平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

死んで浄土へ往生できる人とできない人

南無阿弥陀仏そのものになってゆく

質問:

「死んだらどうなるか」との私の質問に、早速ご丁寧な回答を頂き、 恐縮です。

 ただ、私の理解力が乏しいため、何度読ませて頂いてもよく分からないところがあり、重ねてお尋ねする御無礼をお許し下さい。
 長々と書いて頂いた中で、「死んだらどうなるのか」の疑問に対して、「念仏を喜び称える人は死ねば浄土に往生し、仏に成る」と教えて頂いたと理解いたしました。

 そこで、以下の3点を質問させて頂きたいのですが、

  1. 「死ねば浄土に往生し、仏に成れる」とあるのはこの地球上に いる60億の全人類がみな、一人残らず死ねばそうなるのでしょうか。それとも往生できない、仏になれない人もいるのでしょうか。
     つまり今日も多くの人がこの日本で亡くなっているわけですが、今日亡くなった人はみな、全員、浄土へ行っているのか、それともそうでない人もいるのでしょうか

  2.  往生できない人がいるとすれば、そういう人は死ねばどうなるのでしょうか

  3.  往生できない人がいるとすれば死んで浄土へ往生できる人とできない人の違いは何でしょうか。

 私の尊敬する浄土真宗、親鸞聖人はどのように教えられているのか教えて頂きたく思います。

返答

 ご質問に対し簡略に返答ができなくて申し訳ありませんでした。誤解を恐れ長い説明になってしまいましたね。
 今回は前回の説明も含め、少し大胆に言葉を詰めて返答させていただきます。ただそれだけに<頭だけで理解しよう>などとは思わないで下さい。特に自分を固定的な実体としての「我」で考えてしまうと、この問題は全く解決不可能になってしまいます。方程式のように答えは出ない問題なのです。
 また、信心がまるで浄土へのパスポートのような、無形の免罪符のように考えられてみえたら本末転倒になってしまいます。前回の返答がなぜあれ程長いものになってしまったのか、機会を見つけもう一度ゆっくりお読みいただけましたら、この問題の肝心な点にお気づきいただけるかと思います。

◆ かなめは真実信心

 さて、実は1と3の質問につきましては、以前[全ての人が救われるのか?]に書きました通り――

かの安楽浄土の往生を願う人は、かならず無上菩提心すなわち他力の信心をおこさねばならぬ
ということが肝要であり、それは即ち
この無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度しようとする心である。

ということでもありますから、今回のご質問のように、信心の問題に目覚めた瞬間、一切衆生への思いやりの心が芽生えてきます。これは実に自然のもよおしと思われます。
 ただし、自身が正しい信に目覚めることがなければ、多くの人を道に迷わせる結果となりますので、まずは真実信心と偽や仮の信心について、その方向を見定めて下さい。

 親鸞聖人は『御消息』(1)の中で――

信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
 (信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません)
と書かれ、また『御消息』(39)では、
いまだ信心定まらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまふべし
 (まだ信心の定まらないような人は、臨終をも期し、お迎えをお待ちになればよいでしょう)
とあります。

 これは親鸞聖人の信心と、それ以前の例えば平安貴族の間に流行した信心が、全く逆の方向を向いて生死の問題を見ていることを示しています。
 つまり平安時代には、貴族がその繁栄を現世に留まらせるだけでなく<死後も安逸を貪れる世界で暮らす>ことを願って浄土往生を信じ、時代が下ると武士階級の台頭で力を失った貴族は厭世的な信心に逃げ込むのですが、そこには、<死後の安楽を保証されることによって現実の苦を耐える>という面が強調されました。しかしここでいう「耐える」は、えてして「現実逃避」になり、生きることに否定的な姿勢にもつながります。
 また、そうした<安逸な死後の幸せ>は、誰もそれを証明することなどできず、様々な神秘体験や神通力の発揮によって細々とその兆しらしきものを示したに過ぎません。こうしたことを信じるにはどうしても無理矢理信じ込む必要が生じ、これを自力の信として親鸞聖人は廃したのです。

 結局、聖人はこれとは全く逆の方向で往生の問題を解決されました。それは現実に如来の寿[いのち]とともに生き切ることで死の問題を解決する、もっと言うと死の問題などついでに解決してしまうのです。つまり<一切衆生を済度する>という如来の願いを受け入れ、私のこころざしにすると、一切の物事や人々を見る眼が如来の誓願に裏づけられ、いのちの尊厳を見抜き、<見抜かれた私のいのち>がその尊厳を現実に展開してゆくのです。つまり無常のいのちが常住のいのちに乗り換えられ、真実の展開の中に私が永遠に生きてゆくことになるのです。

 これは前述の<死後の幸せ>を前提とした救済と違い、今ここにおいて歓喜され明らかになってゆく(ただし厳密に言うと背後からの目覚めであり、歴史的に過去から照らし出される)救済です。
 死の問題にかかりっきりになって生の問題がおろそかになっていた以前の教義を批判し、生の問題を解決することで死の問題を解決する道を示されたのが親鸞聖人です。聖人がひたすら「信心」を勧められ「平生業成」を強調されるのも理由はここにあります。
 そしてそれは釈尊の説かれた正統な教えである「諸法無我」に順じた法であり、迷信的な蒙昧を廃した明らかな道なのです。つまり固定的実体として「我」をとらえ執着すれば、その行く末は破滅であり、無常の風に朽ち果ててゆくのは自明の理です。
 真実の救いは、真実の法、常住・不変たる法を本当の依りどころとして我を見出すところにあります。それがまさに「南無阿弥陀仏」の名号であり、私が永遠のいのちになってゆくということは、私が南無阿弥陀仏そのものになってゆくことなのです。

◆ 流転の中にも仏縁を

 2つめの質問、「往生できない人がいるとすれば、そういう人は死ねばどうなるのでしょうか」ということですが、これは「流転する」としか言いようがありません。例えば『礼讃文』(三帰依文)には、以下のように書かれています。

人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに至心に三宝に帰依したてまつるべし。
みずから仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して無上意をおこさん。
みずから法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて智慧海のごとくならん。
みずから僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して一切無碍ならん。
無上甚尽微妙の法は、百千万劫にもあい遇うことかたし。われ今見聞し受持することをえたり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

「人間として生まれてくることは難しい」、「真実の法を聞くことは難しい」ということで、これは「ありがとう(有り難う)」という感謝の言葉の語源でもありますが、感謝すべき今の境遇・機会を逃してしまったら、成仏のチャンスがあるかどうか分かりません。それは糸のついていない凧のようなもので、いきさきを見定めることは誰もできません。「風の吹くまま」と言えば聞こえはいいのですが、自ら立ち上がることなく、降りかかる縁に翻弄されているだけなのです。
 そして我執にさいなまれ、その苦悩を他人にやつ当たりすることで逃れようとして悪を重ね、死した後までもその悪業が引き継がれれば、その人はまさに悪の権化ということになってしまいます。
 ただしこれを、他人への評価に用いれば、とんでもない思い上がりになってしまいます。あくまで自分の一生の問題として問わなければ、宗教の押しつけになってしまいます。自らの生き様がまさに流転の人生なのではないか、という慙愧を法に見出すのです。

 しかしそうした流転の中からも、南無阿弥陀仏の名号は十方世界に超え渡り、苦悩の衆生を救済せずにはおれない、という誓願を保ち続けています。雑多な縁の中に仏縁を結ばせ、迷いの生に目覚めの機会を与えるのが如来のはたらきです。自力の信にとらわれた者にも、信の無い念仏を称える者にも、まだ仏の名さえ知らない者にもそのはたらきは及んでいます。
 そしてただひたすら<そのはたらきを受け入れてくれればなあ>と、涙ながらに勧め、いつまでもいつまでも待ち続けてみえるのが阿弥陀如来であり、親鸞聖人はじめ善知識の方々であり、「世々生々の父母・兄弟」(「父母のために念仏したことはない」の真意 参照)の救済に立ち上がられた先祖の方々であります。

 そのおはたらきの内に今の私がいるのだ、ということを大切に思って下さい。そして一切衆生の救済に立ち上がられた名号のはたらきとともに生きていって下さい。そうした讃嘆に貫かれたいのちは、死した後までも仏徳を現わしますから、まさに仏の権化として永遠のいのちを放ち続けるのです。


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