平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

全ての人が救われるのか?


質問:

 私の叔母は浄土真宗の寺の坊守をしているのですが、その叔母と先日話し合いをしました。

 私はかつて仏教系の学校に通っていたので、仏教について少しですが学ぶ機会がありました。その時に「阿弥陀仏は仏になる前に、『全ての人を取りこぼしなく救わない限り、私は仏にはならない』とおっしゃった方で、その阿弥陀仏が仏になられたということは、すでに全ての人は救われているということである」というのが親鸞上人の考え方であると、習ったように記憶しています。

 私は「全ての人」というのは、無宗教の人でも他宗教の人でも全て、ということだと信じていましたが、叔母は「南無阿弥陀仏を唱える心を兆した人をお救い下さるのであって、念仏を頼み申さない人は救えないということです」
「仏教徒は死後に仏にさ せて頂けますが、キリスト教徒は死後に神にはなれないのですよ」と言いました。本当でしょうか?
 キリスト教の人はキリスト教によって、イスラム教の人はイスラム教によって、それぞれ救われていくというのなら分かりますが、「仏教の信者のみ」救われるのならば、それを聞いた他宗教の信者は怒るのではないでしょうか。

 また、叔母は「もし仏教徒の家族の一人がキリスト教徒になったなら、死後は別々になって家族と会うことができないのですよ」とも言っておりましたが、本当なのでしょうか。

 私は宗教というのは、ダイヤモンドの様に沢山の面がある大きな太陽のようなもので、人々はその面の一つ一つを神仏だと思って崇拝していますが、実際は一つのものを崇拝しているのだと思います。そして、全ての人は死後みな救われ、宗教の境なく皆一緒に会うことができると信じています。
「自分の宗教の信者だけが救われる」という考え方が、数多くの宗教戦争を引き起こして来たのではないでしょうか。宗教とは、来るものは拒まず、去るものは追わず、宗教同士が互いの足を引っ張り合うことなく共生して行くのが理想の形だと思います。

<以下省略>



返答

> 「阿弥陀仏は仏になる前に、『全ての人
> を取りこぼしなく救わない限り、私は仏にはならない』とおっしゃった
> 方で、その阿弥陀仏が仏になられたということは、すでに全ての人は救
> われているということである」というのが親鸞上人の考え方であると、
> 習った

 この点について、誤解を解くために以下少し難しい文章を引用しますが、 意訳も付けますので、まずお読み下さい。

三輩生のなかに、行に優劣あり といへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

[曇鸞著『往生論注』巻下・解義分・善巧摂化章・菩提心釈]


 往生を願う上・中・下の三類の人の中で、その修行には優劣があるけれども、 いずれもみな、無上菩提心すなわち他力の信心をおこさないものはない。
この無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、 この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度しようとする心である。
衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂めて仏のまします浄土に生まれさせる心である。
こういうわけであるから、かの安楽浄土の往生を願う人は、 かならず無上菩提心すなわち他力の信心をおこさねばならぬ。
もし人が、この信心をおこさずに、 ただかの浄土の楽しみを受けることが絶えまのないということを聞いて、 楽しみを貪るために往生を願うような者は、また往生はできぬのである。
そこで、「自身の住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うが故なり」 といわれたのである。
「住持の楽」とは、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によってたもたれて、 楽しみを受けること絶えまがないということである。

 およそ「回向」ということばの意味を解釈するならば、 菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、 みなともに仏果に向かわせることである。

 「巧方便」というのは、 菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、 もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。
ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。
たとえば木の火ばしをもって、草木を摘んで焼き尽くそうとするのに、 その草木がまだ焼ききらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。
自分の身を後にして、 しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便と名づける。

 いまここに方便というのは、 すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。
それはかの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、 最もすぐれた方法だからである。

【意訳(聖典意訳七祖聖教 上)より】

『往生論注』は、親鸞聖人が『教行信証』等の著述に当たって大きく影響を受けた書ですが、 ここにはっきりと「無上菩提心」の重要性が示されています。 つまり「かの安楽浄土の往生を願う人は、かならず無上菩提心 すなわち他力の信心をおこさねばならぬ」ということで、 これは「自分が仏になろうと願う心」であり「衆生を済度しようとする心」でもある、 ということです。

 およそ真の宗教というものの本来の目的は、 人々の我欲や誤った人生観によって作り出される三悪道・地獄からの脱出であり、 人類(つまり私)の犯してきた罪悪を罪悪と認識し、それを恥じ、回心し、 新たな人生を打ち立て、優れた社会を創造してゆくことに他なりません。

 そうした中で「救い」とは本来、安逸を貪る世界に留まることではなく、 自らのいのちを焼き尽くして、衆生済度にいそしむ生き方になることであり、 実際には如来の成就された願力によって果たされてゆくことなのです。
 そうした如来の誓願を信じ、私の生き方の中心に据えることで果たされる救い、 これは浄土真宗や浄土宗で説かれる救いの方法ですが、 曇鸞大師も親鸞聖人も、「これこそ最もすぐれた方法」と肯かれたわけです。

 他宗教との関係ですが、方法は違っていても、真の宗教の目的に適った道、 つまり――
 我執を捨て、地獄を作り出す生き方を止め、真の生き方をめざし、 自他共にいのちの輝く社会を創出してゆく、
という生き方ができれば、もしくはそれを目ざしていれば、それは救われた生き方と言えるでしょう。
 そしてそういう救いは一宗教に属していることを足がかりに、 特定の宗教教団・組織の壁を超えたところの次元に救いが広がりますので、 宗教が違っていても、心は救いで通じているのです。

 しかし、我執に引きずられ、自分に都合のいい価値観をひるがえすことなく、 他人をその価値観で量り、漏れた者のいのちを踏みにじる、 これでは死んでからどころか、生きて目の前にいる人とも心は通じません。

 そうした生き方を宗教の名を借りて他人に押し付ける人がいますが、 これでは宗教に入る以前よりなお悪いと言えるでしょう。 仏教徒や真宗門徒を名乗る人でも、こうなってしまう恐れは充分にあるのです。

 しかしこれを教祖や教団幹部が率先してやっている宗教もあり、 こういう「教団の我執」とも言える教条主義を喜ぶような宗教では、 その組織の中でしか通用しない人生観が出来上がり、 とても救われた生き方とはなりません。

 また世界的な宗教でも、他宗教を蔑んだり執拗に攻撃したり、 自らの価値観を押し付けようとする宗教家が多いものです。
 宗教戦争が起るのも、そうした教条主義に陥った宗教家の妄言によるものであり、 そんな救いようのない宗教家を多数排出してしまう宗教は、 結局教えが未成熟であるか、間違っているかなのです。

> また、叔母は「もし仏教徒の家族の一人がキリスト教徒になったなら、
> 死後は別々になって家族と会うことができないのですよ」とも言ってお
> りましたが、本当なのでしょうか。

 家族同士が宗教が異なるため仲たがいしてしまっては、 死後どころかその時点で既に心は違う世界に住んでいるといえるでしょう。
 つまり、その人を育んできた家庭・家族の中心にあるはずの宗教に対し、 別の宗教を信じる人が出る、ということは、 その家庭の根底を否定する人がいるということですから、 もう既に別の世界に住んでいる訳です。
 大抵の場合は元の宗教に対する理解不足や、 他宗教者の悪口を真に受けてしまった場合が多いのですが・・・

 宗教の課題としては、こうした教条主義による家庭の断絶があり、 古今東西このドグマが解消された例は少なく、 宗教が断絶を煽っているのではないか、と思わざるを得ません。

 仏教経典には「事事無碍法界」といって、思想心情の違う組織どうしが、 いかに仲良く暮らしていくか、も課題として挙がっているのですが、 この点の克服を強調している教義は見受けられません。 異宗教者どうしが、妥協ではなく互いに認め合う関係になることも、 今後は宗門の課題とすべきでしょう。

> 私は宗教というのは、ダイヤモンドの様に沢山の面がある大きな太陽の
> ようなもので、人々はその面の一つ一つを神仏だと思って崇拝していま
> すが、実際は一つのものを崇拝しているのだと思います。

 宗教全般を総括して見る、ということは、一見正しいように思えますし、 事実インンテリといわれる人たちに人気のある考えなのです。 しかし、実はこういう考えは、ひとつ間違うと、 とんでもない傲慢な思想になってしまいます。
 つまり自らの存在を、仏や人を俯瞰して見る立場に登らせてしまい、 「自分の立場・生き様そのものを変革しなければならない」 という最重要課題をないがしろにしてしまうからです。

 これは宗教を語る場合、特に注意しなければならないでしょう。 これは私自身の失敗から話していることですが、 客観性を先立たせると、宗教は全く理解不可能になってしまうのです。
 この部分、分かっていただけるか心配ですが、本当に重要な問題です。

> 「自分の宗教の信者だけが救われる」という考え方が、数多
> くの宗教戦争を引き起こして来たのではないでしょうか。宗教とは、来
> るものは拒まず、去るものは追わず、宗教同士が互いの足を引っ張り合
> うことなく共生して行くのが理想の形だと思います。

 これは私も大賛成です。 他宗教者に対する自宗教の押し付けほど、見苦しく罪深いものはありません。
 例えば欧米諸国のアジア・アフリカに対する過去の植民地政策などは 実際には宗教の覇権争いが後押ししたわけです。 また、今も紛争の絶えない地域を見ますと、必ず宗教対立が存在します。

 宗教が、自分自身や思想・組織を「相対化・浄化・変換」する、 という本来の方向に向いていれば、その宗教は紛争の火消し役になりますが、 逆に、自分たちを「絶対化・固定化・標準化」する、 という間違った方向に向けば、 その宗教は紛争を起こす元凶になってしまいます。

 互いのちがいを認め合い、受け入れて共存していかなければ、 宗教が地獄を作り出してしまいます。
 そうした意味でも、「宗教は本来はひとつ」という一見平和な考え方も、 実は危険を伴う思想ということなのです。
「ひとつだと思わなくても、標準を決めなくても、思想がちがっていてもいいじゃないか」
「苦難の多い人生を共々助け合って生きる以外に道は無い」
 というところから本当の理解があり、心の壁が取り払われ、 同じ救いの世界に生まれる、ということが成されてゆくのではないでしょうか。

[O.M]


返答 2

 宗教と宗教との関係は、わたくしも考えた事があります。
 私も、勉強不足で、わからないことが多いですが、私なりに思うところをメールします。一緒に勉強させてください。

 やはり、真宗の場合、慚愧の心というか、自己の反省が大切なのではないでしょうか?
 これは、学生時代にどこかで読んだことなのですが、『麻原でも救われるのか?』と言うものがありました。
 それには、自らの罪の自覚が必要である、そしてそれを反省し、 恥じる心が必要である、というような内容が書かれていたことを記憶しています。
なので、この心がない以上極端な話、救いもないのではないでしょうか。

 「五逆罪を犯したものは救われない」という記述もあるように、 救われない衆生も存在するのではないでしょうか?
 まぁ、これはそれだけ悪い罪なのだよと言う戒めを示しているようにも受け取れますが、仏教徒以外の異教徒は、仏教に触れることのできなかった衆生ということになる。または、まだ機根の熟さない人ということになりますよね。

 ゆえに、これらの五逆罪を犯し【そのことに無反省】なもの、 仏法に触れる機会に恵まれなかったもの、 機根の熟していない者は、六道輪廻をへ巡る衆生という事になりますよね。

>その時に「阿弥陀仏は仏になる前に、『全ての人
>を取りこぼしなく救わない限り、私は仏にはならない』とおっしゃった
>方で、その阿弥陀仏が仏になられたということは、すでに全ての人は救
>われているということである」というのが親鸞上人の考え方であると、
>習ったように記憶しています。私は「全ての人」というのは、無宗教の
>人でも他宗教の人でも全て、ということだと信じていましたが、叔母は
>「南無阿弥陀仏を唱える心を兆した人をお救い下さるのであって、念仏
>を頼み申さない人は救えないということです」「仏教徒は死後に仏にさ
>せて頂けますが、キリスト教徒は死後に神にはなれないのですよ」と言
>いました。本当でしょうか?

 難しい問題ですね。
第十八願には、

もし全世界の衆生が、まことの心を持って、信じよろこび、私も浄 土に生まれたいと思い、たとえば十声でも念仏を称えて、浄土に生まれることがない ならば、その間、私は仏の悟りを悟るまい。ただし、五逆罪という重い罪を犯した者 と、正しい仏法をそしって妨げる者の場合を除いて。

[解説 礼拝聖典 浄土真宗聖典普及会編]

 とあるように、必ず救われるのです。
 阿弥陀如来は、仏となって以来念仏を称え、浄土に生まれようと願う者を一人残らず救いつづけているのですよね。
 しかし、如来の世界に生まれようと願っていない者と五逆罪を【懺悔しない者】であっては、救われないのではないでしょうか。 それゆえ、上記のとうりの衆生のように、六道輪廻することになるのでしょう。

>キリスト教の人はキリスト教によって、イ
>スラム教の人はイスラム教によって、それぞれ救われていくというのな
>ら分かりますが、「仏教の信者のみ」救われるのならば、それを聞いた
>他宗教の信者は怒るのではないでしょうか。
>また、叔母は「もし仏教徒の家族の一人がキリスト教徒になったなら、
>死後は別々になって家族と会うことができないのですよ」とも言ってお
>りましたが、本当なのでしょうか。
>私は宗教というのは、ダイヤモンドの様に沢山の面がある大きな太陽の
>ようなもので、人々はその面の一つ一つを神仏だと思って崇拝していま
>すが、実際は一つのものを崇拝しているのだと思います。そして、全て
>の人は死後みな救われ、宗教の境なく皆一緒に会うことができると信じ
>ています。「自分の宗教の信者だけが救われる」という考え方が、数多
>くの宗教戦争を引き起こして来たのではないでしょうか。宗教とは、来
>るものは拒まず、去るものは追わず、宗教同士が互いの足を引っ張り合
>うことなく共生して行くのが理想の形だと思います。

 宗教間の対話、そしてお互いの理解を深めて行くことは非常に大切な事だと思います。 しかし、厳密な意味で、救われるか救われないか、或いは、「神」や崇拝対象の概念は それぞれの宗教間で違うのですから、いい意味での差異は生じる事と思います。
 真宗での救いと、救われない者については、ボクのわかる範囲では、上に書いたとうりです。
 私も、まだまだ勉強不足で、わからない点や間違った点などが多い事と思いますが、一緒に勉強させてください。

[I.M]


 国際問題の宗教対立に関しては サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』に詳しいです。
 ちょっとしたベストセラーですが、ぶ厚いし読みにくい(^^;
 ダイジェスト版みたいな新書があるので そっちの方が読みやすいでしょう。

[H.S]


阿弥陀仏の成仏された道理から言えば、全ての人類は救われてしかるべきですが、現実には救われていません。それどころか、私自身の日暮らしも地獄・餓鬼・畜生性につながれたままです。
 道理と現実に落差がある。これこそが今の仏と私の課題だと思います。



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