平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

法名(戒名)や布施の値段

ご先祖様をランク付け?

質問:

戒名について、教えて下さい。何によってお布施が変わるのか。
僧侶によっても違うのですか?
字の数によっても違うのですか?
それと僧侶へのお布施は最低いくらからですか?
(お通夜、告別式、お七夜)全部して頂くとどの程度かかりますか?
凡人には、とうてい、わからない事だらけで失礼な質問の仕方で申し訳ありません。以前、お布施のことで嫌な思いをした事があるのでお許し下さい。

返答

 ご縁の寺院(檀那寺)が何宗かによって解答が変りますが、まず私たち浄土真宗本願寺派の場合についてお答えさせていただきます。

◆ 浄土真宗(本願寺派)において

浄土真宗には戒律がありませんので、戒名は持たず「法名」をいただきます。原則として本人が本山へ参詣に行き『帰敬式』を受けて法名をいただきます。

 このように原則として「法名[ほうみょう]」(「釋□□」もしくは「釋尼□□」)は生きているうちに頂くのですが、受けてみえない方は、死後急きょ頂く事になります。これは「葬式」が宗教行事である以上、その宗教の信徒であったことの表現が必要なわけです。
 こうした場合、お通夜や葬儀・告別式に間に合わせるため、本山に出向く手間を省き、ご縁の僧侶(大抵は葬儀式の導師)に付けて頂くことが許されています。その際のお布施は、葬儀全体(臨終・通夜・出棺・葬儀・火屋・還骨)のお布施として一括してお礼します。(葬儀の詳細は [葬儀についての手引き] 参照)
 ただし、法名に院号[いんごう]を付けられることを希望される場合は、本願寺(本山)に20万円以上ご進納により、そのお扱いとして、交付されます。

 さて、その葬儀の際の「お布施の値段」ということですが、これは「布施」が本来自発的な「喜捨」である以上、金額は決められてはいません。「お心のままに」ということが布施で、受けとる側も、そのまま「ありがたく頂きます」となってこそ布施なのです。
 しかし、人々が社会的・常識的にも暮らしている以上、「平均的な額を知って、恥をかかないようにしたい」という気持ちも無視できませんので、中には金額を決めて提示する僧侶もあります。「その方が親切でしょう」という意見で、<それも一理あるかな?>とも思いますが、「そんなことではお布施ということにならないから金額は絶対に言わない」という反対意見も肯けます。また「地域によっても開きがある」とか「だいたい1ヶ月分の給料でしょう」ということも聞きます。

 ということで、一般寺院での葬儀では、お布施の額は決っていませんし、葬儀式で何人の僧侶を頼まれたかによっても事情は異なります。また寺院を借りて葬儀をされる場合は式場料が決められている場合もありますので、色々心配があるようでしたら、葬儀の打ち合わせの際に直接僧侶にお聞きになられて、参考にされたらよろしいかと思います。

 なお、浄土真宗は「究極として全ての人に菩提心を回向して成仏に導く」という阿弥陀如来の本願力回向を教学の柱に据えておりますので、その導きの上において、どのような事情の方の法要や葬儀もお受けさせて頂き、その際に経済的に困るような金額を強要することはしないはずです。

◆ 他宗旨の(ちょっと困った)事情

 続いて、他宗旨のお話をさせていただきます。

 聖道門(浄土真宗や浄土宗以外の宗旨)では厳しい戒律が課せられていて、世俗の生活において持戒を保つことは中々できません。そのため出家して持戒を誓うのですが、その際に戒名が与えられます。そして修行において一定段階の悟りが認められると、各々の場(縁ある寺院等)に出向き、修行で得た功徳を皆にふり向けるのです。
 出家以外の人は、その修行僧を陰で支え、寺院での活動に参加し、法を聞くことになりますが、俗世で戒律を守ることは難しく、修行僧以外の人が戒名をもらうのは死後という場合も多々あるようです。その際、「この文字を入れるのは上位の段階の修行者」ということで、戒名や院号以外にも名を入れるようです。

 例えば『○○院△△□□居士霊位』というような戒名を見かけることがあるでしょう。
 最初の「○○院」というのが「院号[いんごう]」で、「院殿[いんでん]とつく場合もあります。これは古来貴人のみに冠したものが一般化したものです。
 「△△」は「道号[どうごう]」もしくは「誉名[よごう]で、覚りの境地や字[あざな]などの徳を表わす名です。
 「□□」が「法名[ほうみょう]もしくは「戒名[かいみょう]で、本来はこの二文字だけで充分です。
 「居士[こじ]」というのは、仏教に帰依した成人在家の男子につける「位号[いごう]」で、「位号」は、年齢・性別・篤信の別によって――
「大居士[だいこじ]、居士[こじ]、
大姉[だいし](仏教に帰依した成人在家の女子)、
信士[しんじ](仏教に帰依した15歳以上在家の男子)、
信女[しんにょ](仏教に帰依した15歳以上在家の女子)、
禅定門[ぜんじょうもん](融通念仏や禅を修する在家の男性)、
禅定尼[ぜんじょうに](融通念仏や禅を修する在家の女性)、
童子[どうじ]・善童子[ぜんどうじ](15歳以下の男子)、
童女[どうにょ]・善童女[どうにょ](15歳以下の女子)、
孩子[がいじ]・孩女[がいにょ]」(2,3歳の幼児)、
嬰子[えいじ]・嬰女[えいにょ]」(1歳以下の乳児)、
水子[すいし](死産や流産)等の別があります。
「霊位[れいい]」は置字(読まない文字)で、位牌を総称する言葉。下文字ともいいます。

≪資料≫

【法名】ほうみょう:
また法号。法の名字の意。出家授戒の時俗名を改めて授けられる法の名字をいう。また後世では死亡後、剃髪して法名をつける風習が行なわれたが、もと生前に授けられたものである。
【戒名】かいみょう:
三帰戒を受けて仏門に入った者につけられる名。死後に師からつけられる法名。現今では、通常死者に対して師僧から与えられる名と解しているが、もとは生前に授けられた。真宗では授戒の作法がないから、法名とか決号と名づけて、戒名とはいわないのが正式である。
【院號】いんごう:
もと天皇退位後の御所を院と呼び、上皇その人をもさしたが、漸次、皇后、親王にも院の称を用いるようになり、さらに摂家や将軍、門跡寺などにに及び、江戸時代には大名にも院号が与えられた。また一般の武士には死後与えられたが、この風習が死者の法名に院号をつけるもととなった。院号は嵯峨天皇の譲位後、嵯峨院と称したことに始まるという。
【院殿號】いんでんごう:
法名の上に加贈する尊称。江戸時代には大名また上級武士について用いるようになった。
【道號】どうごう:
僧が自らの願いとするところや、また自らの得たところを表わして名としたもの。また表徳号といわれる。主として禅宗で行なわれたが、天台・法相・華厳の諸宗でも用い、智を天台、 湛然を荊渓、窺基を慈恩といった。宋代以後にはこれが転じて字[あざな](本名のほかにつける通称)と同義になった。わが国では浄土宗で誉名や阿号、西山派で空名をつけるのも、この影響である。
【霊位】れいい:
位牌。法事において、僧などが故人をよぶ称。

『佛教語大辞典』/東京書籍 より

 聞いた話では、院殿と大居士が付くと数百万円、院と居士がつくと50万円以上、居士・大姉は30万円以上、信士・信女は15万円以上ということで、これを葬儀料以外に払うのですから「ちょっと高いんでは?」という感覚の方が肯けます。
 しかし、それぞれの文字には意味があり、院号は昔なら天皇や大名に限られていたし、「寺を建てた」という意味を含んでいるから寺が建つくらいの貢献が必要で・・・などと言われると、反論できなくなってしまいます。
 それなら「院号も位号も要りません」とはっきり宣言できれば良いのですが、周りから「最後の親孝行だと思って、せめて・・・」という風な言われ方をされると、ただでさえ感情が高ぶっている時ですから、中々断れないのではないでしょうか。中には「亡くなられた方への追善供養になりますから」ということを言う僧侶もいます。

 でも、これははっきり言いますが詭弁です。こんなことを強いていたら、いずれ僧侶全体への信用は薄れ、寺院は廃れ、仏教に仇なすことになりかねません。

 本来の仏教は、金銭による差別はつけず、まして死後の上下を言うのは、人に罪を犯させないための窮余の一策でしかありません。そんなことは仏教の基本中の基本です。ところがわざわざ法名・戒名に値段の上下をつけるのは、本来は否定しなくてはならない虚栄心を利用し、人々の感情を煽って金儲けをしているだけなのではないでしょうか。かつては身分や階級で差別してきた名を、今また金儲けの手段として用いているのです。

 なお葬儀料については、僧侶の出仕数が多くないと式が成りたたない宗旨ではそれなりの金額がかかります。ある他宗旨の僧侶が、以前「頂いたお布施が少なかったので、手伝って下さった僧侶方にお礼を出したら数十万の赤字になってしまいました」と笑って言ってみえましたが、笑って済ませられるような境涯の僧侶ばかりなら檀家さんも心配ないのですが、半端な修行僧だとつい顔に出たり、文句や嫌味を言ってしまうでしょう。宗旨によっては導師以外の僧一人につき5〜10万円を導師の方からお礼として出しますので、出仕僧侶の多い葬儀を頼んだ場合は、その辺りのことだけは心配りしておかれた方が良いでしょう。

◆ 宗教も構造改革を

 以上のように現状を述べてみましたが、読まれた方は「何か重要なことが足りない」という感想をお持ちになったのではないでしょうか。

 例えば、「じゃあ、寺は人々に何をもたらしてくれたのか?」という疑問です。
 本来、僧侶は門徒(檀家)の人たちに法を説いてまわり(法施)、門徒の人たちは金品でお礼をする(財施)、ということが布施の姿であるはずです。それをないがしろにしたため信心の問題は後回しになり、仏法のありがたみは伝わらず、それでも寺院の運営を成り立たせるため葬儀に高い金額を払うように仕向けるシステムが作られたのではないか、と。

 そこには、「檀家は普段は仏教と深いご縁を結ばなくても、金銭面だけで貢献してくれればいい」という寺院側の怠慢が見て取れます。しかもそのために仏教の基本である平等の精神を棄て、ご先祖様をランク付けしているのです。

 ご質問の最後に「以前、お布施のことで嫌な思いをした事があるので」ということを書かれてみえますが、一般的な社会ではそうしたトラブルがあれば縁を切ることができますよね。でもこと宗教の問題になりますと、代々のつながりもあり、また「家の宗旨」とか「○○家の檀那寺」ということで気兼ねもあると思います。

 でも、そろそろこうした構造を変えていかないと、人々のためにも寺院のためにもならず、それはとりもなおさず仏法を喜んでこられたご先祖様方の願いを踏みにじることにもなるのではないでしょうか。
 経済的に事情があればそのことを率直に話し、それでも文句を言うような僧侶など僧侶とは言えません。「仏教は人を救う教えではないのですか?」という疑問をぶつけ、それでも埒があかない場合は檀那寺を代えることも考えてみるべきでしょうし、家族で話し合いがつけば宗派や宗旨を変えることもやぶさかではないと思います。

 現在、「日本は様々な構造改革が必要」ということを聞きますが、それは宗教の世界にも当てはまることです。


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