平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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用語「還浄」についておたずねします。
先日、本願寺新報(2001.11.5)に、宗会において質疑があり、「還浄」という用語について改めて教学研究所長から見解が出されていました。概ね次のような内容でした。
この中、下川議員は、「地方において葬儀の折、“忌中”札に代わるものとして“還浄”という表記がなされたり、使われたりしてる。“忌”が差別観念につながるからといって“還浄”と表記してよいものか。それは二種深信を否定することで、宗意安心を乱すのではないか。速やかな対応を求める」と質問した。
これに対して、不二川公勝総務が「指摘されたような教学的問題、あるいは現代社会からの要請課題については、総合的な視点に立脚した浄土真宗としての教学的見解の表明が、今日求められている。そのための方策として、今宗会に総局としてさまざまな課題に速やかに対応できるような教学振興体制を樹立する議案を上程させていただく。この教学振興評議会においてこの問題も明らかに示してまいりたい」と答えた後、大峯顕智浄土真宗教学研究所長が“還浄”という用語に関する教学的視点について次のように説明した。
「葬儀の現場で“還浄”という表現が一般的に行われていることの、教学上より見ての是非についてのお尋ねと理解します。ご指摘の通り、私たち凡夫は、曠劫より流転し出離の縁なき身でありますが、不思議の信を得て、このたび浄土に往生させていただくのであります。この信心は機の深信と法の深信との二種深信であることはいうまでもりません。葬儀の現場において、そういう大切な信心を抜きにして、“還浄”という用語が使用されることは、人問がもともといた世界へ還ることだど誤解される場合があります。"還浄"の語に誤解がつきまとう心配がある以上その使用は適当でないと思います」【『本願寺新報』第2740号(2001.11.1) 3面 定期宗会報告】 より
この「還浄」問題は私にとって古くて新しい問題であります。と言いますのは、もう数年前になりますが、本願寺新報に、森田真円先生が「還浄」と言う言葉が使われていることについて「本来、もともと浄土におられる仏様がこの世に現れ、また浄土におかえりになるそういうことに対して使われる用語であって、一般の衆生が亡くなったときに《還浄》といういい方をすることは僭越ではないか。」と言う趣旨のものでした。
正確に記憶していませんので思い違いがあるかもしれません。ただ仏でない一般のものに還相の仏様について使われる言葉をもちいるのは僭越であると言うご趣旨のところがとても印象強く残っています。私自身が、《還浄》と言う言葉の響きに、亡くなってゆくものが阿弥陀仏の救いの中につつまれて、浄土に生まれさせていただくことのうれしさ、もったいなさ、さまざまな想いを心に染みさせてもらえるものを感じ、身内や友人の死に際してつかわさせてもらってきました。それだけに森田先生の記事はショッキングなものがありました。
そのころに所属寺の法座にお見えになった御講師に「僭越」と言ういい方に付いておたずねしたことでしたが、「還浄」の用法について必ずしも明快にお答を頂けなかったのですが、その後《せいてん 44号》に深川先生が、また《せいてん 47号》で沖先生と深川先生がそれぞれのお立場で意見を出されています。
その後、インターネットホームページ「坊さんの小箱」などで沖先生の論文などの紹介記事などを拝見し、論議的になかなか難しい問題なのだなと言う印象を持ちながらも、「還浄」と言う言葉をつかわさせてもらっています。
大峯先生のご見解は二種深信を柱にしたものであり、「私たち凡夫は、曠劫より流転し出離の縁なき身でありますが、不思議の信を得て、このたび浄土に往生させていただくのであります。」とのご指摘はまことその通りのことであります。だから私たち衆生がもといた浄土へ「死」によってかえるのだという想いは全く持っておりません。しかしながら先生が仰ってみえるように、「葬儀の現場において、そういう大切な信心を抜きにして、“還浄”という用語が使用されることは、人問がもともといた世界へ還ることだど誤解される場合があります。“還浄”の語に誤解がつきまとう心配がある以上その使用は適当でないと思います」ということになると、私たちは軽軽にそうした用法を取るべきではないということでしょうか。
諸先生のお言葉の中にも必ずしも「かえる」について否定的ではないように想われます。大峯先生も著書「本願海流」(65頁)に「その不思議な力の中に、私の命は今現にここで営まれている。だから、この世の命が終わるということは、私がその大きな命の中にかえっていくだけのことです。往生成仏のことを「法性のみやこにかえる」と親鸞聖人はおっしゃたのです。」とありますが、《阿弥陀仏につれてかえってもらうところ》それが浄土なのだと頂くことは必ずしも誤りではないように思います。
教学研究所長名で、宗会で回答されたことからすれば、「今後は使用を控えよ」と言うことのようにも思えますが如何なものなのでしょうか。
「還浄」の問題で、本願寺新報に記載された内容には、私も憤慨させられ、ある意味虚しい気持ちになりました。ああした「言葉狩り」が徹底すると、浄土真宗はいのちを失ってしまいます。
私の意見を述べさせていただくと、教学的には「往生」がふさわしいが、「還浄」も立場をわきまえれば使用できるはずだし、「忌中」という語も、それが家族の本当の気持であるならば、使用しても良いのではないでしょうか。
特定の誰かを傷つけたり、憎しみを煽るような言葉ならともかく、肉親や子どもが亡くなって、死を忌み嫌う気持ちが起きたからといって、誰がそれを責める権利があるというのでしょう。老病死などの苦を忌む気持ちは誰にでもあるはずです。死を喜べる人などさらにあるでしょうか。日本各地には「年長者の死は大往生だからおめでたい」などと言う風習もありますが、言われた遺族は複雑な気持ちになるのではないでしょうか。――<誰もこの気持ちは分からない>と。
やはり死の現実は辛いし、<亡くなっても、まだどこか現実に生きているような気がする>というのも、もっともな感情ではないでしょうか。
この感情を頭から迷信と退け、「往生したのです」、「中有などありません」、「念仏すれば忌む気持ちは無いはずです」などと、教学を盾に迷いや忌む気持ちさえ非難されては、遺族は感情と仏教に断絶を見てしまいます。現実と遊離した理論は、絵に描いた餅と同じで味わうことができません。
むしろ死を忌み嫌う正直な気持ちや、迷信に傾く弱さを受け入れ、新たに仏法を聞きなおす縁に導くことが肝心なのではないでしょうか。信心は不退転でありながら常に退転します。無退転なのではありません不退転です。動転し、退転しながら、さらに信心が深く領解されていくことが不退転なのです。
実際、そうした活動によって仏教を身近にしてきた先人たちのおかげで、今私は仏法を聞き開くことができるのでしょう。
また、<浄土に育てられた人の死は、お育ていただいた本来の世界に還るということ>と仰ぎ、<足元の浄土に還っていかれたのだ>という往生された方を尊敬する立場から「還浄」と表せば、言葉を縁として念仏の心に皆が出遭っていけるのではないでしょうか。言葉は尊い方便です。縁を広げるためにこそ言葉はあるはずです。
もちろん浄土は、「生まれんと願う」世界であり、元から居た世界ではありません。宿業に生きる私の立場からいえば、常に浄土は「往く」世界です。しかし同時に、浄土は、如来の業によって先祖とともに生きてきた尊い支えでもあります。
自分の死を「還浄」と表現すれば確かに僭越ですが、先人たちを「権化の仁」と尊敬している中でこう呼ぶことには、異論をとなえ過ぎるべきではないでしょう。『仏説無量寿経』にも、信心を獲得した不退転の菩薩は「還りて安養国に到る」とあり、『仏説阿弥陀経』には「還到本国」とあります。私たちが還るべき場所は、娑婆ではなく浄土のはずです。
「忌中」も、言葉を蔑むのではなく、この言葉でしか表現できない心中を共に悲しみ、漆黒の闇にいかに一筋の光を仰げるかを皆で問うてゆく言葉にしたいと思います。誤解を恐れるのであれば、いくらでも説明する機会があるはずですから、これも法を説く縁になるはずです。
どの道、近しい人の死に遭遇した時、普遍的で絶対的に正しい言葉などどこにもなく、目の前の死をどのように感じ、どのように受け入れ、どのように人と法に添っていくか。どのように人生を再構築していくか、ということが私たちの問いとならねばならいでしょう。その出発点の言葉を強制することこそ僭越なのではないでしょうか。
また、「正しい言葉」を選択できたからといって、いのちの問題まで解決された訳ではないのに、ややもすると<正しい言葉を選んだから良い>としてしまう僧侶が多いのも、教団の否めない傾向です。これをほおっておくと、いずれその「正しい言葉」も、押し付けと迷信の歴史を背負わされることになりかねません。
本当は、それぞれの家庭で、自分なりの言葉を書いて貼るのがいいのでしょう。しかし、悲しみの中でそんな余裕もありませんので、いくつか選択肢を示して、そうした中で同意のあった言葉を貼れば良いと思います。
質問にあった 『坊さんの小箱』 の中では、<同朋運動としての「還浄」問題>( 小武正教)の、◇本願寺教団における死の表記――§「遷化」を選び捨て、「還浄」を選び取る で――
言うまでもないことだが、「このお方は浄土から誕生した」という言葉も、「無始よりこのかた迷いを続けてきた」という表現も、自己の信心・「自覚」から出てきた表現で、固定化してはならない。こうした言葉を固定化するところに、魂の実体化が生まれ、人間の上に差別を作るイデオロギーが生まれてきたのである。宗教はどんな教えといえども、常に実体化・固定化に転落する危険を持つし、転落した教えを外道と言ってきたのではなかったか。「法然上人や親鸞聖人ならいざしらず、『凡夫』である私たちに『還淨』という言葉を使えば、私たちは元々浄土にいたことになるではないか」という一見素朴な言葉の背景には、この実体化に陥った理解が拭いがたくこびりついていることを指摘したい。と述べてみえますが、まさにこの語につきると思います。
さらに本願寺新報では「総合的な視点に立脚した浄土真宗としての教学的見解の表明が、今日求められている」という言葉が掲載されていますが、今日、誰が「総合的な視点」を宗教に求めているのでしょうか? どこか、白亜の殿堂にこもった人の意見、としか聞こえません。
阿弥陀如来の立たれる場所は、一人一人の苦悩の現場のはずです。その活動のありさまを、釈尊は舎利弗など一人一人個人に説かれてみえるではありませんか。「総合的な視点」によって傷ついた人を、「個別の中に永遠・普遍がある」と見出され、救われるのが如来であり、教団もそうした如来の姿を仰いで行動すべきでしょう。つまり、総合的でなくてはならないのは、「視点」ではなく「いのち」であり「歴史」でありましょう。
それに「教学的見解の表明」ということを強調してしまうと、目の前の人の気持ちを踏むにじることになりかねません。教学はあくまで文法。生きたいのちを優先して言葉を随わせてこそ生きた教学となります。
現在の宗教団体の欠点は、個々の人の悩みや立場に立脚していない点にあり、「総合的」と大上段に構えた言葉が、いかに多くの人々を苦しめ、時として殺害してきたか、という宗教史の惨状にも目を向けるべきだと思います。
浄土真宗も、教えを言葉として頑迷に固定すると、こうした加害者になりかねません。いや、実際にそうした歴史を含んでいるのではないか、という反省に立たないと、現代人の心の闇を照らす教団にはなりえないのではないでしょうか。
「二種深信」を言葉通り既成事実化すると、ああした血の通っていない論になってしまいます。どうしてもっと<信心の喜びが表出した言葉>で教学が語られないのでしょう。
釈尊が説法で「バラモン(聖者)」という言葉を引用し、その本意を「生れ」から「行い」に意味を転換したように、「忌」や「還浄」の言葉も、断つのではなく意味を転じたり深めることが大切だと思います。現実社会は五濁に汚れ、言葉もその闇を引きずっています。しかし、現実にある言葉を使ってこそ、現実に暮す人々を救い得るでしょう。
泥田のような五濁にまみれた社会で、白蓮華のような人間の花を咲かせるには、念仏の心・信心が肝心、と常に聞かせていただいています。迷信や他宗教の歴史を含んだ語も、如来の心をいただきながら使用すれば、悲しみや忌む心も、おのずと覚りに向う言葉となるはずです。
結局、「忌」や「還浄」の言葉が悪いのではありません。「忌」や「還浄」が迷信につながるままほおっておくからいけないのです。正しい法につなげる熱意を顕せば、あらゆる言葉が輝きを取り戻すことでしょう。そうなれば「忌」は真の「忌」となり、「還浄」は真の「還浄」となります。要するに伝道の努力が決定的に足りないのです。そして、その至らなさを言葉のせいにして落ち着こうとしているだけなのです。
もちろん言葉は大事ですが、言葉の不正確さや至らなさだけを批判していては、誰にもその内容を伝えることができません。
このままでは浄土真宗から大切な言葉がどんどん消えていってしまいます。「尼」も「真俗二諦」も「変成男子」も、社会の中で人々を覚りに導く言葉として使用していたのに、使用法を歪めたり、言葉の欠点ばかりを重箱の隅をつつくようにあげつらい、次々タブーにしていってしまいました。
泥のついた野菜は一見汚く見えますが、泥がなければ野菜は育たなかったように、歴史の泥を被った言葉を排除したら、肝心の信心まで枯れてしまいます。そろそろ、言葉の持つ尊い面に光を当て、布教伝道の裾野を広げる工夫をしないと、いつか浄土真宗が窒息してしまいまうのではないでしょうか。