平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

花岡大学について

児童文学と仏典童話の大成者

質問:

花岡 大学について教えてください。

返答

 明治42年(1909)奈良県吉野郡大淀町佐名伝で浄迎寺住職の次男として生また花岡大学(如是)は、龍谷大学在学中から短歌・小説を出発点に創作活動を続け、やがて児童文学の世界で活躍。当時低級と見られていた童話を、「こどもの立場に立ちながらより高い文学性をもった」分野として確立させていきます。
 昭和6年、童話集「おとうさんの手紙」、戦後「緑のランプ」「赤とんぼの空」などを出版。昭和36年「かたすみの満月」で小川未明文学奨励賞、昭和37年「ゆうやけ学校」で小学館文学賞を受けた他数多くの賞に輝きます。また児童文学に関する多くの協会・団体に所属、雑誌も数種主宰しましたが、昭和46年に京都女子大学教授に就任した頃から次々退会・解散し、仏教経典に題材を求めた<仏典童話>を多数創作。昭和48年からは個人雑誌「まゆーら」を刊行します。
 昭和63年(1988)に亡くなられた後も、各社から復刻版が出される程今も人気があり、宮沢賢治と並び称される児童文学の開拓者であったといえるでしょう。

 花岡氏の著作は質量とも豊富で、その膨大な作品群について総論を述べることは非常に困難ですが、以下、図書館やネット上で調べました資料の助けを借りて返答します。特に中川正文氏による解説「帰坐の文学」は参考になると思いますのでお読みください。

 なお、引用に記された各界の方々の肩書きは、その時点のものです。また、資料が揃いましたら、順次書き足すことも検討しています。

【引用資料 等】


◆ 作者本人の語る児童文学の文学性

 花岡大学氏の児童文学への取り組みは、当時低俗扱いされていた童話をいかに文学の一分野として成立させるか、という一点に絞られると思います。

[児童文学の一般通念の否定について] から

 なるほどこどもというものは、だんだん成長しておとなになることはまちがいはないが、だからといってこどもはおとなの「雛型」とかんがえ、なにもかもおとなよりいちだん低く、劣っている存在であると簡単に見定めてしまうところに、「どうせこどもだから」という、おうへいなおとなの認識が生まれ、児童文学というものを玩具視してしまうことになるのである。
<中略>
 すぐれた児童文学作品が内包している「文学性」というものが、教えるとか知識を与えるとかいう段階を超えて、こどもたちのたましいを、根底的にゆりうごかすほどの、おどろくべき力をもっていることに気がつくとき、そして人間教育としての方法(文学教育)が、教育実践の場において、いかに重要なものであるかということを思えば思うほど、わたしたちの立場からすれば、こどもの次元に立って、より高い文学性をもった作品を書くということが、緊急な問題となるわけである。
 したがってそういうほんとうの意味の児童文学の仕事をやろうとして努力しているわたしたちは、究極的にはこどもたちをよろこばせる作品を書かなければならないが、しかし「こども好き」だからといって、普通にかんがえられているような形でこどもの頭をなでたり、目じりをさげたりはしない。
 それどころかわたしたちは、おとなとは別世界のこどもたちの現実にはげしく肉迫し、成人文学と同一の芸術上の基準をけっして踏みはずすことのない身構えで、この仕事にとりくみたいのである。

児童文学の世界(大阪教育図書)昭和42年6月 より

「子どもだからこの程度でいい」という妥協から「子どもだからこそ吟味して上質のものを」という姿勢の転向は重要で、ここでは花岡氏は文学が誘発する「感動」に着目し、教育的な見地から童話を創作していった様子が伺えます。
 これは現代でも「児童向け」ということに甘え、大人が見たら「いいかげんにしろ!」と言いたい程いいかげんな『子ども文化』が粗製濫造されている現状は変らないようですが、絵本や童話の占める位置はこの当時とは比べられない程重要視され、国内に限らず海外の良質な作品も容易に入手できるようになりました。

 花岡氏は童話作家として活躍する途上、やがて仏典にその題材を求めていきます。

[わたしの仏典童話] から

 いうまでもなく仏教説話とは、仏教教義を誰にでもわかるように興味深く説くために、古くからインドに伝承されている豊富な物語を使ったものでありまして、その使い方の主なる形は、本生譚[ほんじょたん]と比喩譚[ひゆたん]の二つであります。
 本生譚といいますのは、お釈迦さまが、その前進の菩薩であったときに、さまざまなものに生まれかわって、善行功徳をつまれたことを内容とした、過去の物語のことであります。
 比喩譚といいますのは、仏弟子や信者の現世的な行為や、動植物などのあらゆる出来事をとりあげて、教義をわからせるために、たとえ話として使っているものであります。 ところが、それらの仏教説話は、豊富さの点におきましても、多彩さの点におきましても、きわめて興味深く、くめどもつきない味わいがあるのであります。
 わたしが、「仏教童話」にとりつかれましたのは、もっぱらその点に気がついたからでありまして、すっかり魅了されてしまったわけであります。
<中略>
 そこで、わたしは、そのやり方、その方法といたしまして、素材として非常に面白い仏教説話に、ただ取材するというだけに止めておこうと思ったのであります。
 つまり、仏教説話というものを、そのまま使うのではなくて、いったんわたしの心の中へ、そっくりそれをのみこもう、というわけであります。
 私の心の中で、その話を、ばらばらにほぐし、どろどろに消化してしまおう、というわけであります。
 そして、それを普通の作品を書くときと、まったく同じように、いささかも仏教説話の原型にこだわることなく、わたしの思うままに、ストーリーを改変したり、人物をふやしたりへらしたりして、自由に話を組み立て、そして、それが文学としての童話作品になるように、とのひたすらな願いをこめて表現し、一つの作品を書きあげてみよう、と考えたのであります。
 したがって、それは再話といったところに止まっていた、従来の仏教童話とは異質のものでありまして、あくまでもそれは、文学としての純度を保った、わたしの創作であるというところから、わたしは新たにこれを「仏典童話」と名づけたというわけであります。
<中略>
 他を生かすために、自分の命を捨ててかえりみなかったという、王子の心ほどに、至純な愛が、どこにあるでしょうか。
 この「捨身の心」こそ、仏の心であり、「仏典童話」が、ぜひ踏まえなければならない「仏教精神」とは、その心なのであります。
 その心を踏まえて、すばらしい仏教説話にとり組み、それをすぐれた文学としての童話に仕上げましたとき、そこにわたしの一途に願っております「仏典童話」が生まれてくるわけであります。
<中略>
 わたしが、ふと気づかせてもらいましたのは、「仏典童話」は、なるほど説教くさい話であってはならず、文学としてすぐれた作品にならなければなりませんが、文学、文学、と肩をいからせて、これにこだわっていたのでは、ついに文学にはならないのではないかということなのであります。
 「我を忘れて、この仕事に没頭する」、説教くさいとか、くさくないとかそんなことにこだわらず、ただひたすらに書く、つまり遊戯三昧でありますが、それこそが、「仏典童話」に立ち向う、本当の姿勢ではないかと思ったりいたしまして、今も、そしてこれからも、この仕事をひたすらに続けさせてもらいたいと思っているわけであります。

仏典童話全集1(法蔵館)昭和54年2月 解説より

 後ほども述べますが、この<「捨身の心」こそ、仏の心>という視点は、花岡氏の「仏典童話」の特徴でもありますが、同時に氏の仏教理解の範疇を限定してしまった言葉であり、出家的な視点で捉えた仏教ではなかったか、という懸念も残る発言でしょう。

◆ 各界からの賛辞

 花岡氏の児童文学への取り組み、特に「仏典童話」に対する賛辞は各界から聞かれました。

[不退転の気迫] から

 インドで仏教が民衆のものとして確立したのは、ストゥーパ崇拝によってであった。仏教以前のインドは(インダス文明は別として)造形美術を何も残していないが、アショーカ王前後から始まったストゥーパ(仏塔)の周辺には華麗な彫刻を残している。それらの彫刻のうち連続した場面を示しているものは、釈尊の生涯か、あるいはジャータカなどの物語を題材としているのである。つまり当時の民衆はそれらの物語を聴聞するのを楽しんでいたのである。
<中略>
 さて、この最も大切な、民衆の精神的な糧となっていた物語を伝える努力が、仏教者によって充分になされていたとは言えないのではないだろうか。何も古い物語だけではなくて、新しい物語をつくる必要もあるのではなかろうか。殊にこどもたちのために心の糧となる<仏典物語>という種類のものは今まで非常に少なかったのではないかと思う。夥しい書物の洪水のなかで、仏教童話がどれほどの分量を占めているだろう。
 こういう事実に思いを馳せるとき、仏典童話のため一生をささげて来られた花岡大学師の精進努力は尊いものがあると思う。

仏典童話全集1(法蔵館)昭和54年2月
中村元(東京大学名誉教授)解説より

 小乗仏教を「原始仏教」と理解する流れを大成した中村元博士にとって、花岡氏の文学は正に我が意を得た活動だったかも知れません。実は「小乗仏教=原始仏教」との理解には批判も多いのですが、ジャータカ等の物語に光を当てる活動には、文化的な意味は大いにあったと言えるでしょう。

[作品の狙う深い意味] から

今や地球はせまくなり、「お山の大将おれ一人」は許されない。あの牛や豚は、人間が食べるために、神様が造ったという論理は、人間の身勝手にすぎぬ。この心の痛みを忘れてはなるまい。二十一世紀に生きて行くためには、この西洋的合理主義を踏まえながら、東洋のもつ暖かさとの、より高い統一に、もって行かねばならぬと考える。
 そんなねがいをこめて、一生懸命努力したのが、あの宮沢賢治だと思う。もちろん十分成功したかどうか、問題はあろう。しかし少なくとも私には、彼の「よだかの星」は、その一つのように思えて来る。
 いま花岡大学さんは、その線上にあって、童話そのものを、純粋な芸術の分野でとらえ、特に一般の「仏教童話」とはいわず、「仏典童話」として、いろいろと御苦心のようだ。はたして賢治も超えたか、どうかわからないその願いという、そんな点に留意しながら、あらためて、読んで頂きたいと、切に念願する。そして相共に、仏教のもつ、深い深い意味を、覚らせて頂こうではないか。

仏典童話全集2(法蔵館)昭和54年6月
葉上照澄(比叡山延暦寺長掾j解説より

[「捨身施」のうつくしさ] から

半世紀を児童文学の世界に投じてきた花岡さんの人間的感動で濾化することによって、方便だった素材は文学的主体そのものに蘇生する。それは決して再生品ではなく、新たな別個のいのちなのであり、そうして、花岡さんの感動によってとり出されたおびただしい「いのち」の原結晶を求めてみると、なんのことはない。『楢山節考』で世をおどろかせた、おりん婆さんのうつくしさであり、つまり「捨身施」のうつくしさにつらねかれており、いいかえれば「捨身施篇」といってもよい。
<中略>
花岡さんについていえば、このごろエッセイで、しきりに老醜を書いておられる。自分の内臓をえぐり出すようなものを書かれる。たとえば、闘犬の勇者が老いてのち、若い後輩に自分を咬ませて勇気づけをさせることで生きているという話など、ゾッとするほど鬼気せまるものがある。この恐怖感、おそらく本音であろう。そういう本音を素直に文字にするほど、みずからの内なる「自我」を凝視している花岡さんが、文学に対するとき徹底した「自我」の否定にむかう――花岡さんほど「親鸞的」な作家はいないといわれるゆえんは、ここにあると思う。

仏典童話全集2(法蔵館)昭和54年6月
野々村智剣(中外日報参与)解説より

[信火の炎] から

大切なことは作品ではなく、書くという行為そのものにある。書くことを通して信仰上の悲願を具現化する、そこにはいつも厳しい宗教者の求道の姿がある。そのことは、作品を読めばすぐ分るはずである。どの一編にも、厳しい宗教者の精神の結晶がみられる。
 このような文学への姿勢は、宮沢賢治にも認められる。賢治は、その著、「農民芸術論綱要」の中で「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」といっている。これは仏教の言葉で言えば、菩薩の心である。無量寿経の法蔵菩薩の四十八願は、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽してわが国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、もし生ぜずんば正覚を取らじ」【※編集者注:第十八願】とあり、菩薩の心をよく表現している。すなわち、みんな極楽へ行けないようなら私も極楽へ行かない。仏にもならない。というのである。
<中略>
 花岡大学の「人の悲しみを心から悲しみ、人の喜こびを心から喜こぶ」を持つことによって、おのずから出現する世界も、賢治の「世界ぜんたいの幸福」も実は同じ宗教的悲願にもとづく同根のものに私には思われる。花岡大学は浄土真宗、宮沢賢治は法華経と宗派は異っても、それらは共に大乗仏教の教えに基づいている。作家としての個性もその資質・表現方法も、きわだって異る両者の作品世界に根底のほうで共通する何かを感じさせられるのは、このためかもしれない。

仏典童話全集5(法蔵館)昭和54年4月
野呂昶(詩人)解説より

[仏の世界へのひとすじの道] から

 花岡さんのひとすじの仏心は、親鸞聖人につながるものである。それは澄明無垢な心といったようなものではなく、「誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまざることを、恥ずべし、痛むべし」(親鸞)といういたみをつらぬいて光る心である。
 親鸞聖人につづこうとする点、私もまた同じねがいをもつものであるが、私のたどたどしいあゆみは、とても親鸞聖人の強靭なあゆみにつづけるようなものではない。その点、花岡さんが七十歳近くになられて、いよいよ旺盛な意欲をもって仏典童話を作りつづけ、ひとすじの仏心をつらぬこうとされていることは、親鸞聖人が、晩年、全精力を傾倒して著作をつづけ、文字もしらずあさましきいなかのひとびとといわれる民衆のためにいのちをかけられたような姿に似ているように思われる。

仏典童話全集5(法蔵館)昭和54年9月
二葉憲香(龍谷大学学長)解説より

 経歴を見れば一見して浄土真宗との結びつきは明らかで、確かに親鸞聖人や妙好人の影響は大いに受けているでしょう。しかしそれによって即「親鸞的な作家」というレッテルの貼り方は、当人も少々不満だったようですし、私もそうは思えません。ちなみに当人の不満と私の否定は少々意味合いが違いますが、「影響もある」程度に見ないと、花岡氏の童話を誤解することになり、ひいては親鸞聖人への誤解にもつながりますので、気をつけた方がいいでしょう。

[帰坐の文学] から

龍谷大学在学中は、もっぱら雑誌「宗教と芸術」によって、時には秉田新二郎などの筆名をつかいながら、精力的に創作活動をすすめていたようである。それらは小説集「魑魅魍魎」(昭8 トミヤ書房)にまとめられているが、いま読みかえしてみると結構が強くなく断片的という印象が強い。短歌から出発して短歌から脱した世界を小説によって描こうとしたのかもしれないが、結局短歌的世界を小説的形式でなぞった結果にとどまっているように思われる。
ところが意外にも驚かされたのは、未成熟さはあるものの、きわめて宗教的であるということであった。小説の題材は主として油ぎった人間と人間とのあいだの愛欲行為が中心となっている。
<中略>
 花岡が童話を書きはじめたのは、小説集「魑魅魍魎」の直後からであるようだ。龍谷大学を卒業したのち、河内の天野の山中の小さな学校に代用教員として勤めはじめた時期に相当する。すでに中国大陸での戦争が拡大し、国内外とも極めて微妙な時代であった。
 彼は当然、ひきつづいて小説を書きたかったに違いない。だが彼が「山門」で到達した世界の次の世界を指向するには、物理的にも心理的にも若くあり過ぎたようである。彼は「山門」にたどりついて一種の安堵を覚え、それから「では具体的に何を書くべきか」という地点にたつと、彼の精神の若々しさ、彼をとりまく環境は必ずしも前進させない。
 彼は「山門」の入口を見出しながらも、くぐりぬけられない、文学として具体的に形象化できない「いらだち」焦燥感が、ときには上方漫才の原案書きに逃避させたり、童話の執筆にかりたてる機縁になったようである。
<中略>
 さて、童話を書きはじめた花岡は、比類のない速度で大量の習作を発表しはじめる。永年短歌や小説によって鍛えあげられた筆力からすれば、児童向の童話などは実に容易に「ものすることができる」文学形式だったのである。この習作時代のトレーニングは、後の花岡の創作活動の基礎になっているようである。いまでも彼の作品には擬音語や擬態語が驚くほど多用されているが、そういう習慣は、童話をマイナー芸術としてやや軽んじていたこの時期の修練が遺したもので、一つの特徴にもなっている。
<中略>
 そして習作時代を終えて童話作家として確立する時期がくる。それは軍隊に召集された彼が留守宅に残した子どもたちに送る形式え書かれた「おとうさんの手紙」(昭15 横山書店)から始まるといっていい。彼はこの作品で、これまで単なる文学的技巧であった童話から、あきらかに対象として子どもを見すえた児童文学への転身がみられる。
<中略>
彼のイメージするところの子どもは、のちにその捉え方の特殊性ゆえに話題を呼んだ、「そのへんにごろごろしている、週刊誌などに熱中している」多くの現実の子どもたちではなく、彼自身のなかで観念として凝固された特別の子どもであった。そして軍隊と留守宅のあいだに物理的に隔絶されているあいだに「わが子」と重りはじめた特殊な児童像だったのである。わが子と彼自身の観念とのダブルイメージのなかで「おとうさんの手紙」が、すぐれた成果を残したといえる。
<中略>
「小さな村のランプ」「花ぬすっと」「地獄のラッパ」「かたすみの満月」とつづく、いかにも宗教的人生観のあふれた傑作を書いた時期があるが、彼みずからが、どうしてもそれだけで満足し得なかったのは、文学によって宗教的なもの、仏教的なものを捉えようとする努力が、あまりにも表面にあらわれすぎていることを、自分でも感じはじめたに違いない。「わがはからい」の空しさ、あるいは不逞さを、しみじみ味わいはじめたのであろう。
 そして「清九郎」などの妙好人の行実をたどっていく段階で、文学と宗教とのかかわりあいは、文学によって宗教を考えるのではなく、みずからの信順そのものを、いかに文学として形象化するかということに彼自身、気づかされたのであった。このとき花岡は、あきらかに転生を遂げた。
 この「仏典童話」は、そういう花岡の転生とともに書きはじめられた、彼にとって出世本懐ともいうべき文学だったのである。
 かつて私は「妙好人清九郎」の解説のなかで、「花岡は固有の思想を持たない。彼のあらゆるところに親鸞が影を落している」と書いた。これは最大級の褒め言葉のつもりであったが、花岡はすこし不快がっていたようである。しかしそういう作家的態度こそが花岡自身の文学者としての固有の精神であると認めることは、いまも撤回するつもりはない。

仏典童話全集5(法蔵館)昭和54年9月
中川正文(京都女子大学教授)解説より


◆ 児童文学と花岡大学に関する私論

「幼児期・少年期に受けた感動が、一生の宝になる」という宣伝文句は、現在でも多くの賛同を得ている通説ですが、同時に「トラウマと呼ばれる心の傷が、重荷としてその人の一生に圧し掛かる」ということも懸念されてきました。一つ一つの童話が、果たして「人生の宝」になるのか、はたまた「トラウマ」として残るものなのか。そろそろ検証されていい時期かも知れません。

 近年「童話というのは、ホントは恐いんだゾ」という視点から、様々な出版・発言がなされています。童話のもつ「教育的有効性」に対して、『グリム童話』を筆頭に「恐怖・抑圧性」が語られ、例えば映画『ホワイト・スノー』では白雪姫に隠された魔女の伝説を元にディズニー・アニメとは正反対の面が描かれます。しかしここで重要なのは、裏の面としての「恐怖・抑圧性」は、実は「教育的有効性」と一体になっているケースが多々あるということで、実はディズニー・アニメもその延長線上にあることを指摘しておかなくてはならないでしょう。

「子どもに対する教育的配慮」というのは大方、組織志向に基づくご都合主義的なもので、下手をすると「洗脳の言い訳」とも思える歪曲が施される場合があります。つまり、「物語は読み手に思想的な影響を与える」という常識が、当然、絵本や童話にも当てはまり、「人畜無害で感動だけ与える」という文化は存在しないということが忘れられがちなのです。

 また、いずれ機会を見つけて詳しく述べたいと思いますが、児童文学には差別や侮蔑の例も多く、例えばかつて『ちびくろさんぼのおはなし』(ヘレン・バナーマン著)に対して「黒人を差別している」という指摘がなされ、出版が控えられるようになりましたが、これは所謂「無意識に顕れた差別」でしょう。しかし世に存在する文学に差別はつき物であり、もし差別意識が少しでも含まれていたら世に出すべからず≠ニなれば、大半の書物は出版停止に追い込まれてしまいます。教育的なことを考えるならば、子どもたちには差別の毒はどの書物にもある≠ニ認識できる能力をつけさせることが肝心ではないでしょうか。
 例えば『三匹のこぶた』などは巧妙に仕組まれた人種・文化差別で、アフリカやアジアの文化をワラや木の家で象徴し、風で吹き飛ばせてこけ下ろしたりしています。これは原作を巧妙に書き換えて差別意識をさらに植え付けた表現でしょう。また『チョコレート工場の秘密』(ロアルド・ダール著)などでは、アフリカの小人(ピグミー族)の暮らしを悲惨なものと断定し、奴隷制度を正当化する芸当までやってのけています。このような侮辱に誰も文句をつけないのは不思議ですが、児童文学というのは読み手の子どもに批判能力がない分、こうした洗脳がいとも容易くできてしまう危険を孕んでいます。

 さて、一般論を先に挙げましたが、実は花岡大学の醸し出す文学も「そうした例と別次元である」とは必ずしも言えないのです。特に『聖戦の歌を語る』のような極端な「母性賛美」は、当時の「良妻賢母が軍国の光となって国家に奉仕する」という図式を助長し、つまるところ女性に過度の犠牲・忍耐を強いることになるのですが、その<犠牲的忍耐>と<捨身施>が、どこか氏の感性の中でつながっていて、結局は「現実味のない理想像」に対する賛美を止めていないのではないか、と思わずはいられないのです。
 そしてここで考えなければならないのは、先に私が疑問を呈したように、中川正文氏の言う“彼のあらゆるところに親鸞が影を落している”という論や、野々村智剣氏の“花岡さんほど「親鸞的」な作家はいない”という表現を、そのまま受け入れることはできないということです。

 つまり、花岡氏の仏教理解と親鸞聖人の思想的結びつきは、部分的な関連はあっても方向性は必ずしも一致していない、ということをよく吟味しておくべきで、特にそれは、親鸞聖人が如来の本願を「自己発見から自己創造・社会創造へ展開するはたらき」と見抜かれたのに比べ、花岡氏の仏教理解には「自己犠牲をおのずから強いる」という力みが見え隠れしている点に顕れています。例えば阿弥陀如来の第十願は「不貪計心の願」ですが、これは自己や社会を改革するにあたり自らの煩悩的行為を正当化しないことを願うのであって、行者に犠牲を強いるものではありません。
 そうした周辺も読んでみると、仏典童話というのは「仏典」というお墨付きの上に、自己の特殊な感性を開花させている文学である、とも言えるでしょう。花岡氏の童話を読む時、多くの感動を呼び起こすとともに、心の片隅に拭い切れない疑問・違和感が残るのは、そうした視野の結果とも思われます。

 勿論「それが文学というものである」と言えばその通りですが、子どもにとってそれは強烈なトラウマを伴った感動喚起であり、敏感な感性に浸透させるには余りにも現実離れした物語も多々ある、ということは知っておくべきでしょう。

[小笠原信]



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