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百八煩悩

108の煩悩をすべて掲載します

【仏教資料集】

 煩悩の分類

煩悩の分類
 身心を悩まし、煩[わずら]わせ、惑わし、さとりの実現をさまたげるあらゆる精神作用を煩悩といいます。
 煩悩には根本煩悩と枝末煩悩があり、
根本煩悩は、貪[トン](むさぼり)、瞋[ジン](いかり)、癡[チ](おろか)、慢[マン](おごり)、疑[ギ](うたがい・まよい)、見[ケン](あやまり/邪見・悪見)の六煩悩、
枝末煩悩は根本煩悩に伴って起こる従属的な煩悩をいいます。
また、この六煩悩の中でも貪(貪欲[トンヨク])瞋(瞋恚[シンニ])癡(愚癡[グチ])は三毒煩悩[サンドクボンノウ]とも三垢[サンク]・三惑[サンワク]ともいわれ、特に仏道修行の中心課題としてきました。
 そしてそれら全てに関して、
仏教の真理に迷うものを見惑、
現象的な事物にとらわれ迷うのを修惑、と分け、
見惑は見道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、
修惑は修道位という修行段階で滅ぼされる煩悩、としました。

また「見道は石を割るが如く、修道は蓮糸を切るが如し」ともいわれ、
見惑は岩を割るように滅ぼされる煩悩で、割るまでには大変な転換が必要ですが、一度割ってしまえばもう元には戻りません。真実を覚れば迷いは無くなりますので、見道位の修行はここで終わります。
しかし修惑は蓮糸[レンシ]のように粘りつき、簡単に切れるようでいて切れない。切っても切っても切りきれない粘り強い煩悩です。割ってしまったはずの煩悩も習気[ジッケ]・習慣性としてとして癖が残っていますので、うっかりすると修惑が頭をもたげてくる。これを修道位で丁寧に滅ぼしてゆくのです。
総じて言えば、見惑は頭や心で断ち切る問題、修惑は身や習慣で断ち切る課題でしょう。

108 という数について
 さて、その見惑・修惑の数え方ですが、倶舎宗では 88 と 81 (88+81=169)、唯識宗では 112 と 16 (112+16=128) です。宗旨宗派ごとに違う数え方をしますし、その数も 108 ではありません。
 古代インドでは、108 やその他大きい数字は大抵「大変多い」という意味を表す使い方をされていまして、数字自体にはあまり意味はありません。煩悩については他に「八万四千の煩悩」という表現があり、これは「煩悩は大変多い」 と解釈すべきでしょう。ただしインドは古くから掛け算の国であり、2の2乗(4)×3の3乗(27)=108であることと何か関係があるかも知れません。
 除夜の鐘を 108回ならす習慣は中国に始まるものですが、その 108 のいわれは 12ヶ月+24節気+72候で 108 というものや、眼(げん)・耳(に)・鼻(に)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根×好(気持ちがいい)・悪(いやだ)・平(何も感じない)の三種×浄(きれい)・染(きたない)の2種×現在・過去・未来の三種で 108 とするものなど色々ありますが、すべて俗説のようです。

浄土教(浄土真宗)の受けとめ方
 初期の仏教では、人の苦しみはみな煩悩にとらわれる事によって生じるので、この煩悩を消滅させる(煩悩に勝つ)事によって覚りに達することができる≠ニし、その修行に励みました。しかし大乗仏教では、仏の智慧から見れば煩悩も菩提(さとり)もともに固定的なものではなく、二つを全く別のものとする考えかたを一種のとらわれ・迷いであると見るようになりました。なぜなら煩悩もその本体は真実不変の真如でありますから、煩悩を離れた法はないので両者の相即[そうそく]を煩悩即菩提[ぼんのうそくぼだい]と示したのです。煩悩と菩提は対立しつつも相互に融合しあい一体となっている、そこで大乗仏教の修行としては、煩悩を消滅させる修行には重きを置かず、煩悩など最初から相手にしないで、仏性に目覚め自らがその主[あるじ]となって無礙[むげ]自在なる境地と活動を成就する修行に移行していったのです。
 浄土真宗においては、自分自身の苦悩の内容を煩悩具足の凡夫(煩悩にとらわれ煩悩から離れることが出来ず煩悩につき動かされている人間)と深く認識しながらも、これを自力を頼んで断じるのではなく、煩悩成就を見る眼を如来の智慧と尊み、無明を嘆く悲しみを如来の慈悲と拝み、私に成り切ってはたらく阿弥陀仏の願力に乗じていくことを勧めます。これが<弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは信心をうることなり>(『蓮如上人御一代記聞書』237)等と勧められる大信心であり、浄土真宗ではこの如来回向の信心を何よりも尊ぶのです。ここにおいて私たちは、人間平等の仏性と宿業の大地に立つことが適い、御同朋社会のうちに煩悩はそのまま菩提となると味わうことができるのです。

108の煩悩の列挙例

 この例は、倶舎論でいう九十八随眠(ずいめん)に十纏(じってん)を加えて108にしたものです。

 九十八随眠は、修行によって消しうる煩悩を修行の段階に応じて列挙したもので、本文中で触れた根本煩悩を修行の各段階に当てはめたものと言えます。また十纏は枝末煩悩のうちでも重いとされるもの10種です。

九十八随眠見惑欲界苦諦1
2
3
4
5
悪見有身見6
辺執見7
邪見8
見取見9
戒禁取見10
集諦11
12
13
14
15
悪見邪見16
見取見17
滅諦18
19
20
21
22
悪見邪見23
見取見24
道諦25
26
27
28
29
悪見邪見30
見取見31
戒禁取見32
色界苦諦33
34
35
36
悪見有身見37
辺執見38
邪見39
見取見40
戒禁取見41
集諦42
43
44
45
悪見邪見46
見取見47
滅諦48
49
50
51
悪見邪見52
見取見53
道諦54
55
56
57
悪見邪見58
見取見59
戒禁取見60
無色界苦諦61
62
63
64
悪見有身見65
辺執見66
邪見67
見取見68
戒禁取見69
集諦70
71
72
73
悪見邪見74
見取見75
滅諦76
77
78
79
悪見邪見80
見取見81
道諦82
83
84
85
悪見邪見86
見取見87
戒禁取見88
修惑欲界89
90
91
92
色界93
94
95
無色界96
97
98
十纏無漸99
無愧100
101
102
悪作103
睡眠104
掉挙105
コン※沈106
忿107
108
※=りっしんべんに「昏」


三界(さんがい)
「欲界」「色界」「無色界」は合わせて「三界」といいますが、いずれも迷いの世界です。
(参照:{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」}
欲界(よくかい)
欲望の支配する世界で、「地獄」「餓鬼」「畜生」の三悪道(参照:{無三悪趣の願})と「修羅」「人」の界、そして「天」の一部(参照:{荘厳妙色功徳成就「#比較できるものからできないものへ」})が欲界にあたります。具体的には、我執(餓鬼)と無明(畜生)によって社会悪(地獄)が造られ、自分勝手な正義に固執(修羅)し、正しい法を聞くことなく道を求めず(人)、六欲天の福に満足している人(天)。総じて言えば、金や名誉など外側から充足される欲望を中心的価値として生活している人々が「欲界」の住民です。欲界は天人であっても天人五衰(てんにんごすい)の大兆候があらわれれば破滅は免れず、その際は地獄の住民以上の苦しみを受けなくてはなりません。
色界(しきかい)
清らかな物質から成り立つ世界で、初禅・二禅・三禅・四禅天の四天、もしくは十七天の別があります。色界の住民は全て天人で、与えられる欲望に執われず、みずからすすんで価値あるものを生み出します。
無色界(むしきかい)
物質の存在しない世界。物質を超えた純粋に精神的な領域。この界の住民も全て天人で、受・想・行・識の四つの構成要素 (蘊[うん])のみからなる世界(五蘊のうち色が無い)。空処(空無辺処/虚空のように無辺であると観ずる境地)・識処(識無辺処/識が無辺であると観ずる境地)・無所有処(何も無いということを観ずる境地)・非想非非処天(想いがあるのでもなく、無いのでもない境地)等の境地をいいます。この界に達すると、外側から充足される欲望や形あるものに執わず、瞑想などによって宇宙と一体となった執われのない境地を得ることができます。ただし、自分の獲得した境涯に安住してしまい、苦悩の現場に打って出て積極的に自らと環境を変革する境地は得られていません(参照:{「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味ですか?})。しかも非想非非処天でさえいずれ無間地獄に落ちることは避けられないので、三界は全て厭い避けるべき世界といえます。

四諦(したい)
四つの聖なる真理。
苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つ。
苦諦(くたい)
人生は思い通りにならない(このことを「苦」と表記)という真理。苦聖諦(くしょうたい)。
集諦(じったい)
苦をもたらすのには原因があり、それは欲望を引き起こしたりする煩悩であるという真理。苦集聖諦(くじゅうしょうたい)。
滅諦(めったい)
苦をもたらす原因の煩悩を滅した境地は涅槃(ねはん)であるという真理。苦滅聖諦(くめつしょうたい)。
道諦(どうたい)
苦を滅した涅槃に至るには修行の道(八正道)があるという真理。苦滅道聖諦(くめつどうしょうたい)。(参照:{「八功徳水」の源流}
集諦が原因で苦諦の結果となり、道諦が原因で滅諦の結果が得られる。
十纏 [じってん](「纏」は「まつわりつく」こと)
無漸(むざん)
内面的に恥じないこと
無愧(むき)
人に恥じないこと
嫉(しつ)
ねたみ
慳(けん)
ものおしみ
悪作(あくさ)
後悔
睡眠(すいめん)
眠りに陥らせる精神作用
掉挙(じょうこ)
精神的な躁状態のこと
コン沈(こんじん)(※りっしんべんに「昏」)
精神的な鬱状態のこと
忿(ふん)
いきどおり
覆(ふく)
罪をおおい隠すこと

四向四果[しこうしか](仏教語大辞典/中村元著・東京書籍)より
聖者の四つの位。小乗仏教における四つの修行目標(向)と到達境地(果)。
(1)預流[よる]・須陀オン[しゅだおん]
(2)一来[いちらい]・斯那含[しだごん]
(3)不還[ふげん]・阿那含[あなごん]
(4)阿羅漢[あらかん]
右(上)の四つにそれぞれ向と果を立てる。すなわち、小乗における修行階位を、或る境地に向かって修行していく段階(向)と、それによって到達した境地(果)とに分けて説いたもので、 預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果の八つをいう。
預流向は三界(欲界・色界・無色界)の見惑(八十八使)を断じつつある見道十五心の間をいい、見惑を断じ終って、第十六心である修道に入ると、これを預流果という。
一来向は欲界の修惑[しゅわく]の九品[ぼん]のうち、六品の修惑を断じつつある位をいい、それを断じ終った位を一来果という。
不還向はさきの修惑の残り三品を断じつつある位で、これを断じ終るとき、不還果という。ここでは再び欲界に還ることがないので不還の名がある。
阿羅漢向は阿羅漢果に至るまでの位で、阿羅漢の境地(阿羅漢果)に至ると、一切の見惑、修惑を断じ、迷いの世界に流転することなく、ニルヴァーナ(涅槃)に入ることができる。なおこの外に煩瑣[はんさ]な解釈がある。古くは『長阿含経』などに出てくる。


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