平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

六道輪廻の迷信性

釈尊の真意は輪廻思想の批判

質問:

 六道輪廻についてのQ&Aを拝見しましたが、私の理解力不足のせいか、実はまだ府に落ちない点があります。
 今、岩波文庫「ブッダのことば」(スッタニバータ)を読んでいます。その中に「二度と母胎に宿ることはない」他、私には輪廻からの脱却を説いているように感じる箇所がいくつか出てきます。
 原文を何度読んでみても、注釈を照らし合わせても、どうもすっきり納得しないのです。
 釈尊の時代には六道輪廻は世間一般に浸透した概念であったそうですから、当然、それを受けて説かれただろうとは思います。

「目覚めた人になる」→「目覚めた人は輪廻や死後の世界に煩わされることがない」→つまり「目覚めた人はもはや輪廻と関係ない」=「もはや輪廻しない」
 そう解釈してしまうと、逆に、
「目覚めることのない人」→「輪廻や死後の世界に思い煩う」=「六道輪廻を繰り返す」
 このような解釈も成り立ってしまうのではないかと。

 それですっきりしないのです。
 (心が、ここで足踏みしてしまうのです。前世の悪業が現在の不幸の因縁である、もしくは、悪業は仏罰として報いる、といった脅し文句のような教えは、現代人としてどうしても受け入れる事が出来ません)

 もし、はっきりと輪廻を否定されている文献箇所がありましたら、教えていただけないでしょうか。

返答1

 経典理解の際、重要な点は、経典に書かれてある言葉は既成事実化したり固定化してはいけない、ということです。 私が仏意をいただく、真実の生き方になるため、という一点に集中して経典は書かれてある、ということです。 これを忘れて、「あんな悪人も覚れるのか」「この部分は輪廻を肯定している」という他人事として表面のみを問題にすると真意が損なわれます。

 バラモン教は、六道輪廻を既成事実として説き、「脅し文句のような教え」によって、虐げられ傷ついた人々をさらに苦境に落とすようなことを言っていたのです。 それを釈尊が批判し、既成思想から脱却することを説かれたのです。 輪廻は業の鎖で、これはバラモン教では「生れ」が問われたのですが、釈尊は「行い」を問題にします。「行い」を問うことが輪廻の意味を転換し、結果として輪廻の迷信性を失わせたのです。なぜなら「生れに前世の果が出る」と喧伝していたのですから、その「生れ」を問わないという示しこそが、輪廻の迷信性排除を表しています。

生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば高貴の人となる。
[スッタニパータ 462]

 釈尊は、あえて輪廻を直接否定される言葉は用いられませんでした。 否定するには、否定する証拠が必要で、証拠が無い限り否定はされないのです。 否定するのではなく、人生で何が重要か、何が人を苦しめているのか、という問題意識にメスを入れられました。 そして「生れ」ではなく「行い」を問い、行いを生む「心」を問うたのです。 その問いの結果「ニルバーナ」の境地を得られたのですが(悟りの境地が先で、皆に問うという順かも知れません)、これは「滅度」とも訳され、「煩悩を滅する」とか「死に切る」と意訳できます。
 執着を残さず、生き切ってゆくところに得られる境地でしょう。

 こうした境地の釈尊に、弟子や様々な人たちが質問し、それに応えられた言動が経典に編纂されて残っているのですが、ここで問題となってくるのは、彼らの宗教的動機です。

 初期の経典をまとめた出家者は、欲望や執着を抑えて修行する必要がありますので、 いきおい<愛の絆>や<豊かに生きる>ということに否定的な問いになります。 それに対して一般人の悩みは、国や部族の繁栄、商売の問題、家族や教育の問題、など多岐にわたるものですが、こうした問答は比較的後期の経典でまとめられていきます。(「経典結集の歴史」参照)

 すると一般の人にとっては、輪廻はそれほど問題ではなくなり、むしろ再び生まれ来て菩薩行を継続していく気概を持つことが、一切衆生済度を果すためには必要と考えるようになりました。 しかし、一旦その文言が固定化されると、やはり「脅し文句のような教え」になってしまいがちです。 つまり<あの人は浄土から再び現世に生れた人。この人は前世で悪行を積んでた人>と。そして社会的な差別を前世のせいにし、蔑視を肯定し、改革をあきらめさせた訳です。日本に残る部落差別などは、教えを固定化したせいで解決できなかった悪制度と言えるでしょう。「前世の悪業が現在の不幸の因縁である」という権力者に都合のいい理屈は、本来真っ先に批判されねばならないものです。

 とにかく経典は、私はじめ一切衆生を覚りに導き、生き甲斐のある人生、死んで悔いの残らない人生をいかに構築するか、ということに主眼が置かれていますので、そこを忘れずに経典を読んでいかなければなりません。

 経典をいただき、如来の誓願に疑いの心が解けほぐれる時、輪廻を既成事実として固定化する必要はなくなります。ただ仏智の不思議を仰ぎながら、人々に断絶をもたらし迷わせ傷つける思想を破り、人々と深く関わって同朋の意識に目覚めて、語りあうことができるのです。


返答2

 経典は釈尊の真意を全て正確に記しているとは言いがたく、そう言う意味で、経典編纂のバグの第一に<六道輪廻の無批判な受容>を挙げたいと思います。
 このバグのために仏教は矛盾を抱え、この矛盾を正当化するために教えが骨抜きになってしまいました。そのため仏の真意を反映させられなかった歴史が長く続き、生き方や社会の改革を妨げてきました。
 また、各時代に教学の改革が果されても、その熱意が冷えると、すぐにこのバグが勢いを増してきます。不幸を上塗りするような教学は大いに反省すべきでしょう。

「はっきりと輪廻を否定されている文献箇所」ということですが、直接否定していなくても、そうした意を含む言葉は探すと様々に出てくるはずです。
 一例をあげますと、[往生論註「願生」について 2] にも引用していましたが――

凡夫の謂ふところのごとき実の衆生、凡夫の見るところのごとき実の生死は、この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。
▼現代語訳
凡夫の思うような固定した衆生があって、凡夫の考えるように、それが実にここに死んでかしこに生まれるというようなこと、そういうことは本来ないので、ちょうど亀に毛のないようにその体がなく、虚空のように空無である。

 六道というのは、仏の真意からすれば、私たちの心と社会の迷いの有様を示したもので、これを「実の生」として輪廻に結び付けしかも個人がその果を全て背負うという思想は、外道思想以外の何ものでもありません。
 六道の縁に流される生き方から、仏縁により真実の法を聞くことができた。そこで人生の目標を定め、進んで実践し、その果を得る、という生き方に転じていけた。だから社会に仏縁を広げていこう、という基本姿勢を忘れてしまったら、仏教はその命を失います。
 ですから「足踏みしてしまう」という懸念もよく分かるのです。しかし仏の真意は六道輪廻を無批判に受け入れるものではない、ということは理解していただきたいと思います。


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