平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成13年9月22日
2001年9月11日午前8時45分(日本時間同日午後9時45分)。今年の重大ニュース、というより、今後の世界情勢を大きく混乱させるであろう大事件が起こった。
ハイジャックされた航空機2機が、ニューヨークの『世界貿易センター』のツインタワービル(110階建て)に相次いで激突炎上し、ビルは倒壊。またワシントンのペンタゴン(米国防総省)にも同様の航空機が突っ込み、さらにペンシルベニア州ピッツバーグの南にもやはりハイジャック・テロと思われる航空機が墜落した。
この事件が今後政治的、軍事的、そして宗教的にどう影響していくのか、しっかり動向を見守っていなければならないが、<仏教徒として、自分に何か関われることはないか>と、自問自答しつつ毎日を送ってみえる人も多いのではないだろうか。
大きな事件でもあり、情報も錯綜する中、連盟としての見解を出すようなことは出来ないが、個人的に<念仏にお育てをいただいているからこそ、どうしても発言しておかねばならない>と感じたことが多々あるので、未整理ながら以下に述べてみようと思う。
世界貿易センタービルへの航空機突入は、多くのメディアによって映像が全世界に配信されたが、「まるで映画みたいだ」という感想も多く聞かれた。私自身もそう感じた瞬間があるのだが、実はこの感想は<そこに数千人の生身の人間が存在していた>という重い事実が、つい軽く考えられてしまった瞬間でもある。強烈な映像をくり返し見ているうち、いつのまにか思考や想像力が凍結してしまったことに自身でも驚くのだが、<あのビルや航空機内にもし私や身内がいたら>と、少し想像の足を伸ばしてみれば、事件の戦慄は身近に感じられてくる。
そして、ある意味、航空機突入以上に皆が驚いたのはビルの相次ぐ崩壊で、犠牲者もこれによって桁違いに倍加してしまった。日系人ミノル・ヤマサキ氏設計のこのツインタワーは、極力柱を少なく床面積を広く取ったチューブ構造により高層化と効率化を可能にした。現在世界各地で建てられている高層建築の基本になった建物である。
重厚なエンパイアステートビルが近代文明の象徴なら、軽妙で開放感あふれる美を見せたツインタワーはまさに現代文明の象徴であった。当時「ボーイング707が突っ込んでも大丈夫」と豪語していたが、残念ながら結果はそうではなかった。この象徴の余りにももろい構造上の欠点を知ると、バブル的に拡大してきた物質文明は、実は「平和」という礎があって初めて成り立っていたことに気付く。そうしてみると、今後「いかに平和を構築させるか」という課題に明確な答えを出せるかどうかが文明存続の鍵となるだろう。
思えば、物質的欲望の果てしない追求は、<効率優先の文明>と<弱者>を産んできた。そして前者は脆さを露呈し、後者はそこにつけこむ隙を見いだす。日本につぎアメリカがその膨れ上がった欲を<史上稀にみる繁栄>という形で謳歌していたのはほんの前のことだったが、日本経済は操縦不能に陥り失速、アメリカも少し陰りが見えてきたところに突然テロ組織が噛み付いてきた。
今回のテロ事件そのものの解決は、具体的に関わった者への報復でも済むかもしれないが、今後、世界がまた物質的欲望を際限なく追求する文明に戻ろうとすれば、必然的に<薄っぺらな繁栄>と<弱者>をくり返し輩出することになり、同様な事件が多発することは避けられないだろう。
私たちの社会は一体何を目標に、どのような価値観で成り立たせていけば良いのか。世界が余りにも密につながった現代文明だからこそ、真剣に考え直さなければならないだろう。
今回のテロに対し、アメリカでは当初「第二のパールハーバー」、「カミカゼ・アタック」という表現が使われていた。これはアメリカ側の受けた一方的な印象だが、「真珠湾攻撃」はあくまで軍事目的の奇襲であり「特攻隊」に民間人は同乗していない。問題の質からいえば、1995年東京で起きた「地下鉄サリン事件」の延長線にあるといえるだろうが、株の空売りによる莫大な利益まで見込んでいるとすると、そのやり口は計画的で、組織は果てしなく拡大する方向を示している。
その上、アラブ対イスラエルの歴史的・宗教的対立が遠い背景にあるため、報復が国レベルにまで拡大すれば、第二のベトナム戦争どころか第三次世界大戦までの事態が予想される。もちろん今のところその懸念を払拭するように動いてはいるが、実際に報復が行なわれ、事態が長引けば、欧米対中東の図式を印象に残してしまうだろう。
日本国内では事件以後、イスラム教やアラブ地域関連の書が売上を増している。私自身は差別問題に関して調べている中で知識を得たことがあるが、こうした情報収集の動きはもっと進めるべきで、[バーミヤン大仏破壊について]でも書いたが、特にイスラム教に対する偏見は払拭していかなければならないだろう。
特に、テロの攻撃を小躍りして喜んだ人々に対して、憎悪を募らすことは避けなければならない。他人の不幸を喜ぶ傾向は、何も彼らだけにあるものではない。自分自身の胸に手を当てて考えてみれば、共に悲しむべき業ではないだろうか。まして長く欧米の富を見せ付けられ虐げられて育った人々のごく一部が、一時的に不道徳と思える反応を見せたからといって非難するのは止めるべきだ。
しかし、である。
テロを組織し、実行させ、それによって富を蓄え、組織をさらに拡大する動きには警戒せざるを得ない。彼らのしてきたことは、暴力を正当化し、弱者をさらに弱い立場に追い込む卑劣な行為で、いかに歴史的背景を理解しようとも、その行動に順ずるべきではない。
テロとは結局、嫉妬心の暴走である。嫉妬心は誰にでもあるが、それを懺悔し、制御し、創造につなげていくのが宗教であり文明である。テロリストは盛んに宗教を口にするが、本当は彼らこそ宗教心が欠如しているのであり、教えを蔑ろにしているのである。
仏教と他宗教を比較することになるが、世界に数多ある宗教の中で、最も平和を尊んできたのが仏教であろう。決して宗教に上下をつける訳ではないが、これは歴史的事実である。これは教えの特徴としての面と、信徒の生活態度による面があるが、おそらく布教伝道を<法自身の展開>と考えていたところに起因するのではないだろうか。教えが真に素晴らしいものならば、信徒の生活がおのずと人を動かし、教線を広げていくのであるから、他宗教者を攻撃する必要はない。むしろ宗教の無理強いは、信仰の未成熟の結果であり、本心から信じられないから<絶対的なはたらき>に未来を託すことができないのである。
仏教者が他宗教者に平和を語れるとすれば、この「法の自然のはたらき」であろう。他人に教えを無理強いすることなく、ひたすら真実信心の示す道を歩み、活動していけば、どのような誤解があろうとも、やがてその大きく私たちを包み私自身に成り切っていて下さる道理が、世界を照らし、新たな世界を創造してゆける。「どちらの教えが正しいのか」などと張り合うことなど無意味で、それこそ宗教心を邪魔立てし破壊する行為であろう。
それとともに、仏教徒は様々な宗教を学ぶことも大切で、それは何度もいうように上下をつけるためではなく、世界の深層に流れる涙の深さを知るためである。
世界の歴史を学ぶと分るが、人類の歴史は殺戮の歴史でもある。宗教とは本来、そこに慈悲の涙を見、あらゆる人々と手を取り合って進める智慧を示すものである。
いまこそ宗教の本来を発揮する時であり、仏教徒もその責任の一翼を担っていることを自覚する時であろう。
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