平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

現世利益を説かなければ新興宗教に負ける?

真実の現世利益は現生正定聚の益

質問:

 人間が宗教に興味を持つのはこの世の生き様の中で浅はかな人間智慧でどうにもならない現実をどうかして欲しい超能力を神や仏に求めるのだと思います。どうかして幸福になりたいと現象の利益を求めるのです。其れが仏だと思います。(幸福の意味が違うといいます。)だから真宗の説く祈らない宗教には少しなじめないものを感じるのではないでしょうか。
 求めて得られたとき救われたと思われるのではないでしょうか。現実の生活が砂上の楼閣と言われたとしてもやっぱり我々凡夫には見える世界のことが一番です。平生業成といわれますが、このことを云ってるんではないでしょうか。(違いますね。)
 現実の生活に現れないでは何か人に勧めるときもなかなか納得されません。どうしても現象利益を説く新興宗教にまけてしまいます。

返答

◆ 奇蹟は救いではない

【祈願する】: 取るに足らない存在、と自ら認めているたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則が廃棄されることを願う。

アンブローズ・ビアス 著『悪魔の辞典』より

 ご存知の通り正統の仏教は、釈尊以来「奇蹟は真の救済ではない」という態度を持してきました。
「正統の」とあえて書きましたのは、形は仏教でも教えが我流の教団が後を絶たず、正法を蔑ろにした活動をする偽仏教が歴史的に数多出現し、現在でも甘言で儲ける獅子身中の虫が盛況を博している現状があるからです。
 これは人間の弱みに付け込んだ実質的な詐欺で、その際に払われる額が社会通念を超えると警察沙汰になってしまいます。多くの偽宗教は、詐欺として訴えられない額で嘘をついているだけなのです。

 かつて親鸞聖人が、――

五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
(100)

かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす

(101)

『正像末和讃』悲歎述懐讃 より

と仰られた事態が現在も続き、安易で詐欺的なにせの宗教に翻弄され、人生を迷いの中で過ごして終る人は後を絶ちません。罪の中でもこうした宗教者の嘘偽りの罪は最悪のものといえるでしょう。
 法律では金品の搾取は取り締まりの対象となりますが、偽の宗教はいわば精神・人生の搾取で、いくら教団の拡大につながっても、そうした詐欺に加担することは、法律の適用外とはいえ大変な犯罪を犯していることになります。

 これは全く嘆かわしい限りですが、そうした堕落を引き起こさないためには大変な自重が求められます。しかし浄土真宗はその素晴らしい伝統を現在も保ち続けているのです。
 釈尊も正法を弘めるに当り、そうした圧力に屈しないため大変な努力をされて僧団を導かれ(見守られ)ました。仏教徒が法を曲げることは、そうした仏教の歴史に泥を塗ることであり、正法をないがしろにすることに他なりません。
 他宗教が甘言で教団組織を拡大していることなどに追随せず、迷信をきちんと批判し、自らの人格を完成しつつ進んで社会に貢献し、共に生き甲斐のある人生を目指すのが仏教である、ということはご承知ください。またその尊さを味わっていただきたいと思います。

◆ 何を求めるのか

 さて、ご質問では、――
〉求めて得られたとき救われたと思われるのではないでしょうか

と書かれてありますが、これはその通りだと思います。
 求めることなく本物の利益を得ることはなく、たとえ得られていたとしても感謝することができないため、その価値が認識されず消え去ってしまうでしょう。
 本物は求めた時に得られる。もっといいますと、真剣に求めた時にのみ「得られていた」ことに気付くのです。

 ただ、ここで問題となってくるのは「何を求めるか」ということです。
「財や色をむさぼることは、子どもが刃に塗られた蜜をなめるように、甘さを味わっているうちに、舌を切る憂いを残す」(四十二章経)とあるように、多くの人は「あれもこれも」と、ただ欲望と怠惰な心に寄り添うだけで、その心が結局自らを傷つけ滅ぼす原因(煩悩)になっていることに気が付きません。まして、煩悩を満足させるために真実の法ではない利益を求める、つまり「宇宙の全法則が廃棄されることを願う」などということは愚行以外の何ものでもありません。

 池に石を投げ入れれば沈む、ということが自明の理であるように、いくら祈っても重い石は水に浮きません。現実にふりかかる生老病死などの苦も、いくら祈っても避けることはできないのです。健康に気をつけていてもいつか病気になるし、安全運転を心がけていても交通事故に遇うこともあります。
 勿論それぞれの心がけで災難の確立を低めたり長寿も可能になりますが、現世は無常であり、常にいのちや財産を失う心配は尽きず、いずれそれは現実のものとなります。

 こうした苦しい現実があっても救われる道はないだろうか、いやむしろ苦しい現実を受け止めたところに成就する道はないだろうかと考え、実践し、成果をあげてきた歴史が仏教の功徳なのです。
 無常を無常と諦観するところに真の常住を求める心が引き出され、常住である真実が無量光明土の浄土となって現世に名号をもたらし、私たちもその呼びかけに応えて念仏を称える時、苦が単に厭うものではなく、覚りに転ずる機会であったことに気が付き、現実に出逢うものすべてに深い慈愛を覚えることができるのです。

癌は
私の見直し人生の
ヨーイ・ドンのGUNでした
お念仏をいただくことができまして
ありがとうございました
喜んで
この生 終らせていただきます

(鈴木章子)

◆ 本当の現世利益

 浄土真宗における現象利益(現世利益)につきましては、以前 [現世での救い十種]に書かせていただき、またその前提となる金剛の信心は誰でも得ることができる、ということも [難信の法など信じられる人は少ない?] に掲載させていただいてますが、ここで再度引用させていただき、またもう少し補足して説明させていただきます。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

[顕浄土真実教行証文類 信文類三(末) 現生十益]

 ――以下意訳―― (『現代語版』に拠る)
金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに五悪趣・八難処という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を超え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。十種とは何かといえば、
一つには、眼に見えない方々にいつも護られるという利益、
二つには、名号にこめられたこの上ない尊い徳が身にそなわるという利益、
三つには、罪悪が転じて善となるという利益、
四つには、仏がたに護られるという利益、
五つには、仏がたにほめたたえられるという利益、
六つには、阿弥陀仏の光明に摂め取られて常に護られるという利益、
七つには、心によろこびが多いという利益、
八つには、如来の恩を知りその徳に報謝するという利益、
九つには、常に如来の大いなる慈悲を広めるという利益、
十には、正定聚に入るという利益である。

 ここで1番重要なのが「正定聚に入る益」で、前の9つはその利益を開いたものですから、9つの利益をつぶさに見ることで正定聚の真相が明らかになってきます。ところで、まず踏まえておかねばならないのは、この「現生正定聚」というのは親鸞聖人の教学上の発揮だ、ということです。

 先に述べたように、『大経』以来、浄土教の伝統的な正定聚は、彼土正定聚であった。それを超えて、凡夫であるままで信心獲得の一念に、現生に於いて正定聚の機となるといいきられたのは親鸞聖人であった。
<中略>
 信心の行者が、煩悩具足の身のままで摂取の心光の中に摂取せられているということは、阿弥陀仏を中心として十方世界に展開する諸仏・諸菩薩・諸天善神・十方法界同生者・十方衆生といった、壮大な尽十方無碍光如来の秩序の中に収められて、その存在が意味づけられていくということであった。
<中略>
 すなわち本願を信ずるものは、死ぬるまで愚かな煩悩具足の凡夫ではあるけれども、いただいている信心の徳義からいえば、仏智の所有者であるから、無漏智をそなえた正定聚の機といわれるのである。それは凡夫でありながら聖者の徳を持つということになる。・・・それは、信心の行者は、すでに如来の智慧と慈悲の秩序とうけいれ、如来の秩序下におかれているからである。それを摂取されているともいい、正定聚に入るともいうのである。

梯実圓 著『教行信証の宗教構造』第八章 第二節 より

 このような教学の発揮は、単に聖教の片隅をつついただけでは適わず、阿弥陀如来の無限のはたらきを中心軸に据えて世界の存在意義を問い直し、教学の再構築を試みたところに成し得た快挙であった訳です。

 こうした成果が「現生正定聚」となって顕れるのですが、この利益を9つに開いた解説を、以下同著で見てみましょう。

 もともと正定聚というのは、輪廻転生と言い表されるような迷いの生存の原因である煩悩を断ち切って、愛憎も生死も本来空であると悟る無漏の智慧を開いた聖者の境地であった。・・・それにひきかえ、本願を信じ、南無阿弥陀仏を身にいただいた信心の行者は、今生の「いのち」の尽きるまでは煩悩具足の凡夫であり続けるが、阿弥陀仏が悟り極められた無量の徳が与えられている。それゆえ『浄土文類聚鈔』には、「信を発して称名すれば、光、摂護したまふ、また現生に無量の徳を獲」(註釈版聖典、四八六頁)といわれている。ここではその無量の徳を仏祖の教説によって十種に要約して示されたわけで、信心の行者が身に得ている豊かな徳相を開示されたものである。


1 冥衆護持の益

 もともと念仏者は、阿弥陀如来以外は仏・菩薩さえも信仰の対象とはしないのだから、まして神々を信仰の対象とすることはあり得ないが、仏教を守護し、仏教徒を護る善神を軽蔑してはならないと戒められていた。また悪神は、真実の教えに出逢えば、その存在根拠である怨念・悪心を破られるから、念仏者を懼れて避ける。あるいは悪心を翻して仏法に帰依して善神に転じられていく。したがって、本願を信じ念仏する者は、冥界に恐怖心を持ったり、怨霊の祟りを畏れたりすることは少しもないと教えられた。むしろ目に見えないところから護られていることを感謝すべきであるというのである。


2 至徳具足の益

阿弥陀仏は、その仏徳のすべてを、名号にこめて衆生に与えているから、信心の行者は無上の功徳を身に宿されていて、仏になるのに必要にして十分な因徳が欠けるところなく備わっている。それゆえ、本願を信ずる者は、「他の善も要にあらず」と断言できるのである。


3 転悪成善の益

無碍光の徳によって信心の智慧が開け起これば、人生に対する新しい視点が与えられ、氷が水に変わるように罪障が功徳に転ずるという不思議が実現するといわれるのである。人生にはさまざまな障害と苦難が襲って来る。この世は何が出てきても不思議でない恐るべき境界である。その中にあって、苦難を仏祖の教えに導かれながら乗り越え、むしろ苦難によって磨かれ、成長していった人だけが言い切れる深い喜びが「さはりおほきに徳おほし」という言葉であったといえよう。


4 諸仏護念の益

・・・五濁悪世といわれる濁りきった世界に生きる煩悩具足の凡夫は、仏法を聞こうとする思いもなく、まして信受し奉行するような心を持ち合わせてはいない。それゆえ十方の諸仏は大悲をこめて阿弥陀仏の本願の真実であることを証明し、人々の疑い心を破って信心の行者たらしめたのである。こうして育て上げたその信心が退転しないように諸仏は護念し、また、行者がさまざまな悪縁を乗り越えて浄土に向うよう護り続け、行者を浄土へ導きたまうのである。


5 諸仏称讃の益

本願を信じ、念仏する人を『大経』には「すなわちわが善き親友なり」と讃えられている。親友とは、本当に心の通う友ということである。釈尊はじめ、あらゆる仏陀が、心を同じくして勧めたまうた阿弥陀仏の本願を、教えのままに受け入れ信ずる人は、まさに諸仏の御心にかなったものだからである。『観経』には念仏の人は「人中の分陀利華なり」と称讃されている。分陀利華とは、白蓮華のことである。泥沼に咲きながら泥に染まらず、馥郁とかおる純白の蓮華、それはもともと如来を讃える言葉であり、真実の法を讃嘆する言葉であった。それを、こともあろうに煩悩具足の念仏者に与えられているということは、如来は、南無阿弥陀仏となって煩悩の中に宿り、信心の智慧となって煩悩を内から転換しつつあることを告げられているといえよう。


6 心光常護の益

信心の行者が、摂取不捨の利益に預かることの慶びを挙げられたものである。・・・「正信偈」には「摂取の心光、つねに照護したまふ」といわれている。心光とは、「無碍光仏のおんこころ」のことで、善悪・賢愚の隔てなく、万人を障りなく救いたまう阿弥陀仏の大智大悲を光明というのである。私どもの目に見えるような、物質としての光ではないというので心光といわれたのである。いいかえれば、阿弥陀仏の光明は、目で見て確かめる物ではなくて、本願を聞いて心に信知する仏心なのである。


7 心多歓喜の益

すなわち初地以前の菩薩は、諸仏を念じても、私は必ずこのような仏になれるという思いを起こすことができない。仏の偉大な徳を聞き、学んでも、それを他人事としてしか聞けないから真の喜びは出てこない。いわば他人の財産を数えているようなものでしかないのである。それに引き替え、初地に到達した菩薩が、さまざまな仏徳を聞き、偉大な菩薩の功徳を聞き、学ぶときには、それを必ず我が身の上に実現する功徳として聞き、心に多くの喜びが湧いてくるから歓喜地というのである。・・・そこに感じられる喜びは、私の心の上ではささやかな思いであっても、無限の深さと広がりをもっていて、私の「いのち」を包み、決して尽きることなく人生を潤し続ける。それはまさに歓喜地といわれるような、「心に歓喜多き」境地であるといわれたのである。


8 知恩報徳の益

すなわち私が信心の行者となったのは、全く如来の本願力の恵みであったことを信知したことを知恩といい、その恩恵に報謝することを報徳というのである。
 このように恩を知るということが、本願力のはたらきを信知することであるならば、知恩は信心の内実であるともいえよう。逆に恩を知る心がないということは、他力の信心のないことを意味していた。自分の力で仏法に遇い、自分の力で念仏を申すようになったと考えて、その念仏が、如来より与えられた大悲回向の法であることに気づかないものは、真実の如来に値遇することができない。自力の善によって浄土を感得できると考えているひとは、真実の浄土を見失うことになる。
<中略>
その報恩の具体的なありさまは、何より如来より賜った本願の念仏を相続することであり、如来の教法を一人でも多くの人に伝えようと勤めることであるといわれている。


9 常行大悲の益

 龍樹菩薩の『大智度論』には、慈悲とは、衆生に喜楽の因縁を与え、離苦の因縁を与えることであるが、それに衆生縁、法縁、無縁の三種があるといわれている。『論註』上巻の「性功徳釈」には、それによって、「慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、これ大悲なり」(註釈版聖典七祖篇、六一〜六二頁)といわれている。
<中略>
無縁とは、縁がないことではなく、能縁(慈悲を起こす自分)にも所縁(慈悲の対象となっているもの)にもとらわれず、また順縁(親愛)にも逆縁(怨憎)にもとらわれない怨親平等の慈悲をいうのである。その心は、生きとし生けるすべての者を包含して、余すところがないから「大」というのである。
<中略>
慈の原語であるマイトリーは、ミトラ(友)から造られた抽象名詞で、本来は友情、友誼の意味であるが、一切の人びとに対する平等の友情のことを慈という。また悲の原語のカルナーは、痛む、悲しむであるが、その原意は「呻き」ということであって人生の苦に対する人間の呻きを意味していたという。そこから転じて自身の痛みを通して人の痛みを同感し、「その自分の中にある同苦の思いが、他の苦をいやさずにはおれないという救済の思いとなって働く、それが悲である」といわれている。
<中略>
しかし、私どもの現実は、他の人と本当に痛みを共有しきることもできず、人の痛みを癒していくこともできないという、自他を隔てる厚い壁に遮られている。そしてまた、どんなにいとおしく思い、たとえわが身に代えてでも幸せになってほしい人がいたとしても、指一本の支えもしてやれないこともある。人生には、腸の断ち切られるような思いを懐きながらも断念しなければならないことがあるのである。人間の愛の手の及ばぬことがあるのだ。その人間の手のとどかぬところにまで、如来の大悲の手は確実にさしのべられているのだと聞くとき、自分の力のなさを悲しみながらも、希望と光がさしこんでくる。
<中略>
・・・凡夫であっても、万人を平等に救うと仰せられる阿弥陀如来の大悲召喚に応答して、大悲の本願に身をゆだね、その広大なはたらきに参加することは許されている。いいかえれば、如来の大悲に呼び覚まされて、苦しみ悩む人々と連帯しつつ、自他ともに大悲に包まれていることを讃仰するような身にならしめられることを「常に大悲を行ずる益」といわれたのである。

・・・入正定聚の益は総益であり、他の九種はその別益を開き顕したものである。

梯実圓 著『教行信証の宗教構造』第八章 第三、四節より抜粋

 以上のような利益は、単に頭の中で理屈を考えていても受けることは適いません。常々日常生活の中で我が生きざまに目を向け、あわせて如来と浄土の徳を念じる(訪ねる・学ぶ)ことが必須ですが、その最上の方法が称名念仏であることはご存知の通りです。
(参照:{正定聚・不退転の菩薩について}

 ちなみに「平生業成」については、――

問うていはく、諸流の異義まちまちなるなかに、往生の一道において、あるいは平生業成の義を談じ、あるいは臨終往生ののぞみをかけ、あるいは来迎の義を執し、あるいは不来迎のむねを成ず。いまわが流に談ずるところ、 これらの義のなかにはいづれの義ぞや。  答へていはく、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし平生業成といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心をうるとき往生すなはち定まるとなり。これを即得往生といふ。これによりて、わが聖人(親鸞)のあつめたまへる『教行証の文類』の第二(行巻)、「正信偈」の文にいはく、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といへり。この文のこころは、「よく一念歓喜の信心を発せば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながらすなはち涅槃の分を得、凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしく生る。たとへばもろもろの水の海に入りぬれば、ひとつ潮の味はひとなるがごとく、善悪さらにへだてなし」といふこころなり。

存覚上人 著『浄土真要鈔 本』より


 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。

蓮如上人 著『正信偈大意』より

ということで、平生とか臨終にこだわらず、「ただ信心をうるとき往生すなはち定まる」というのが義ですが、もちろん、現在の自分が臨終の状態でなければ、平生である今こそ信心獲得のチャンスである訳です。

◆ 自信教人信の展開

 最後に、そうした如来のはたらきを現実社会に展開してゆくことについて、ですが、

〉現実の生活に現れないでは何か人に勧めるときもなかなか納得されません。どうしても現象利益を説く新興宗教にまけてしまいます。

 このような懸念は上記の「かならず現生に十種の益を獲」の中に述べてありますように、「真実の利益」こそ大切にしたいところです。そして8の「知恩報徳の益」にあります本願念仏の相続・伝道を行うことが「人に勧める」という具体相ですが、その原点に9の「常行大悲の益」を見失っていては伝道が自力の殻を破れません。本願の伝道に一切の苦痛はありませんし、退転もあり得ないのです。
 もし、少しでもそうした躊躇が湧いてきてみえるのでしたら、ぜひ「怨親平等の慈悲」を思い、堂々と説いてほしいところです。

 ただし、「自信教人信」といいまして、自らの境涯に歓喜が無ければ誰も耳を貸してくれません。如来の本願を学ぶことも、自らの問題として受け入れることも、人に如来の功徳を語ることも、大いなる喜びであり、また同時にわが身のあり方を深く反省し慚愧の思いが溢れる瞬間でもあります。


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浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)