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【十界モニター】

「自力を捨てる」ことこそが自力?

時代性と相手の機を考慮した教え

時代性と相手の機を考慮した教え

 浄土真宗といえば「他力」のいわれが一番に問われ、それが教学の根幹にあることは宗門内では承知の通りであろう。また世間一般においては「他力本願」の誤用も多く、その度に宗門としては訂正を促すのだが、度重なるマスコミの宗教音痴ぶりによって事態がますます悪化していることも皆承知のことと思う。
(参照:{「他力本願」は、他人の力に依存すること?}
 しかし最近、私はこの問題はもっと根深いのではないか≠ニ思うようになってきまた。つまり問題は世間の誤用だけではなく、宗門の体制的課題や、教学の理解・展開の過程において発生した問題ではないか、と思い直すようになったのだ。

 本来は如来が先手

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
『領解文』より

まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

『御文章』一帖15

あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。

『御文章』三帖7

 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。

『御文章』五帖10(聖人一流章)

それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。

『御文章』五帖15

 以上をはじめ悪い「雑行自力」を捨て、しかる後に「一心他力」の善き心に帰依すべし≠ニ、蓮如上人以来宗門において一貫して説かれてきた教学だが、私はこの中に自家撞着[じかどうちゃく]を見出すことができるのであるが、どの箇所か解るだろうか。
 それは、このままの表現では<もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすて>る原動力が自力に求められる(かのように受け取られる)点だ。つまり、「自力を捨てる」ことこそが自力ではないか≠ニいう疑問である。上記の引用文の中では『御文章』一帖15以外は全てこの矛盾をはらんでいる。
 誤解してほしくないのだが、私はここで言葉尻をとらえて伝統教学を揶揄[やゆ]するつもりなのではない。先に述べたように、蓮如上人がこうした表現を多用された、多用せねばならなかった宗門の体制的課題や、教学の理解・展開の過程において発生した「時代性」を問うのである。なぜなら、蓮如上人はつねに時代性や目の前の相手のことを考えて法を説かれてみえるからだ。

一、御本寺北殿にて、法敬坊に対して蓮如上人仰せられ候ふ。われはなにごとをも当機をかがみおぼしめし、十あるものを一つにするやうに、かろがろと理のやがて叶ふやうに御沙汰候ふ。これを人が考へぬと仰せられ候ふ。
『蓮如上人御一代記聞書』70
▼意訳(現代語版より)
山科本願寺の北殿で、蓮如上人は法敬坊に、「わたしはどのようなことでも相手のことを考え、十のものを一つにして、たやすく道理が受け取れるように話をしている。ところが人々は、このことを少しも考えていない」と仰せになりました。

 このように、<十あるものを一つに>しぼってお話されたこと、そして、皆(博学の人々)にはこのことがよく理解されず、親鸞聖人の説かれた教えと内容が違っている≠ニ批判されることを歯がゆく思われたのだろう。

『御文章』五帖10(聖人一流章)を例にとって言えば、本当は如来が先手≠ネのである。
<不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ>というように仏の智徳無量なるがゆえに、それを回向された私たちは安心して<一心に弥陀に帰命す>ることが適い、結果として<もろもろの雑行をなげすて>ることも当たり前のようにできる。これが真実信心の道程であり、親鸞聖人はこの信心を一貫して勧められたのである。

 これは他力信心を頂いた方々に共通する体験であるが……以前は「[おぼ]れる者は[わら]をも[つか]む」ごとく、自らの知性や感情や意志を頼りにしていた。しかしこの必然として、どうにも身動きがとれない状態に陥り、理性・自力の限界を知りつつ他に代わるものがない≠ニこれを捨てることができなかったが、聞法を縁として背後から如来の本願が身に満ちてくることに気づき、いつのまにか如来回向の本願大船に乗ることができた。すると、藁のような自力は不要となり、おのずと離れていった、と(参照:{#理性の役割と限界})。たとえば妙好人の浅原才市同行は――

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
忘れて暮らすわたくしに
南無阿弥陀仏が先にでき
思い出すのはいつでもあとよ
わたしゃつまらん あとばかり
わしの心が先ならだめよ
親のお慈悲が先にある
親のお慈悲は先ばかり
わしの返事はあとばかり
ご恩うれしや 南無阿弥陀仏
(浅原才市)
と領解してみえる。このように、あくまで如来が先手でなければ回向は成立しないのだ。これが絶対他力の道理であるが、こんな基本的なことは蓮如上人は重々承知なのである。その上に立って、なぜ<もろもろの雑行をなげすてて>と順番を逆にして説かれたのか≠ニいう問いを発せなければならない。正解・不正解の問題ではないのである。

 「魔」を乗り切る

 それというのも、近代真宗教学において一部の心無い僧侶から蓮如上人を小ばかにしたような言動が出ていることが気がかりなのだ。ならば、あなたは蓮如上人以上の領解を出せるのか?≠ニ問いたい。胸を張って出せる≠ニ応えられる人間は何人居るのだろう。また、もしそう言い切るのであれば、一生においてその証明が適う人間は果たしているのだろうか≠ニ問いたい。<十あるものを一つにする>以前の、残り九割の内容を吟味[ぎんみ]してからものを言うべきであろう。
 実は、上人の凄さはこうした教学理解だけではない、時代性と相手の機を見ることも天才。その上、組織や権力の問題においても現代に通じる内容があることには驚かされる。

 こうしたことを前提に再び問う。なぜ<もろもろの雑行をなげすてて>と順番を逆にして説かれたのか、と。

 答はひとつではないだろう。だが人類の歴史、特に近代の歴史をつぶさに観察すると、自力に固執する人間の業の有様がまざまざと見えてくる。これは、私たちの「焦り」が問題なのであろう。
 焦ると、本願力回向の菩提心(真実信心)が我が身に至る道程を信知できず、心細くなり、「雑行雑修自力のこころ」で自分勝手に理解した仏のイメージに執われてしまう。しかもこの言葉は他力だが実際は自力の信心≠大上段に構えて他人に押し付けることになりかねない。
 実際、信心獲得を自称する人の中にも、問いなおして話を聞けば、結局自分勝手に想像した仏を拝んでいる者も多いので気をつけねばなるまい。私物化ならぬ私仏化、こうなると布教の熱意さえ真実本願力の妨げとなってしまうことは自明の理であろう。もちろん、本質としては何ものも障りとならない力が本願力であるが、本質を信知させていただく時期が大幅に遅れてまうのだ。その間に起きる混乱や悲劇は誰が責任を取るのであろうか。

 おそらく蓮如上人はこうしたことを[かんが]み、<もろもろの雑行をなげすてて>とひとまず自力の大障害を取り除いておいて、その間に聞法に勤しむ環境(土徳)のはたらきを信じて教化する方法を取られたのではないか。人間の業に敏感な上人ゆえに(当時としては)こうした最良の環境と指導方法が確立できたのであろう。それというのも、<もろもろの雑行をなげすてて>と最初に自力を捨ててしまうと、本願力が領解できるまでに多少の空白期間がうまれてしまうのだが、本当はこれは極めて危険な「魔」の時間(参照:{自己探究は危険?})。しかし当時は、聞法の機会を頻繁にすることでこの「魔」を乗り切ったわけである。

 身体的表現をもって道理を説く

 このように蓮如上人の示された時代性と相手の機を考慮した教え≠ヘ、実は仏教展開の本筋であることも知らねばならない。経典の多くは、本質と実践(随自意説と随他意説)を分けて説いている。(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか?}

 すると私たちが蓮如上人から学ぶ最も重要なことは、「時代性と相手の機を無視した教えは力にならない」ということだ。したがって浄土三部経典から普遍的な本願力回向の歴史をよくよく学びながらも、その中から時代と機を見て<十あるものを一つに>しぼって伝える。現代人と現代社会に最も相応しい言葉を編み出し、同時に宗門の体制も同時代の衆生に開放していくことが必須であろう。
 現代人が仏教に期待し学びたいと思っているのは、蓮如上人が活躍された五百年以上前の課題とは違い、「本質論」と「体験」となっている。つまり私を救ってほしい≠ニいうだけではなくその正体を確かめたい≠フが現代人である。そして救いの内容についても「後生の問題」以上に「どうしたらこの人生が充実するか」という点に重きを置く。また体験的充実を求めていることにも気づかねばならないだろう。
(参照:{後生の一大事について}

 すると、現代において<十あるものを一つにする>、現代人にたやすく道理が受け取れるようにするためにはどういう言葉が適切だろうか、と考えると、身体的表現をもって生々しく道理を説くことが良いと思う。

仏を信じない人は、自分のことだけを思いわずらうから、心が狭く小さく、いつもこせこせと焦るのである。しかし、仏を信ずる人は、背後の力、背後の大悲を信ずるから、自然に心が広く大きくなり、焦らない。
『涅槃経』

浄土はつねに わたしの背後にある

(川上清吉)


背後の「浄土」が、無明・煩悩に浸ろうとする私の肩をたたいて目覚めを促してくれる。
無量億劫の功徳が、今、今、今と名告り、叫び、私の声となって現れ出る。
すると今が五濁悪世であり、この環境が穢土であることも解り、
経典に記された浄土の内容も軽々と信知できるではないか。
法蔵の願心は我が胸に宿り、阿弥陀の仏力は我が背を貫く
私たちの背骨には、如来の純粋経験が宿っているのである。
ゆえにこの苦悩は消し去ることはできないが、浄土がこの苦悩に意味を与えてくれる。
喜びも悲しみも無意味なものは何一つもない。
生きること全てが我が血となり肉となる。
そしてこの血肉は衆生全ての宝であると知れる。
この宝は我が腹に収まっていただいた人生の羅針盤。
真実信心と名づけられた打ち出の小槌。
あらゆるものを活かし宝にかえるこの信心こそ人類の本当の宝であろう。

 蓮如上人の生き様に学ぶと、一見単純な言葉の奥に種々様々な背景が見えるので興味深い。私としても語りたいことは山ほどあるが、上人を尊み、時代性を鑑みて、まずは<十あるものを一つに>しぼって述べてみた。願力の具体的展開は略し、有見と誤解されがちな表現の粗末さは容赦願いたい。

[Shinsui]

 聖典等資料

他力といふは如来の本願力なり。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二・81他力釈

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。

『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六 35

定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入する

『浄土和讃』66大経讃

定散諸機格別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし

『浄土和讃』81観経讃

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり

『高僧和讃』72善導讃

如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をすてはてて 利益有情はきはもなし

『正像末和讃』22三時讃

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる

『正像末和讃』39三時讃

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

『正像末和讃』65誡疑讃

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

『正像末和讃』66誡疑讃

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。

『唯信鈔文意』1

「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。

『唯信鈔文意』3

[Shinsui]

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