平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

浄土真宗には善の勧めはない?

念仏にはすべての行が凝縮されている

質問:

 たびたび失礼いたします。 「雑行を捨てよ」とは? を読ませて頂きました。
 まだ迷いがなくなりませんので、重ねてご教導を賜わりたくお願い申し上げます。
 信仰を求め始めたばかりで、報謝などといえる私ではありません。ただ人に法を聞かせてあげたり、財施をさせていただくことは善いことだと思ったのです。
 今回、積極的にやったほうがよいと仰有って下さり、心強く思います。(もちろん、まだまだ難しい理論を語れる私ではありません)

 ところが、知人は、「浄土真宗で雑行とは諸善のこと。ちゃんとお聖教に書いてある。諸善とは、簡単にいえば六度万行といって、布施をすることなど。布施にも、法施(人に仏法を伝えるとか)と財施(仏法のためにお金を寄付する)がある。善をすると、この善で助かりたいという心が出てくるので雑行をすることになる。信仰を求める人は、だから善をやってはいけない」と言われるのです。

 確かに、お金を寄付したり善をすると、恥ずかしながら、「私はこんなに善いことをしているから、阿弥陀様に救ってもらえるのでないか」 と取引する心が出てきて、離れ切れません。そんな私は善をやらないほうがよいのでしょうか。どのように信仰を求めてゆけばよろしいのでしょうか。

 さらに、その人は「最近、浄土真宗を名乗りながら、積極的に善を勧めている人がいるようだが、そんなことはおかしい。真宗に善の勧めはない。善を勧めるのは本願他力の御意に背くことだ」といわれるのです。
 善いことを勧めなかったら、悪に流される凡夫の集まりで、世の中は闇です。信じられないことを言われるのですが、親鸞聖人の教えられたことだ、と自信一杯言われると、心はフラフラです。
 どうぞよろしくご教導ください。

 また、つけくわえですが、「占いなどの迷信は、雑行ではなく、それ以前の問題で、論外だ」とも言われていました。

返答1

 仏教に出遭いながら、教学の一部分だけにこだわり、如来の真意を学ぼうとせず、極端なことを言って自他を迷わせる人は後を絶ちません。浄土真宗においても、こうした中途半端な理解、所謂「生悟り」は大きな問題です。
 私も浄土真宗を学びはじめた頃、こうした言を振りかざす人が近くにいましたので、<もし浄土真宗がそんな矮小な教えだったら僧侶になるのを止めよう>と思ったほどです。

 もちろん、勉強を進めていく過程で、そうした迷妄などすぐに見破りました。結論から言えば、浄土真宗は<本当の善>を勧める言葉に満ち溢れているのです。ただしそれは<取引や悪を裁く必要のなくなった善>です。
 以前、[業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か] に書きましたが、「疑蓋なき心」は常識的な善悪を超えて人々に施される心です。自分で起こし得る心ではありませんから「他力」とも言います。この心に触れた者は、善悪の裁きから自由になることで安んじることができ、その境地から如来大悲の実践に積極的に参画させていただけるのです。そして罪悪の慚愧は常に喜びとともに吐露されるのです。

 知人の「浄土真宗で雑行とは諸善のこと」や「善をやってはいけない」という言葉の意味は分かります。またその背景についてもよく知っています。例えば『真宗新辞典』法蔵館には――

雑行というのは,聖道門における諸善万行をおさめ,五正行に対すると五種雑行であり,それは人間に生れる因や天上に生れる因,あるいは菩薩の行などさまざまな解行がまじっているから雑であり,本来は浄土往生の因種でないが,心をめぐらしひるがえして浄土に向う廻心廻向の善であるから浄土の雑行というとする.

「正行」 より

とあります。

 しかし、問題となっている雑行としての諸善は、見返りを求め悪を裁く善を言うのであって、如来からふり向けられた善は大善であり、悪を裁かない本願のはたらきは、自らの慚愧を促し、あらゆる行が念仏とともにその本質を顕すのです。

恒沙塵数の如来は
万行の少善きらひつつ
名号不思議の信心を
ひとしくひとへにすすめしむ

『浄土和讃』 弥陀経讃(83)

 念仏の心の受けとれないところでは、私どもの行は確かに全て雑行になります。布施も、「この善で助かりたいという心が出てくる」ため、雑行でありましょう。もっと言いますと、如来の回向を疑うならば、念仏さえも雑行になってしまいます。
 しかし、ひとたび念仏の心に触れれば、「取引する心が出てきて離れ切れ」ないまま、布施は本来の布施となり、万行の雑行が本質としての念仏に転じられていきます。例えば「六波羅蜜」も念仏の中にこそその本質が凝縮されていますので、念仏の行者は六波羅蜜を行じようと努力しなくても、願力自然のはたらきにより六波羅蜜の本質を行じていくことができるのです。
 つまり、自力の六波羅蜜に執着するからいけないのです。念仏を通して味わえば、「布施」は思い上がりのない信心を広く勧める施しになり、「持戒」は自他を裁かないまま自らを省みる心となり、「忍辱」は念仏とともに苦難や迫害を耐え忍ぶ力となり、「精進」はたえず念仏を忘れない心となり、「禅定」は如来の本願を喜ぶ生活となり、「智慧」は如来の見開かれた浄土を受け入れる心となります。
 なぜなら、『讃仏偈』において六波羅蜜の完成も願われていて、結果として成就された徳が念仏に込められているからです。回向された信心と如来は同体であり、念仏の行者にその功徳の種が蒔かれ、育ち、身に満ちてくることを信楽(真実信心)というのです。

 そして肝心なのは、六波羅蜜を行じようと思わなくても、念仏を中心とした生活をしていると、こうした功徳はおのずと伴ってくる、ということです。逆に六波羅蜜にとらわれて、それだけを行じると、六波羅蜜の本質に届くことは難しく、念仏の功徳から離れることが懸念されますので、「雑行を避けよ」と言うのです。

 力みの無い行であってこそ本来の行なのですが、取引をする心も思い上がりの心も、慚愧をともなう念仏に摂取されて、雑行は助行・正行に転じられるのです。
 そして、自力で称える念仏であっても、そのまま諸仏護念の益に護られ、諸仏称讃の益に励まされ、助行、正行になっていきます。なぜなら、外からの摂護と内からの自覚および実践を成就する具体的な行が念仏だからです。

信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし

『正像末和讃』 誡疑讃(66)

 このように親鸞聖人も励まして下さっています。
 また蓮如上人も――

一、口と身のはたらきとは似するものなり。心根がよくなりがたきものなり。涯分心の方を嗜みまうすべきことなりと云々。

『蓮如上人御一代記聞書』末(139)

▼意訳(現代語版)
 口に念仏し身に礼拝のまねをすることはできても、心の奥底はなかなかよくなるものではない。だから力の及ぶ限り、心をよくするよう努めなければならないのである。

と、善を勧めてみえます。

 これは世間と妥協するための善ではありません。また相対的な善でもありません。如来の大悲よりたまわる大善、つまり信心の徳の内容としてのお勧めです。これを信の前後に限らず勧めてみえるのです。
 そして、人に仏法を伝える「法施」は特に重要で――

一、おなじく仰せに、まことに一人なりとも信をとるべきならば、身を捨てよ。それはすたらぬと仰せられ候ふ。

『蓮如上人御一代記聞書』本(114)

▼意訳(現代語版)
 蓮如上人は、「たとえただ一人でも、本当に信心を得ることになるのなら、わが身を犠牲にしてでもみ教えを勧めなさい。それは決して無駄にはならないのである」と仰せになりました。

と顕されています。
(※注 「身を捨てよ」:これについて、不惜身命の意ではなく、「高ぶった身を捨てよ」「地位や名誉心を捨てよ」の意とする解釈もある。[現代語版 訳注]より)

 また、「占いなどの迷信は、雑行ではなく、それ以前の問題で、論外だ」とありましたが、実はこうした思い上がりこそ迷信の正体なのです。本当は、「私たちは、占いどころか、仏の言葉さえ迷いの種にしてしまうほど迷妄性がある」と懺悔する中に念仏の心が受けとれるのです。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

『顕浄土真実教行証文類』 総序 より

▼意訳(現代語版)
 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心暗く知るところ少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

 つまり、占いなどに迷って傷ついている人は、正しい道理を聞けば迷いに気付くことが多いのですが、仏法の行信に迷っている人は、仏法そのものは迷いでない分、私自身(もしくは周囲)の迷いに気付かないことが多いのです。だからこそ念仏の大道をお勧めいただいている、ということを忘れてはならないでしょう。

 最後に、再度「現生十種の益」の「常行大悲の益」において、を引用させていただきます。

・・・凡夫であっても、万人を平等に救うと仰せられる阿弥陀如来の大悲召喚に応答して、大悲の本願に身をゆだね、その広大なはたらきに参加することは許されている。いいかえれば、如来の大悲に呼び覚まされて、苦しみ悩む人々と連帯しつつ、自他ともに大悲に包まれていることを讃仰するような身にならしめられることを「常に大悲を行ずる益」といわれたのである。

梯実圓 著『教行信証の宗教構造』第八章 第四節より


返答2

「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、「真宗に善の勧めはない」との結論は、まさに森が見えていない証拠でしょう。雑行と正行の境は、如来の法雨を受け取れるかどうかで、善を勧めるか否かではありません。

 また、「善いことを勧めなかったら、悪に流される凡夫の集まりで、世の中は闇です」とは至言で、如来の本願も国に三悪道の無いことを第一願で願われてみえます。如来は何のために本願を起こされたのでしょう。このまま地獄的現実の有様を放置して、「ただ信心だけ」と言っているのは、単なる言葉の遊びではないでしょうか。

われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ無量劫において、大施主となりて、
あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 重誓偈 より

▼意訳(現代語版)
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、
力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、
そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。

 一体、誰がどうやって如来の覚りを歎じるのでしょう。誰がどうやって如来の救済を喜ぶのでしょう。誰がどうやって世界に念仏の声を広めるのでしょう。本願を勉強する機縁の熟した私たちが、勤め励んで行なうしかありません。そしてその努力を「如来のひとり働き」と喜び頂けるところに、他力回向の徳があり、信心の味わいがあるのです。

 ところで、「自信一杯言われると、心はフラフラです」というのは、相手もあなたもまだ本質が見抜けていないからです。また勉強不足も影響しているかも知れません。不足していたり偏った情報を元にして話すから、こうした浮ついた自信が起き、間違いが起こるのです。もちろん、前回のことを説明するに際して、あなたが充分理解できていたかどうか、も問題ですが、「信仰を求める人は、だから善をやってはいけない」などとは論外です。まあ、機会がありましたら、前回と前々回と今回掲載された文章をそのまま知人に見せてあげて下さい。

 おそらくその知人は、自力・他力の関係を、断絶し、あい矛盾するものとして捉えてみえるのではないでしょうか。如来の本願のはたらき場所は、人間の生活の場であって、決して教学上や抽象的な場ではありません。私が善を求める心が起きる中で、それが現実の矛盾や限界に突き当たることで、自力の善も他力の導きであることに気付かせてもらうのです。自力を断つのではなく、そのまま限界のない他力に主体を転じさせていただけるのです。浄土真宗の特徴はこの「転」にあり、それはとりもなおさず仏教の本質でもあるのです。

 浄土真宗は仏教の一部ではありません。仏教の本質は念仏なのです。阿弥陀如来の本願展開の歴史こそ仏教の歴史なのです。親鸞聖人はこのことを『教行信証』において懇切丁寧に説明されてみえます。そのため古今の経論を多数引用してみえるのです。
 ですから、仏教の歴史を通じて、本質的に言えば念仏を勧めていない経典はありません。文字としては念仏が書かれていない経典も、奥底にその響きを感じることができるはずです。いわば、本願を説く準備としての経典が無数にあるのです。

 このことが領解できれば、古今の多数の僧侶たち、無数の仏教徒たち、そして経典編纂や論釋を顕した人たち全てが、結局は歴史の奥底に響く阿弥陀如来の声に導かれていたのだ、ということも領解できると思います。そしてその代表者が釈尊であると言えましょう。
「釈尊は阿弥陀如来の本願を説くためにこそ出世された」というのは正に真で、釈尊は本仏である阿弥陀如来のはたらきを出家の身において成就された姿なのです。そして在家の身で成就されたのが親鸞聖人はじめ全ての念仏の行者なのです。
 ですから逆に言えば、すべての経典の一字一句に念仏の声が聞こえる、経典に説かれる様々な行(修行)すべてに阿弥陀如来のはたらきが見える、ということが肯けるのではないでしょうか。そして念仏は全ての功徳が凝縮して名のり出ている姿なので最も尊く、しかも誰もができる易しい行なので最も如来の願いにかなっているのです。

 しかし、親鸞聖人や蓮如上人のこうした導きに遇いながら、正しい理解をされる方はまだ少なく、誤解をされる方は大勢みえます。実に残念なことと言わざるを得ません。特に近年の念仏に対する誤解は嘆かわしい限りです。
 この原因の一つに、私は<突出した『歎異抄』の影響>を挙げたいと思います。
 蓮如上人は『歎異抄』の最後に、以下のように但し書きを加えられていますが、この書物から学び始めることの危険性を熟知してみえたことが伺えます。

右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。

▼意訳(現代語版)
 この「歎異抄」は、わが浄土真宗にとって大切な聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない。

 まさにこの懸念は当ったと言えるでしょう。近代の浄土真宗教学が『歎異抄』を基本に置いたため、初心者の間で極端な解釈がはびこり、中々そこから抜けられず、「念仏こそ仏教そのものである」ことを頂く障壁となっているのです。
 そして結果として善を貶め、行を蔑ろにし、証は得られず、念仏の声さえ絶えはじめている有様です。これは信心を教学上の言葉に閉じ込め、現実に広げなければならない方便を最初から排除したために起こった当然の結果なのです。

『歎異抄』は信心を喜ばせていただいた後の副読本としては優れていますが、初心者がこれを読むと、むしろ『教行信証』の真意を外してしまいます。まずは阿弥陀如来の本願成就の経緯を正しく学び、頂いた功徳を私と社会と歴史の上に満たしてゆくことから始めていただきたいと思います。


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