを強調して念仏を選択するように勧められるのですが、親鸞聖人は称名念仏そのものが如来の側からの回向であることを示しています。ただし、これは法然上人が衆生に念仏を勧められた環境があってこそ、親鸞聖人もさらに本質に迫ることができたわけです。
法然上人は実利的・消去法的な論理と、一問一答方式で教学を展開していきます。聖道門と浄土門を対比させて聖道門を捨てる、雑行と助行と正行を対比させて雑行を捨てる、なぜなら後者の方がより勝れているし、自らの歩むべき道はこれ以外にないのだから――と、万事この方法で論が進んでいきます。
親鸞聖人も聖道門と浄土門の対比を用いてはいますが、聖道門を捨てるのではなく、隠れた意味を探る。常に真・仮・偽を問い、より純粋な方向に論を進めていく特徴があります。一問一答ではなく、多くの経論釈の関係をたずねて真の意をくみ取る、という方法で論が進み、純粋な心が至り届いて身に満ちたところから、一転して創造的に言葉が選ばれるのです。
特に『顕浄土真実教行証文類』は、問いに対して答えがどこに書かれてあるのか分からないほど広く深く思惟が重ねられます。これはつまり、「真の意をくみ取る」という主体的な心こそが如来の回向であり、それが阿弥陀如来の本願によって立ち上がってくる、ということが全体において明らかにされる書だからなのです。
さらに――
【七二】まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃)とのたまへり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義)といへるをや、知るべしと。
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 両重因縁 より
意訳▼(現代語版 より)
いま知ることができた。慈悲あふれる父にたとえられる名号がなければ往生の因が欠けるであろう。慈悲あふれる母とたとえられる光明がなければ往生の縁がないことになるであろう。しかし、これらの因縁がそろっても信心がなけれな浄土に生れることはできない。
真実の信心を内因[ないいん]とし、光明と名号の父母を外縁[げえん]とする。これらの内外[ないげ]の因縁がそろって真実報土のさとりを得るのである。
それで善導大師は、『往生礼讃』に「阿弥陀仏は光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られ、わたしたちはただ信じるばかりである」といわれた。また『五会法事讃[ごえほうじさん]』に「念仏して成仏する、これこそが真実の教えなのである」といい、また『観経疏[かんぎょうしょ]』に「真実の教えにはなかなか出会うことができない」(散善義)といわれている。よく知るがよい。
と述べ、ここはまだ行の巻ですが、既に信心の重要性についても触れてみえます。
なお、ここでは善導大師の述べてみえる信をそのまま受けてみえますが、やがて信についても独自の純粋性と創造性を発揮して、信心さえも如来の回向であることを見抜かれるのです。
法然上人の教学は、善導大師のお勧めをひたすら仰いでいかれましたが、親鸞聖人はこの念仏行としての流れを受け継ぎながらも、信心の本質的なところは天親菩薩・曇鸞大師を依りどころとし、さらに発展させて真実信心の本質を明らかにしていかれました。
念仏が要[かなめ]であることは両師の共通したお示しですし、信心の大切さは法然上人も「まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」と述べてみえます。しかし親鸞聖人はその信心の真実性を厳しく問われます。つまり、損得をはからって起こすのではなく、真実追求の姿勢が清浄心に肯かされるものであり、本願を学び聞く中でおのずと至り届く心であり、それは「堅固深信」であり、「決定心」であり、「無上上心」、「真心」、「相続心」、「淳心」、「憶念」、「真実の一心」、「大慶喜心」、「真実信心」、「金剛心」、「願作仏心」、「度衆生心」、「衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心」、「大菩提心」、「大慈悲心」であり(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末)・一念転釈)、というように、念仏も信心も真・仮・偽を問い、仏心が衆生に至り届いた行信こそ真実の行信であることを明らかにされるのです。
おそらく法然上人は、現実に悩みを抱えてみえる方々に対する直接指導に重点が置かれ、著述にはそれ程熱心ではなかったのではないかと推察されるのです。実際、『選択本願念仏集』を九条兼実(当時の摂政関白)に進呈する際にも、他の者に見せることをいましめられ、ごく一部の弟子のみに書写を許されたのです。そして、念仏は易しい行であるために日本仏教の中では劣った行とされていた称名念仏を、むしろ易しいゆえに最高の行と位置づけた。いわば革命的な指導を行なったわけです。そして革命的ゆえに、当時の社会に与えた衝撃は大きく、菩提心や三学の修行を柱とする伝統仏教界からの反発は大きかったのです。
比べて親鸞聖人は、直接指導もさることながら著述に非常に熱心でした。当時の民衆には難解であっても常に学問的な追求が加えられ、その上で領解を述べてみえます。ある意味著述によって聖人は発展的に浄土教を引き継いだのであり、比類なき教学を創造し得たのでしょう。
『選択本願念仏集』は、いわば身内のみに語る教えで、それは教学としては甘さが残ります。なぜなら他宗旨の教学と溝をつくっても良しとしてしまうからです。これは『歎異抄』も同様の書といえるでしょう。この二つは実によく似た性質を持っています。わざわざ他宗旨を攻撃はしませんが、他宗の教えを学ぶことを信徒には遠慮もしくは避けさせ、共感者を集めて身内のみで喜びを確かめ合うような指導に偏りがちです。「阿弥陀如来を信じ念仏して救われていく」ということのみを人々に勧めていきます。
『顕浄土真実教行証文類』は、どんな時代でも、どんな社会にも、誰にでも光を放つ普遍的な内容を目指して書かれました。いわば仏教の集大成であり、個人にはたらきかけながらも国や世界を救う目的で書かれた聖典といえましょう。それはまさに『仏説無量寿経』の目指す「浄土建立」の方向と方法を体解していく過程で書かれたものと言えます。
法然上人が捨てた菩提心(※資料1▼ 参照)も、多くの大乗の経典も、もう一度本願力回向の心を依りどころとして研究し直されました。そして、南無阿弥陀仏こそが真実如来より回向された大菩提心の叫びであり(※資料2▼ 参照)、浄土門にとっても聖道門にとっても「入真を正要とす、真心を根本とす」と菩提心の重要性を明かし皆に勧められました。つまり、仏教の根本精神が菩提心であり、その無限の発露が念仏にあることを見抜かれたのです。
また法然上人は、この願(※註:第十八願)を「選択本願」と呼んでおられるようですが、その気持ちは、罪深く煩悩が盛んなために、布施もできない、持戒もできない、心を静めることも、智慧を磨くことも、いずれの行も及び難い私たちのために、称えやすい行じやすい、名号一つで助けるという方法を考え出されたといわれるのですが、これは浄土に生れる方法を、あれでもないこれでもないと、選び捨てて、最後に念仏によって救うという方法を選び取ったことですから、専門語で「所選択の本願」、方法を選び取られた願ということになります。
ところが親鸞聖人のいわゆる「選択本願」は、言葉は法然上人から承けられたに違いないでしょうが、その意味は、所選択ということもありますが、それと同時に、あれでもないこれでもないと、限りなく真実なものを選んでゆく願心そのもののこととしておられます。それは所選択の本願に対して、「能選択の願心」と呼んでいます。
法然上人では、選びとられたものは念仏ですが、選び捨てられたものは、諸善万行といわれる自力の行です。親鸞聖人では、選び取られたものは、限りなく真実を求めてゆく、主体的な自己自身であり、真実の菩提心です。選び捨てられたものは、たんに自力の行だけではなく、財産とか名誉とか、煩悩や我執、不純な信仰や念仏、不純な道徳や宗教、真実でないすべてのものです。
その違いは、法然上人は往生浄土教という眼で、選んでおられるのですが、親鸞聖人の宗教は、人間真実の生き方ですから、その立場が根本的に違っているからだと思います。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
さらに、こうした往相回向とともに、<『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 還相回向釈>以降は、「思いのままに衆生を教え導く」という還相回向についても、願力自然の法爾として論を進められます。浄土真宗は往生で終る教学ではありません。ここでは往相の純粋性から一転して、現実の雑多な問題に呼応し、願力が様々な相をとって現われることを説かれます。ただし、表面の多様さの奥に常に往相の純粋性が裏打ちされていることも述べてみえます。
このように、仏教は常に伝統性と創造性の両面で展開してきた宗教なのです。そしてこうした教学を学ぶ者は、自ら往相回向還相回向の道を体解して、現実の生活に仏心を現わしてゆくのです。
「日常生活における信仰上の行動の違い」という問いですが、行動としてはどちらの宗旨も称名念仏が欠かせないことは先に述べた通りです。ただ一般的に、浄土宗は口称念仏に熱心で、<阿弥陀仏の救済をひたすら信じて「南無阿弥陀仏」と称える>ことを勧められるようです。この点は浄土真宗も共通しています。
せっかくですから、法然上人のお言葉を少しご紹介しましょう。
人の命は食事のとき、むせて死することも有るなり。南無阿弥陀仏とかみて、南無阿弥陀仏とのみ入るべきなり。
『法然上人行状絵図』 より
念仏申さんものは、ただ生まれつきのままにて申すべし。善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、本[もと]のままにて申すべし。
『法然上人伝記附三心料簡[つけたりさんじんりょうけん]および御法語』 より
善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。
『法然上人伝記附三心料簡および御法語』 より
衣食住の三は、念仏の助業なり。これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。
『諸人伝説の詞[ことば]』 より
意訳▼
衣食住の三つは、念仏を助ける行動である。これはつまり生活が安定すれば念仏しやすくなり往生をとげられるためで、何ごともみな念仏を助ける行動なのである。
往生のためには念仏第一なり。学問すべからず。ただし念仏往生を信ぜんほどは、これを学すべし。
『諸人伝説の詞』 より
意訳▼
往生のためには念仏することが第一である。学問をすることはない。ただし念仏往生を信じられるほどには、これを学びなさい。
いけらば念仏の功[こう]つもり、しなば浄土へまいりなん、とてもかくてもこの身には、思いわずらうことぞなきと思いぬれば、死生[ししょう]ともにわずらいなし。
『法然上人行状絵図』 より
意訳▼
生きていれば念仏の功徳を積み、死ねば浄土に参ることができる。どちらにしてもこの身には、思いわずらうことはないと思っていれば、死生に思いわずらうことはない。
ここに予[よ]がごときは、すでに戒定慧[かいじょうえ]の三学の器にあらず。この三学のほかにわが心に相応[そうおう]する法門ありや、この身に堪能[たんのう]なる修行ありやと、万人[よろずびと]の智者にもとめ、一切の学者を訪[と]えども、これを教ゆる人なく、これを示すともがらなし。
『徹選択集[てつせんちゃくしゅう]』 より
意訳▼
私のような者は、とうてい戒・定・慧の三学を修する器ではない。この三学のほかに私の心に適した教えがあるのか、私の身に堪えられる修行があるのかと、多くの智者に求め、全ての学者を訪ねたが、これを教える人なく、これを示す者はなかった。
浄土宗の安心起行[あんじんきぎょう]の事。義なきを義とし、様[よう]なきを様とす。浅きは深きなり。只南無阿弥陀仏と申せば、十悪五逆も、三宝滅尽の時の衆生も、一期[いちご]に一度善心なきものも、決定往生遂るなり。釈迦弥陀を証[あかし]とす。
『護念経奥書』 より
意訳▼
浄土宗の安心と行について。はからいの無いことをはからいとし、形の無いのを形とする。浅い深いはそのまま、ただ南無阿弥陀仏ととなえれば、十悪五逆の者も、仏法が滅尽した時の衆生も、死ぬまで一度も善心を起こしたことの無いものも、決定して往生することができる。釈迦と弥陀の二尊がそれを証明しているのである。
平生の念仏の、死ぬれば臨終の念仏となり、臨終の念仏の、のぶれば平生の念仏となるなり。
『念仏往生要義抄[ようぎしょう]』 より
意訳▼
平生[へいぜい]の念仏は、死ぬときは臨終の念仏となり、臨終の念仏は、延ばせば平生の念仏になるのである。(平生の念仏の方が大切)
このように、ひたすら称名念仏を勧められてみえます。
特に特徴的なのは――
問ひていはく、『経』(大経・上)には「十念」といふ、〔善導の〕釈には「十声」といふ。念・声の義いかん。答へていはく、念・声は是一なり。なにをもつてか知ることを得る。『観経』の下品下生にのたまはく、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く」と。いまこの文によるに、声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なり。その意明らけし。しかのみならず『大集月蔵経』にのたまはく、「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」と。感師(懐感)の『釈』(群疑論)にいはく、「大念といふは大声に仏を念じ、小念といふは小声に仏を念ずるなり」と。ゆゑに知りぬ、念はすなはちこれ唱なりと。
『選択本願念仏集』本願章 念声是一 より
意訳▼(意訳聖典 より)
問うていう。経には「十念」といい、釈にいは「十声」というが、念と声との義はどうであるか。
答えていう。念と声は同一である。どうして知ることができるかというに、《観経》の下品下生[げぼんげしょう]に、
「声をつづけて南無阿弥陀仏を十念称[とな]える。すると、そのみ名を称えたことによって、念念の中に八十億劫という長いあいだの生死[まよい]の罪が除かれる」
と説かれている。今この文に依[よ]れば、声はこれ念であり、念はすなわちこれ声であるということは、その意味が明らかである。のみならず。《大集月蔵経》(日蔵経)に、
「大念は大仏を見たてまつり、小念は小仏を見たてまつる」
と説かれてあり、懐感禅師がこれを解釈して、
「大念というのは大きい声で念仏するのである。小念というのは小さい声で念仏するのである」
といわれてある。だから、念はすなわち唱えることであると知られるのである。
という文です。
「〈大念〉とは大声に仏を称するなり。〈小念〉とは小声に仏を称するなり」は源信和尚の著『往生要集』(巻中 助念方法 修行相貌)にもありますが、親鸞聖人は<『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末) 外教釈 引文>で先の<『日蔵経』巻第九「念仏三昧品」第十(大集経)>の文は引用されますが、懐感禅師の解釈は引かれていません。おそらく、「無量の念は、仏の色身無量無辺なるを見たてまつらん」という『日蔵経』の意をくんでみえるのでしょう。大念・小念が声の大小であれば、無量の念はどんな声で念仏すれば良いのか、ということが問題です。
『唯信鈔文意』では、聖人も「念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なし」と著されていますが、「ひとつ心」であっても、「念と声は全く同じ」とは述べてみえません。「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 三信結嘆)とその因果を明らかにしています。願力の信心が称名念仏の声となってはじめて真実浄土のはたらきに出遇うことになり、現実の私の人生に仏心が展開するのです。
特にここで言う「無量の念」は、覚った人の念、もしくは如来回向の念、と解釈しなければ、そもそも論が成り立たないので最後まで引用されたのではないでしょうか。「念と声とはひとつこころ」といわれる一心を果てしなく尋ねることが、如来回向の菩提心です。
さらに「念はすなはちこれ唱なり」と法然上人は述べてみえますが、親鸞聖人は引用文以外では「唱」の字は一切使用していません。必ず「称」の字を用いられています。「唱」は声に出すことを言いますが、「称」は「たたえる」意を含んでいます。「唱える」のは、声が出る人なら理由も分からず唱えることもできます。しかし「称える」ためには、みずから仏意を尋ねて領解を得てはじめて適います。
ですから、「本願成就のいわれを聞け」と浄土真宗ではひたすら「聞法」をお勧めするのです。
このように、法然上人と親鸞聖人の示しには若干の違いがあります。しかし、「家の宗旨」にとらわれ、浄土宗か浄土真宗かによって最後まで道が決められてしまうことは問題であり、これは仏教本来のお勧めではありません。
仏道は常に真実を求める生き方のうちにあります。そしてその心が、如来の本願を聞き開いてゆくことで、退転の無い心に仕上がっていくのです。念仏も、雑毒自力の行の念仏が、如来の行に浄じられ、清浄な正行に育っていくのです。
称名念仏の生活が、念仏の数や声の大きさで上下が付けられるものでないことは確かです。常に如来に護られながら、つねに南無阿弥陀仏を称えて、南無阿弥陀仏の心で生活することが尊いのですから、宗旨の違いに固執することなく、仏道を歩んで下さい。
【五】念仏利益の文。
『無量寿経』の下にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、〈それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍し、乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得となす。すなはちこれ無上の功徳を具足す〉」と。
善導の『礼讃』にいはく、
「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一念を至すもの、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。
わたくしに問ひていはく、上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提心等の功徳を挙ぐ。なんぞかれらの功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功徳を讃むるや。答へていはく、聖意測りがたし。さだめて深き意あらんか。しばらく善導の一意によりてしかもこれをいはば、原それ仏意はまさしくただちにただ念仏の行を説かんと欲すといへども、機に随ひて一往菩提心等の諸行を説きて、三輩の浅深不同を分別す。しかるをいま諸行においてはすでに捨てて歎めたまはず。置きて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。思ひて分別すべきものなり。もし念仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随ひてこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。浅深は上に引くところのごとし。「もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり」(往生要集・下)と、これなり。次に多少は、下輩の文のなかにすでに十念乃至一念の数あり。上・中の両輩はこれに准じて随ひて増すべし。『観念法門』にいはく、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて浄土の荘厳を礼讃すべし。はなはだ精進すべし。あるいは三万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり」と。まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて品位を分別することこれ明らけし。いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)のなかにいふところの一念と下輩のなかに明かすところの一念とを指す。願成就の文のなかに一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸行をもつて小利となし、行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。かくのごとく展転して少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。
『選択本願念仏集』利益章 より
意訳▼(意訳聖典 より)
【五】念仏利益の文。
《無量寿経》の下巻に説かれてある。
世尊が弥勒に仰せられる。「かの阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、わずか一念する者まで、まさにこの人は大利を得たものとする。すなわちこれは無上功徳を具[そな]えるのである。」
善導の『礼讃』にいわれてある。
かの弥陀仏の 名号のいわれを聞いて
歓喜してわずか一声するものまで みなまさにかの国に往生することができよう
わたくしに問うていう。上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提心などの功徳が挙げてあるが、どうしてそれらの功徳を嘆[ほ]歎めずして、ただ独り念仏の功徳だけを讃[ほ]めるのか
答へていう。仏の思召[おぼしめ]しは測りがたい。きっと深い意味があろう。しばらく善導の意によってこれをいうに、もとをたずぬれば仏の本意はまさしくただ念仏の行だけを説こう思われるけれども、機類[きるい]にしたがって一往[いちおう]菩提心[ぼだいしん]などの諸行を説いて上・中・下三輩の浅深[せんじん]の別を分けられたのである。ところが、今は諸行について既に捨てて嘆められないのであるから、捨て置いて論ずべきではない。ただ念仏の一行については既に選んで讃嘆せられるのであるから、思うてよく分別すべきである。
もし念仏について三輩を分けるならば、これに二つの意がある。一つには観念の浅深[せんじん]にしたがってこれを分け、二つには念仏の多少をもってこれを分けるのである。
浅深とは、上に引くところのようである。「もし経論に説かれている通りに行じたならば、理として上上品に当る」(往生要集・下)というのがこれである。
次に多少とは、下輩の文の中に既に十念乃至一念[じゅうねんないしいちねん]の数がある。上・中の二輩は、これに準じて随って数を増すであろう。《観念法門》に、
「日ごとに一万遍念仏せよ。またよろしく六時(一日六回)の時間によって浄土の荘厳を礼拝讃嘆して大いに精進せよ。あるいは日に三万・六万・十万などの念仏をする者は、みな上品上生の人である」
といわれてある。ゆえに三万遍以上は上品上生の業であり、三万遍以下は上品以下の業であると知るべきである。すでに念仏の数の多い少いにしたがって上・中・下の品位[ほんい]を分けることは明らかである。
今ここに「一念」というのは、上の念仏の願成就文の中にいわれた一念と、下輩の中に明かされた一念とを指す。願成就文の中には一念といってあるけれども、まだ功徳の大利を説かず、また下輩の文の中にも一念といってあるが、まだ功徳の大利を説かない。この流通分の一念に至って、説いて大利と示し、嘆[ほ]めて無上といわれるのである。ゆえに、これは上の一念を指すということを知るべきである。
この「大利」というのは小利に対する言葉である。そうであるから、菩提心などの諸行をもって小利とし、乃至一念をもって大利とするのである。また「無上の功徳」というのは有上に対する言葉である。余行をもって有上とし、念仏をもって無上とするのである。すでに一念をもって一無上とするのであるから、十念をもって十無上とし、百念をもって百無上とし、また千念をもって千無上とすると知るべきである。このようにだんだんと少より多に至るから、念仏が恒河の砂の数ほど多ければ、無上功徳もまた恒河の砂の数ほどであろう。このように心得[こころう]べきである。それゆえ往生を願い求める人人は、どうして無上大利の念仏を廃して、強いて有上小利の余行を修めてよかろうか。
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 より
意訳▼(現代語版より)
ところで、菩提心には二種類ある。一つには竪[しゅ]すなわち自力の菩提心、二つには横[おう]すなわち他力の菩提心である。また竪の中に二種がある。一つには竪超[しゅちょう]、二つには竪出[しゅしゅつ]である。この竪超と竪出は、権教・実教・顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠まわりをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。
また、横[おう]の中に二種類がある。一つには横超[おうちょう]、二つには横出[おうしゅつ]である。横出とは、正行・雑行・定善・散善を修めて往生を願う、他力のなかの自力の菩提心である。横超とは、如来の本願力回向による信心である。これが願作仏心、すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、すなわち他力の大菩提心である。これを横超の金剛心というのである。
他力の菩提心も自力の菩提心も、菩提心という言葉は一つであって、意味は異なるといっても、どちらも真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、まことの心を根本とする。よこしまで不純なことを誤りとし、疑いをあやまちとするのである。そこで、浄土往生を願う出家のものも在家のものも、信には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。